「いつも、誰に手紙を書いてるんです?」

ふわっと透いた匂いが辺りを溶かした。ことり、と置かれたグラスの中で浸かっていた氷が崩れた。だが、液体の中で、ぐるり、と渦巻く靄はない。よくよく見れば、グラスもさっきまでのとは違って、寸胴で背が低いものだった。どっしりとしたそれは、酒ではなく水なのだろう。

「あ、すんません」
「いえ」

明らかに呑みすぎている自分を心配して水を出してくれたのだろう。酔っぱらいのことと手紙のこと、二重の意味を込めた詫びを伝えて、俺はペンを転がすとグラスに手を伸ばした。冷え切ったそれは熱を籠もらせてしまった指先に気持ちいい。

(誰、か……)

宛名に記された名を唇に刻めば、ぴり、っと痛んだ。それを宥めるためにグラスに口を付ける。澄んだ冷たさが熱に爛れた体に気持ちいい。ふわふわと頭の芯から揺れる感覚が、少しだけ収まったような気がした。

「……よく手紙って分かったっすね」

このバーテンから話しかけられるのは、そういえば初めてだった。いつもカウンターの隅で物静かに佇んでいて。時折、こちらが次の酒を頼もうかと思っているタイミングで「おかわりはいかがですか?」と声を掛けてくるくらいで。この一年、ずっと通っているのにちゃんと会話を交わしたのは初めてだった。
そんな親しくもない相手だというのに、水を出されたことで途切れかけていた話題を自分から復活させたのは、酔いに任せて全部吐き出してしまいたかったからだろう。誰かに、聞いてほしかったのだ。

「あ、すみません。紙に罫線が引かれていたの、前に見たことがあったので」

申し訳なさそうに唇を押し下げたバーテンに慌てて俺は首を振る。
暗いから分からないだろう、と思い、一応、店の邪魔にならないようカウンターの隅でこっそりと隠れて手紙を書いていたのだが、どうやらしっかりと見られていたようだ。

「や、こっちこそ、バーなんかで手紙書いちゃってて」
「あーいいですよ、別にお客もそんないないんで」

ちょっと自嘲するようにバーテンは店内に視線を巡らせた。つられるように俺もまた首から上だけを背後に向ける。
カウンター席は俺と反対の端に初老の男性が一人、それからソファ席にカップルが二組ばかり。金曜の夜にしては人が少ない方なのだろう。大通りから二つばかり入った路地の隅にあるこのバーは、隠れ家的な存在だった。

「俺はここ、好きですよ。静かだけど静かすぎないっていうか、落ち着くっていうか」

少しだけ離れたカップルらからは、内容は分からないけれど楽しく談笑している雰囲気は伝わってくる。決して煩くはない、けれども、閑かでもない。それが居心地がよかった。------------もし、完全に無音だったら、きっと耐えきれないだろう。思案する己の心の声が響きすぎて。


一番最初の手紙は、娘と別れた直後だった。
レターセットだなんて、学生の頃にも買わなかったようなものをとりあえず買って(可愛らしいキャラクター物の方が喜ぶんだろうな、って思ったけど、さすがに女子高生とか女子中学生に混じって買う勇気なんてのはねぇから普通のやつだ)そうして、部屋に帰った。誰も俺の帰りを待つことのない、あのアパートへ。
俺しかいないその部屋で、買ったばかりの便箋を広げ、ペンを握った。俺の想いを伝えるために。----------だが、娘の名前を綴っただけで、その便箋を丸め捨てた。あまりに思い出が鮮やかすぎたから。

(っ)

とてもじゃねぇが、この部屋で手紙は書けない。そう考え、俺は彷徨い求めた。手紙を書く場所を。だが、煩すぎず、そして閑かすぎないところはなかなか見つからなかった。騒々しいときっと気が散ってちゃんとしたことが書けねぇし、かといって、自分の家みてぇに人の気配が全くしない場所も、色々と思い出してしまって辛い。
便箋を広げても、結局、一行も埋めることができずにゴミ箱に捨てる、そんな日々が続いたある日、この場所に俺は流れ着いた。ゆっくりと秋が朽ちていく、そんな季節のことだった。
さっきまで足下を踏みしめていた枯れ葉の匂いは、このバーに入った途端、すぐに、しっとりとした芳醇な香りに呑み込まれてしまった。ゆったりとしたメロディに馴染む、温かな談笑。まるでここだけ時間の流れが違っていた。
カウンターの隅を陣取って俺は適当にウィスキーのロックを頼むと、便箋を広げた。どうせこの店に来るのも今日だけだから、と。
酷く酔っていた。ぐにゃりと頭の芯から揺さぶられる感覚に、完全に世界がぐるりと回っていて、ふわふわとしていた。気が付けば俺は最後の一文を綴っていた。--------パパは君のことが大好きだからな、って。
それ以来、毎週末、この場所に来ては娘からの手紙(正確に言えば元妻から届く、淡々と綴られた近況報告)を読み返し、そして返事を書くのが俺の習慣になった。
だが、その手紙は、一通も娘の元には届いてねぇ。
綴るまではよかった。きちんと最後に『パパより』と署名し、封筒に入れてシールを貼る。そこまでは、できる。なのに、店の外に出た瞬間、まるで魔法が溶けてしまったかのように、急に出せなくなっちまうのだ。駄目な父親なんかから手紙をもらっても、って。

さすがに俺から手紙を送りたいと言っておきながら、一通も送ってないことに元妻から最終通告が届いた。年内に娘に手紙を出さないのならば、もうこちらからも手紙は送らない、と。出す気がないのならそう言ってくれ、と。
もう二度と関われなくなってしまう、繋がりがとぎれてしまう、そうと分かっていて焦っているのに、どうしても俺は『パパより』という一言で締めくくられた手紙をポストに出すことができなかった。

(今日も、一緒なんだろうな)

ポストを前にして蹈鞴を踏んで、そうして結局、中に入れることができずに捻りつぶされてゴミ箱に捨てられる運命なのだろう。どうせ、出せねぇんだ。そうと分かっているのに書き綴っている自分がいかに愚かか、と、ひそと嗤っていると、ふ、と便箋に淡い影が落ちた。

「じゃぁ、いっそのこと差出人を父親じゃなくてサンタクロースとかにするとかすればいいんじゃないか?」

ことん、と置かれたグラスの中で、琥珀がぐるりと渦巻いた。