※ツイッターのRTで見かけた、酔っ払って猫を洗う方の呟きより思いついたお話です。



「おい、ちょ、動くなって」

こっちの言葉は通じているのだろうが、それどころじゃない、といった感じだ。まぁ尻尾の部分は敏感だから仕方ないのだろうが、そこを洗い出すと暴れ出すそいつに、浴室に泡が飛び散る。最初にお湯で濡れた部分に散った泡はじんわりと溶けだしていた。

「ほら、もうちょっとだから」

ふわふわとした白に包まれてたそいつに声を掛けながら、再び尻尾の方に手を掛ける。だが、我慢ができないようで、力を少しだけ込めただけですぐに振り払われ、白が舞う。これ以上はどう頑張っても触らせてはくれなさそうだ。

「仕方ないな……」
「にゃぁ」

後ろの方は諦めて首から背中辺りの毛を指で梳いてやれば、途端、気持ちよさそうに目を細めたそいつに「ほら、流すぞ」と私は泡まみれの手をシャワーノズルに伸ばした。


私のストレス解消法、それは野良猫を洗うことだった。



最初は本当に気まぐれだった。タカ丸さんに常連客を取られてどうしようもなくイライラして、居酒屋でべろんべろんになるまで呑んで。酔っぱらって帰ってきたときに、道ばたに茶色の毛をもこもこに絡ませた猫がいて。
それで、面白半分に家に連れ込んで洗ってやって乾かしてやったのだ。次の日、野に放った時にそいつの毛がやたらとキラキラしていて。---------何かすごく綺麗で、胸の中の何かが緩んだのを感じた。

それが気に入った私は、後日、また別の猫を家の中に連れ込み、洗ってやった。昼に見るとよく分かる。外を歩いている猫の毛並みが一匹だけ違うことに。その見た感じが何か面白くて、猫用シャンプーを揃えた私は、こうして適当にその辺りの野良猫を捕まえては洗うことにした。

まぁ腐っても美容師だ。猫の方もまんざらじゃなかったらしい。最初は引っかかれたが、洗われるのが気持ちよかったのか、すぐに大人しくなって、だいたいの猫は尻尾以外はまぁ洗わせてくれる。
そんなことをしている内に、前に洗ったことのある野良猫が家の前で待っていることもあったり、そいつが別の猫を連れてきたりするようになった。まるで口コミを聞きつけたかのようなそれに、つい、人間の方もそれくらい評判が広まればいいのにな、なんて揶揄したくなるくらいだ。

まぁそれは置いておくにしろ、野良猫を洗うのが日課になるくらいに繁盛しているのだが、その中でも、こいつは常連客だった。一番最初に洗った、茶色のもふもふとした毛の持ち主。

「ほら、ダンブルドア、掛けるぞ」

私はそいつをダンブルドアと呼んでいた。
全体的に茶色の毛玉のような彼は、唯一、左前足に白色が混じっている。それは、まるでハリーポッターの額の傷みたいな雷の模様をしていて。最初はハリーとでも名付けようかと酔った頭で考えていたのだが、どう見たって老猫なそいつにハリーはねぇな、となって。
客の会話について行くために見に行った映画を思い出し、そういや、もっしゃもしゃの髭じいさんがいたな、となって、最終的にこの名前に落ち着いたのだ。

一応、他の猫にも何匹かは名前を付けているが、正直、見分けがついているのかは怪しいが、こいつだけは確実だった。雷の模様は目立つ。そういうわけで、私はこの野良猫を段ぶるドアと呼んでいた。

(まぁ、どうせ野良なんだから、向こうからしたら名前なんてどうでもいいんだろうけど)

けど、こいつは自分がダンブルドアと呼ばれていることをちゃんと分かっているようだった。現に今も、私の言葉に呼応するかのように、にゃぁ、と返事を寄越してこちらを見遣った。

「目、瞑ってろよ」

まるで小さい子どもに言うかのような口調になってしまったが、まぁそうは言っても人間のように手で顔を覆うことができるわけでもないわけで。できるだけ顔の方に水流がいかないよう、シャワーヘッドを調整しながら泡を落としていく。

「気持ちいいか?」
「にゃぁ」
「そっか……」

包んだ白がゆっくりと剥がれ落ちていき、足下を滑っていく。淡いシャンプーの匂いがぬるま湯のような優しい空間に広がって。す、っと心の中にある蟠りもそのまま流れていってしまいそうな、そんな気がした。



***

「さっさと乾かさないと風邪を引いちまうな」

ひたひたに濡れたバスタオルを洗濯機に放り込み、私はそいつに新たなタオルを被せた。にゃぁ、とおっとりとした返事が、真っ白のタオルの中から返ってくる。抱き抱えれば、柔らかな温もりがタオル越しに伝わってきた。
そのままストーブとドライヤーがある部屋に連れていく。

「とりあえず、ざくっと乾かすぞ」
「にゃあ」

適度にストーブから距離を取った位置にダンブルドアを降ろし、さっきまで彼を包んでいたタオルで再びくるむ。もしかしたら、犬や猫は人間とは乾かし方が違うのかもしれないが、生憎私が知っているのは人間のやり方だけなので、根本から水分を掻き上げるようにして拭く。
尻尾の辺りを触られた時はさすがにびくりと体を震わせたが、それ以外は大人しくタオルの中にいてくれて。数分もタオルドライをすれば、随分とふわふわした毛に戻りだしていた。
部屋の暖かさ的にも風邪を引くことはないだろうから、自然乾燥という手も使えないわけではない。だが、私は敢えてドライヤーを手にした。

「お前のみたいな髪質が人間にいたら大変そうだよな」

そう、このふわふわとした長毛は、ちゃんと整えないと絡まってしまうのだ。このままちゃんと一揃えした猫用のブラシを手に、一番弱く設定したドライヤーを手にする。普段、人に当てるよりも遠い位置に吹き出し口を構えながら、もう片手のブラシで梳いていく。

(これやっても、すぐに絡まっちゃうしなぁ……人間だったら、まず髪の量を減らして。それで、サイドの毛を流すように段をつけて、パーマっぽい癖を活かすようにしてワックスで固めてやるんだけどな……って、何考えてるんだろうな)

無意識のうちに、人間なら、と置き換えて考えている自分がいて--------嗤うしかなかった。それは、このダンブルドアが人間になることなんてない、ということではなくて。---------ついさっきまで仕事を辞めてしまおうか、消えてしまおうか、なんて思っていた自分が、そんなことを考えていることに、だ。

(本当に、何やってるんだろうな……)

どれだけ別のことを考えようとしても、最終的にそこに戻ってきてしまう自分に、馬鹿みたいだ、と己への鬱屈ばかりが積もっていって。耐えかねれないと感じた私は、持っていたブラシを手近にあったローテーブルに置き、ドライヤーのスイッチを切った。

「にゃぁ」

突如として現れた静寂の中で、怪訝そうなダンブルドアと目が合った。

「ん、乾かし完了」

本当に、と問いただすような眼差しに変わった彼から顔を背け、ドライヤーのコードを抜きにかかる。絡まないように纏めるのをいつも以上に丁寧にしたのは、怖かったからだ。段ぶるドアと向き合うことが。---------彼の目は、琥珀のように深く、そしてあまりに透いた色をしているから。だから、何もかも見透かされてしまいそうで。
だから、避けたのに。

「にゃぁ」

足下にすり寄ってきたダンブルドアが、あまりに温かくて。思わず抱き上げれば、にゃぁ、と彼は私の頬にすり寄ってきた。その温もりが優しくて---------何もかもが赦されるような、そんな気がした。

(どうせ猫だし、な……)

聞いたところで、にゃぁ、としか返事はできないのだ。こちらの言葉に同意しているのか、そうじゃないのかは声音で分かるけれど、でもそれだけだ。責められることも説教を垂れられることもない。ただただ、こちらの話を聞いてくれる存在なんだ、そう考えた途端、ふ、と心の底で絡まっていたものが解けていくのを感じて。

「お前も呑む? って、猫は呑めないか」

ダンブルドアを床に降ろすと、その側に転がっていたビニル袋から最後の一缶を取り出し、彼の隣に腰を下ろした。部屋の温かさに汗を少しだけ掻いているそれのプルタブを開ける。
にゃぁ、という声はどこか抗議めいていた。まだ呑むのか、と言いたげなダンブルドアに「ま、明日は休みだからいいんだよ」と弁明する。目に心配の色を浮かべた彼を無視して、私は缶を傾けた。

ちょっと温くはなってしまっていたが、開けたての刺激が喉に心地よい。彼を懸命に洗っていたせいで、汗を若干掻いていたせいもあるのかもしれないが、すとん、と下ったビールが乾きを癒していく。あっという間に、空になってしまった。

「はぁ、もうちょい買ってこればよかったな……あ、そういやまだ冷蔵庫にまだあったな」

この前、箱で買ってきて冷蔵庫に突っ込んだままのビールがあることを思いだし、立ち上がろうとした。だが、にゃぁ、と座っていた私の膝にダンブルドアが引き留めるように飛び乗ってきて。

「大丈夫だって、これくらいじゃ酔わねぇし」
「にゃぁーあ」

軽く首を振ったような感じに「え、違う?」と尋ねれば、今度は「にゃぁ」と同意を受ける。じゃぁ何なんだ、と聞きたいところだが、向こうは鳴き声でしか伝えられないわけで。こっちから質問を降る。

「明日、ゴミ出しだから起きれるか?」
「にゃぁーあ」

またしても外れらしい。何だ、と首を傾げればダンブルドアは「にゃぁ。……にゃぁあ」と私とビールを何度も交互に見やっては鳴いた。後は何だろうか、と最終的に行き着いた考えを口にする。

「体の心配?」
「にゃぁぁ」

どうやら正解らしい。ふわふわとした尻尾を揺らしたダンブルドアは、それから目を細めた。抗議をするように私の手にあったビール缶に向かって「にゃぁ」と叫んだ彼の背を、撫でる。

「いいんだよ。壊れれば。……いっそのこと体でも壊してしまえば、簡単に辞めれるのに、な」

今、仕事を辞めたら一生、指を差される。あいつはタカ丸さんにかなわなくなったから逃げ出したんだ、って。そんな汚点が付くことは許せなかった。かといって、このままあの職場にいて自分の客がタカ丸さんに取られていくのを、平然として見ていられるような余裕もなくて。

(マジさぁ、体を壊して辞めます、とかだったら一番楽なんだけどな……)

にゃぁ、と見上げてきたダンブルドアの眼差しは酷く閑かで。そこに佇むのは、ただただ哀しげな色だった。責めるわけでも、説教をするわけでもないそれ。にゃぁ、と零す彼の温もりがあまりに温かくて、

「っ」

私はダンブルドアを、その温もりを引き剥がすようにして、ビールを取るために立ち上がった。にゃぁ、と追いかけてきた声に、聞こえないふりをして。



***

(ってぇ……うぇ……)

眼窩の奥が灼けるような痛みは、そのままこめかみまで貫いた。入り込んでくる光が目を突き刺す。胃がひっくり返っているみたいだ。
気持ちが悪いは頭が痛いはで、最悪だった。ここまで二日酔いが出るのは久しぶりだった。自分に掛かっている毛布に、とりあえず寝ようとはしたんだろうな、と思うが、引っ張ってきた覚えもなかった。

(それもそうか……結局、何本呑んだんだろう?)

普段は途中でセーブするからかなくすことはあまりない記憶も、定かじゃない。ただ寝返りを打とうとして動かすことすら鈍痛を伴う体に、本当に飲み過ぎたな、とさすがに後悔が募る。

(まぁ、いいか……どうせ今日は休みだし)

部屋に入り込む日の角度的にはまだ昼前といった所だろう。夕方までになんとか起きあがれたらいい方だ、とヘドロのように重くへばりつくような体に思う。このまま、ゴロゴロしながら過ごそうかとも思ったが、それにしては日の光が邪魔で。体を動かすことで感じる痛みと、この後も眩しさに晒されることを天秤に掛け、前者を取った私は裏返った胃を宥めながらゆっくりと体を起こして。

「あ、起きた」
「は?」

意味が分からなかった。

「え、ちょ、は?」

背後からの声に振り向けば、見たことのないやつが-------いや、正確に言えば見たことのある顔が--------自分とそっくりなやつが、そこにいた。まるで鏡を見ているかのような気分に陥るくらい似ているが、けど、それは写しでないのは、彼が今おそらく自分がしているであろうものとは全然違う表情をしていたからだ。

「え、は?」

本当に意味が分からねぇ。そっくりなやつが目の前で笑ってる。何か夢を見ているのだろうか、と思わず手の甲を抓ってみたが、痛みがはっきりと突き刺さった。現実だ。

「ちょ、な、お前、何なんだよ?」

口を吐くのは訳の分からない言葉だったが、それだけ混乱に頭が回ってない。何で目の前に自分と似たやつがいるのか。もちろん、双子や兄弟なんてものは自分にはいない。そうなると、いったいこいつは何者なのか。

「僕は雷蔵」
「らいぞう?」
「あぁ、そうか。君は僕のことダンブルドアって呼んでたもんね」

こちらに答えるというよりは一人で納得しているかのように頷いている彼に、どうにかして「何? え、何なんだよお前?」と問いかけを絞り出せば「あ、そうか。ごめんね」と彼は私の方を見やった。

「君の知っている名前だと、ダンブルドアだよ」
「は? ダンブルドア? ……ダンブルドアってあの猫の?」
「そう」

ほら、と彼は私の方に左手を差し出した。そこにあるのは、傷だろうか。----------------白い稲妻のような、模様。それを見せながら彼は「これで信じてもらえた?」と、琥珀のような目を緩めた。





***

「僕も君に嘘を吐いてるんだ」
「嘘?」
「僕、いつか三郎に髪を洗ってもらうのが夢だったんだ」