(あぁ、早く雷蔵に会いたいな)
ふ、と浮かんだその笑みに思いを馳せていると、靄掛かった意識の向こうで、よく知った音楽が流れてきた。電話だ。
途端、意識が覚醒する。この音楽は、と急いで引き取った、途端、ぱ、っと目に飛び込んできた画面の文字に確信を得た私は慌てて指を滑らした。

「もしもし、雷蔵っ!」

まだ数コールだというのに、途中で切られてしまってはたまらない、と飛びつくようにその名を呼ぶ。だが、そんな焦っているのは自分だけなのだろう、受話口からは『どうしたの?』とびっくりとした響きが私に届いた。

「え?」
『何かあった? すごく急いでたみたいだけど』
「……いや、大丈夫だ」

気恥ずかしさを咳払いに代えて誤魔化してみるものの「本当に?」と雷蔵の訝しげな声音が届く。あぁ、と相槌を打ちつつ、「雷蔵こそ、どうしたんだ?」と話題を変えることで話を逸らすことにした。

『あ、うん、どうしたっていうか、後でスーパーに行くんだけど、何か買う必要のあるものないかなっと思って?』

眠る前に考えていたことを思いだし、以心伝心だな、と口にしようとしたが、直前になって何か気恥ずかしくて止めた。代わりにクリームシチューのルーを頼もうとして、ふ、と思い立った。どうせ作るのならば、ホワイトソースから作るのも悪くない、と。

「小麦粉買ってきてくれねぇか?」
『小麦粉? ケーキでも焼くの?』
「いや。シチュー」
『え、ルーから作ってくれるんだ!』

雷蔵の声が跳ね上がった。気がした。もしかしたら私の思いこみかもしれない。けど、それでもいい。雷蔵が喜んでくれるかもしれない、そう考えるだけで私の胸はふわりと温かなものになったのだから。

「あぁ。だから、薄力粉でいいから」
『薄力粉ね、了解』

他は、と尋ねてきた雷蔵に「あとは大丈夫。菓子とか飲み物は適当にハチのやつとかが買ってくるだろうし」と答えた。心の中で、早く来てくれたら嬉しいけどな、と付け足した自分は相当に浮かれていると思う。勘右衛門のやつがいたら「鉢屋キモい」と言われかねないだろう。
自分でも自覚はある。だが、『じゃぁ、後でね』と雷蔵が電話を切った途端、私の口から飛び出したのは、そのシチューのCMソングで。つい、笑ってしまった。

***

中断していた煮込みも再開し、ちょうどいい頃合いになってきたところで私は時計を見上げた。ハチのメールに詳しい時間は書いてなかったが、もう少ししたら来るだろう。
あたりはすっかりと夜が降りてきていた。少し前に点けた部屋の明かりが、くっきりとした陰影を作り出す。
と、電子音が誰もいない部屋に響いた。給湯が完了した合図に、この前できなかった柚湯でも今夜はするかな、と準備に取りかかろうとして、ふ、と気づく。

(あ、しまったな。別に湯船に湯を張らなくてもいいのか)

自分は冬場でもシャワーだけなのだが、雷蔵は湯船に浸かるのが好きな方らしく泊まっていくときは、必ず風呂にお湯を溜めることにしている。
いつものその癖で、今日もまたスイッチを押してしまったのだが、よくよく考えたら今夜は他の奴らもくるわけで。そんなゆっくり風呂に入らないかもしれねぇ。

(まぁ、けど、入れてしまったものは、今更どうしようもねぇよな)

入りたい奴は入ればいいか、と俺はこの前、バイト先のおばちゃんからもらった柚を、ネットの中に放り込んだ。忘れないよう、それを浴室の手前のドアに置いておく。

(今夜は冷え込みそうだな……)

 脱衣所の床から伝わってくる冷たさに、足下から身震いが走った。さすがに雪まではいかねぇだろうが、この時間でこの寒さなのだ。夜になればもっと冷え込むだろう。
みんなが入るであろう部屋に戻れば既に辺りは闇がりが浸食しつつあった。人が集まったら窓の結露が酷くなりそうだな、と思いつつ、外から丸見えにならねぇよう、カーテンを引く。あとすることは、と周囲を見回して、ふ、と満杯になっていたごみ箱が目に止まった。

(あ、あと、ゴミ、出しておかないとな)

このアパートは古いが安いが売りだ、と入居の際に聞いたから、それなりに覚悟していたのだが、それなりにリフォームはされているらしく気になることはなかった。
自炊がしたいから二口コンロで、という点以外はこだわらなかったが、実際、入居してから気づいた一番の利点は、いつゴミを出してもいい、という点だった。自分みたいにバイトなどのせいで生活が不規則になりがちな人にとっては、これほどありがたいことはないだろう。

(曜日とか休みとか考えずに出せるのは助かるよな)

透明の袋の上部を縛ると、名前がきちんと書かれているのを確かめると、いっぱいに詰まったそれを玄関まで移動させる。どうせ、数十秒だし、と部屋着のまま何も羽織らず、転がっていたクロックスに足を突っ込んで。そのままドアを開けて、

「は?」

夢を、見てるのかと思った。----------ガキが、そこにいたから。

「子ども?」

赤ちゃんとまではいかないし、小学生ではなさそうだ。幼稚園くらいだろうか。ちっこい子どもが私の家の扉の前で倒れていた。信じられねぇ。何で子どもが自分の家の前に? 幻? 夢? まだ寝ぼけているのか?
理解の範疇を越えている。混乱した頭では状況が全く飲み込めなくて、なきものにしよう、と思わずドアを閉めてしまっていた。

(何なんだ、これ)

意味が分からねぇ。そんなに自分は疲れているのだろうか、と瞼を降ろして目頭をぎゅっと手で押さえてみる。巡る血潮がそこにじわじわと集まっていくのが分かる。その熱に目がすっきりと覚醒していくのを感じ、私は押しつけた手を瞼から離した。だが、視界に収まる世界はわずかにぼやけていて。
だから物の輪郭がはっきりとしたものになるのを待ち、それからもう一度、ドアを開けた。

(夢、じゃねぇ……)

何度、瞬きをしても変わることのない、光景。子どもが地面に転がっていた。