ふ、と墓石の前の花が目に留まった。暑さのせいだろうか、すっかり枯れてしまっていて、あれだけ鮮やかだった朱色も今は朽ち果てた茶色が垂れ下がっている。今も突き刺すような陽差しの元で、どんどんと萎れ枯れていっているように思えた。

つい数日前に迎え火をしたばかりだかりというのに、もうお盆が終わってしまっているのだ。月日の移ろいの早さを妙に実感してしまう。----------こうやって、淡々と日々だけが流れていき、歳月だけが重なっていくのだろうか。

そう考えるだけで、ぞわりとした吐き気が胃の裏側を這い上がった。

(っ……あと、どれくらい生き永らえなければならないのだろう? 一年くらいか? いや三年? もっと……例えば十年とか? いや、それ以上かもしれないな……)

十六歳までにステーシー化しなければ、いつ死ぬのか、それこそ、神のみぞ知ることだった。ステーシーとなってしまえば、確実に近いうちに死ぬことができる。だが、その機会を逃してしまえば、残りの永い人生を独りで生きていかなければならないのだ。
愛しい人たちを失った今、たった独りで。思い出を忘れていきながら。

ぐにゃりと歪む視界。立ちくらみだ。気が遠くなりそうになり、俺は墓石が据えられている土台の部分に屈み込んで目を瞑った。無理矢理に降ろした闇の中で光がちかちかと瞬く。脳を支える部分が揺らいでいた。ますます迫り上がってくる気持ち悪さ。息をするのさえ、重たい体。

(このまま父さんや母さんの所に逝けたらいいのにな……)

このまま眠りに就いてしまいたかった。---------それこそ、永遠の眠りに。
だが、俺は眠りに落ちることができなかった。じりじりと焦げていく瞼裏に光が透けて見える血潮の流れを感じてしまったから。一度、気づいてしまえば、妙に追ってしまって逆に意識が冴えてきてしまった。耳を浸食していた蝉の鳴き声も、だんだんと大きくなってきている気がする。

(あぁ、でも、目を開けるのも面倒だった)

立ちくらみが少しずつ引いていく感覚はあったが、投げ出した体は動かすことすら億劫だった。何もかもが面倒だというのに、どうして心臓と呼吸は律儀に動き続けるのだろうか。全てを放り出してしまいたい、と願っているはずなのに。熱に炙られた皮膚の下、拍動は途切れることなく取り込まれた酸素を全身に巡らしている。

「っ」

 ひや、っとした感覚。それに引き寄せられるようにして目を開けて、

「お、よかったぁ。死んでるのかと思った」

                        金色の光の中で、彼は笑った。



***



「これ、やるよ。本当に死んでるのかと思ってさ、マジ、すげぇ、びびったし。こっちまで歩いてきたら、いきなり人が倒れてるじゃんか、心臓止まるかと思ったっての。つーか、最初、幽霊かと思ったんだよな。ほら、ここ墓場だし。けど、普通に人っぽいから違うなって。でも死んでたらどうしよう、ってすげぇ焦ってさぁ」

 持っていたペットボトルを俺に押しつけるなり、こっちが口を挟む間もない勢いで彼は喋り始めた。どんどんと取り散らかされた話題。よく喋るな、なんて、ぼんやりと外側から眺めていると、ふ、と彼の目が俺の手元に落ちた。

「全然飲んでねぇじゃねぇか」

そう指摘され、ペットボトルをずっと握りしめていたことに気づく。温度差のせいだろう、ペットボトル自体はまだ冷たかったが、すでにボトルの周囲は汗を掻き始めていた。つぅ、と重みに耐えかねた水滴が伝い落ちる。

青と白を基調としたロゴ通り、中身はスポーツドリンクなのだろう。少しだけ持ち上げれば、やや濁った白がたぽんと揺れた。途端、乾きが呼び覚まされる。すっかりと体内の水分は蒸発してしまったんだろう、飲みたい、という強烈な欲に襲われる。たとえ見ず知らずの人がくれたものだとしても。

(っ)

 嗤うしかなかった。------------------あんなにも死を願っていたはずだというのに、体が生きたがっているという事実に。

 両親が死んだときもそうだった。どれだけ哀しみに浸っても、生きていれば腹だって減るし、喉だって渇く。死にたい、と思っている傍から体は生きることを望んでいるのだ。ひどい矛盾、だ。

「あ、別に毒とか入ってるわけじゃねぇから」

 俺が黙としてしまった理由を勝手に想像したのだろう、焦ったように告げられる。そう言われて改めてよく見れば、確かにキャップの所が僅かにずれていた。けれど、別にそのことを気にして黙り込んでしまった訳ではないだけに、どう返事をしようかと迷いに落ちる。

「さっき、そこで買ったやつだし。あ、けど、俺の一口飲んじゃったからさ、飲みかけで、悪いな」

勘違いしたまま勝手に話をどんどんと進めていくそいつに、ほ、っと安堵する。自分の醜い内側を吐露できるほど、目の前のやつのことを信頼してないから。いや、信頼以前に、彼が何者なのかすら、知らないのだから。

「けど、本当に、大丈夫だから」

 力説する声に続いて「あ、けど、気になるなら自販機で新しいの買ってくるけど」と彼は俺が持っていたペットボトルへと手を伸ばしてきて。そこまでしなくてもいい、と俺は軽く首を振り「ありがとう」と伝えると、キャップを外した。おぅ、というそいつの返事をボトルを傾けながら聞く。

 ごくり。喉が歓喜に大きく上下した。唇が触れた瞬間から、水分を欲していた体が叫ぶ。もっともっと、と。一旦、潤いだした喉は留めるということを知らなくて。結局、全部飲み干してしまった。

「……ごめん」
「や、いいよ。つーか、そんだけで足りてる?」
「あー」

 正直なところ、渇水していた土地がようやく湿り気を感じた、くらいの程度だった。今まで水がなくても平気だったはずなのに、水を捕ってしまったからだろうか、さっき以上の乾きを感じる。曖昧に返事をすれば、俺の気持ちを察したかのように、彼は軽く眉を潜めた。

「絶対ぇ足りないだろ、あれじゃ」
「まぁ……けど、大丈夫だ」
「大丈夫じゃねぇだろ。飲まねぇと絶対ぇ熱中症になるって」

 この暑さだし、と彼は空を仰いだ。俺もつられて視線を上に転じる。位置こそ、やや低い位置に移動してきているものの、勢いは変わらない。突き刺すような太陽の光に襲われて数秒も見ていられなかった。くらり、と眩んだ世界を整えるために、ぎゅ、っと目を瞑った俺の耳に、砂利の擦れる音が届いた。

「ちょっと待ってろ。自販機で買ってくる」

 引き留めようと開けた俺の目に飛び込んできたのは、光に溶ける後ろ姿だった。



***

 両手に一本ずつ、それから腕にもう一本ペットボトルを抱えてきたそいつは、走ってきたのだろう、瀧のように汗を流していた。おまたせ、と言われ、ずっとその場にいたことに気づく。逃げ出さなかったのは体が怠かったからだ、と何故か自分に言い訳をしていたことにも、また。

「ほら、こんだけあったら足りるだろ」
「ありがとう」

 まだ水滴が盛り上がっていない、冷え切っているペットボトルが俺の方に差し出された。それを受け取ろうとして、ふ、と気づく。

「あ、金」
「え? あぁ、そんくらいいよ。俺の奢りってことで」
「よくない」
「いいって、いいって。別にたいした額じゃねぇし」
「いや、よくないだろ」

 たかだか数百円。そうは分かっていても、見知らぬやつに奢られるのは何か気になった。これがもっと年上の人だったらその言葉に甘えたかもしれないが、何せ目の前にいるやつはどう考えたって同世代だ。数百円だって馬鹿にならない。そう思って断言したのだが、

「あ、けど、俺、今、財布持ってなくって……悪い」

 まさかこんな風になると思ってなかったから、ポケットには携帯しか突っ込んでこなかった。あんなにも、きっぱりと言っておきながら、いざ財布を持っていなかったということに、気まずさが募って声が段々と小さくなっていくのが自分でも分かった。

「いいって。んな気にすることでもねぇし」
「……借りを作るのは、あまり好きじゃないから」

 今から家まで引き返して財布を取りに行こうか、と重たい体を引きずり上げようとした瞬間、頭上で「じゃぁさ」と楽しそうな声が響いた。
 
「俺と付き合ってくれねぇか?」

笑顔。いきなり何を言い出すのだろうか、と意味の分からない言葉に、思わず顔を上げた先にあったのは、へらへらと冗談を叩くようなものとは違う、まっさらな笑顔だった。あまりに綺麗で、綺麗すぎて---------思わず目を逸らしたのに、瞼裏というスクリーンに灼き付いてしまったかのように残像すら光の中にあった。

「……付き合うって、どこに?」

そういう意味じゃない、と彼の真っ直ぐさに何となく察してはいたが、買い物か何かだろうという希望を込めて俺は尋ねた。どこって、と首を軽く傾げた彼は「あぁ」と納得したように頷き、それからまた笑った。

「そういう意味じゃなくて、恋人になってくれねぇ、ってことなんだけど」
「っ」

それって、という言葉は「付き合ってくれたら、そうだなぁ」と腕組みをし何やら考え出してしまった彼の前で弾き戻されてしまった。言葉の意味もそいつが言っていることの意図も理解できたが、だからといって、話の展開に付いていけているわけじゃない。困惑に取り残されている俺を無視して、彼は唐突に声を上げた。

「あ! 権利をやるよ」
「……権利? 何の?」

けんり、と耳慣れない言葉に、その音が意味を成すまでに少し時間が掛かった。けど、その次の言葉の方が、それ以上に、理解できなかった。

「俺を殺す権利」
                     金色の光の中で、彼は、また、笑った。



(中略)



「おい、起きろって」

どうにかして起きてもらおうと、さっきより強く揺さぶったのだが、そのせいで膝に置いてあった文庫本が滑り落ち、ばさっと竹谷の足下に広がってしまった。頁が折れてしまう、と慌てて拾おうと手を伸ばして、

「あっ」

肩に掛かっていた竹谷の重みのせいで体勢が崩れた。どうにか支えようとしたが勢いに逆らいきれず、そのまま彼の方に倒れ込んでしまって。-----------受け止められる温もりに、心臓が飛び跳ねた。

「っ」

さすがにこれには竹谷も目を覚ましたらしく、

「ってぇ……ん? え? 兵助?」

困惑したような声が体の下から届いて、俺は慌てて跳ね退いた。
竹谷に状況を尋ねられる前に「それ、拾って」と本を指さして頼む。目は合わせれなかった。え、と意味が分からなさそうな声音は、しばらくして俺の指しているものを理解したのか「あぁ」と合点がいった返事となって戻ってきた。

「ん」
「どうも」

さっさと立ち去ろうと、手渡された本を受け取るやいなや立ち上がったのだが、「え、ちょ、もう暗くなってきてる!?」という竹谷の驚きに溢れた声に引き留められ、つい口にしてしまっていた。

「もう六時過ぎたからな」
「六時? え、俺、寝てた?」
「寝てたも何も、熟睡だから」
「えっ、マジで!?」

 慌てふためく竹谷が周囲を見回すのに合わせて、俺もまた視線を少しだけ辺りに向けた。西の裾野へと流れ落ちていく闇。弱々しく響く蜩の音色に空気を転がすような虫の声が混じりだした。さっきよりも濃密になってきている夜の気配。

「俺、寝たんだ……すげぇ」
「すげぇって何だよ」
「え、あ、いや、こっちの話。てか、もう六時とか、俺すげぇ寝てたんだな。悪い」

まぁ小一時間って所だけど、という俺の言葉は「本当に、マジ、こんな風に寝るつもりなかったからさ」と一人騒々しい竹谷には届いてないだろう。一応、自分の言は覚えていたらしく「寝かせてやる、って言っといて俺が寝ちまったとかあり得ねぇよな」と自分に突っ込みを入れて騒いでいた竹谷は、急に俺の腕を掴んだ。

「お詫びに、家まで送ってってやるよ」
「は? 何で、そうなるんだよ」
「え、だって暗いし。つうか、そもそも、兵助が帰るのが遅くなっちまったのはさ、俺が起きるまで待っててくれたからなわけだし」

 竹谷の目差しの真っ直ぐさに気恥ずかしくなって、つい、目を逸らした。

「……お前が肩に寄りかかってきて、動けなかったからな」

だから別に待っていたわけじゃない、そう続けるつもりだったのだが、

「けど、待っててくれたんだろ?」

先んじた竹谷の笑顔があまりに嬉しそうで。-----------俺は口を噤んだ。腕から彼の手を剥がし、歩き出す。背後から「え、兵助?」と問いかけが追いかけてきたが、それを無視してずんずんと歩みを進めて行けば「なぁ、兵助」と焦った声音と共に足音が迫ってきた。数メートルもすれば、走ってきた竹谷にすぐに追いつかれてしまった。すでに蔭に色合いが同化しつつある影が足下で並ぶ。

「どこに行くんだ?」
「どこって帰るに決まってるだろ」
「あ、だからさ、家まで送ってくぜ」
「……別にいい。俺の家、近いから」
「けど、ほら、もしステーシーとかに襲われたりしたら危ないし」

 そう口実を並べてくるが、実際の所、その条件は竹谷も同じなわけだ。いや、俺よりも竹谷の方が危ういかもしれない。見回りをしている再殺部隊にでもあったら、色々と厄介なことになるのは竹谷の方だ。けど、俺はその事を指摘せず、別のことを言い切った。

「別にステーシーに襲われても、死んでしまってもいい」

酷い言い様だな、と我ながら思う。これから死に向かっていく奴に対して、そんなことを言ってしまったのだから。当然、竹谷の表情が曇った。馬鹿正直に、真っ直ぐに生きてきた印象のある竹谷のことだ。説教でもされるかもな、と思う。「生きたくても生きることができねぇやつもいるのに」だとか「そんなに死にたいのなら代わってくれ」だとか。

ぎゅっと噛みしめた唇を見守る。昏い翳を瞳に落とした竹谷は、けれども、笑った。
それは困るなあ、と。

「困る?」
「あぁ。だって、もし兵助が先に死んじまったら、誰が俺を殺してくれるんだ?」

その笑みがあまりに眩しいもので、俺はそっと目を逸らした。足下でまた蝉が死んでいる。その周りに群がっている蟻。地上に登ってきたときは、あれ程までに美しく透いていたはずの羽根が今はもう散々となっていた。そこに降り注ぐ蜩の蝉時雨。そこを編み込むようにして紡がれる秋の音色。一つ吸い込んだ空気は冷たくて。

「……誰って、再殺部隊とか」

 だからだろう、己の声が震えたのは。

「それだけは、絶対ぇに嫌だっ」

気圧された。劈いた叫びは、今までにない荒々しく強い語気。びくり、とその覇気に体が竦んだ。さっきまで蜩や虫の音色が満ちあふれていた世界が、一瞬にして閑まり返った。竹谷のあまりの変わり様に驚いて息が詰まって、俺は俯いた。

「あ、悪ぃ。でけぇ声出しちまって」

そんな俺に気づいたんだろう竹谷はと裂けた口をひん曲げるようにして噤んだ。死骸と化した蝉の光のない瞳と目が合ったまま、いや、と首を振ると、竹谷のぐっと握られた拳が視界に入った。爪が立たれた掌は血が妙な場所に滞っているのか、一部がやたらと白かったり、変に赤みがかっていたりした。

「あいつにらだけは、絶対ぇに殺されたくねぇし」

 きっぱりとした言葉、だった。
再殺部隊が歓迎されるものではないのは分かっている。ましてや竹谷はステーシーにもうすぐなるかもしれないのだ。自分を殺しうる存在を嫌うのは分かる。だが、それだけじゃない気がした。
そもそも再殺部隊はそのための組織なのだ。ステーシー化したやつらを殺すための組織。そうと竹谷も分かっているはずだ。なのに、ここまで頑なな竹谷を見ていると、単に彼がいずれステーシーになるから再殺部隊を毛嫌いしているということじゃなさそうだった。------------さっきの悲痛な叫びに、憎しみが籠もっているような、そんな気がしたから。

(もっと別の理由があるんだろう、な……)

いつも笑っている竹谷をここまで怒りに駆り立てる理由が気になった。だが、その出で立ちがはっきりと拒んでいた。尋ねてくれるな、と。耐えるようにきつく結ばれた唇、震える拳、昏い瞳。その全てが、聞いてくれるな、と叫んでいた。

 カナカナカナカナ…

いつしか戻ってきた蜩の音色が耳に寄せては返っていく。そこに入り交じる虫の鳴き声。沈黙を支配しようとするそいつらに、こめかみが痛む。このまま騒がしさの中にいるのは苦痛で。俺は竹谷に話しかけた。彼が拒否したするかしないかギリギリのラインのことを。

「……だいたい、何で俺なんだ?」
「何が?」
「再殺の権利を渡す相手。他にも適任がいるだろ? 家族とか恋人とか」

初対面だったのだ。普通、得体の知れない相手に自分を殺す権利を渡しなんかしないだろう。少なくとも、俺はしない。もし、自分がステーシー化すると知ったなら、もっと気心知られたやつに頼むだろう。

「だって、恋人は兵助だろ」
「……はいはい」

当然、とばかりに笑った竹谷に適当に流せば「えーだって本当のことだろ」と妙に力説されてしまった。茶化されたというよりも本気の声音に、違う、とここで押し問答するのも厄介な気がして、俺はそれ以上突っ込むのを止めた。
それ以上に、彼が口にしなかった方が気になった。竹谷に「家族は?」と聞こうか迷ったが、けど、敢えて言わないということは、何かがあるのかもしれない、と俺は口を噤んで。沈黙のうちに流すことにした。

「何だよ」

俺が黙った理由を、呆れたとか見当違いのところで考えたのだろう、少しむくれたように竹谷は俺の方を見た。訳を説明してこれ以上混ぜ返すのも、ややこしくなりそうだと俺はもう一度「はいはい」と頷いた。何だよ、と唇を軽くとがらせた竹谷は、ふ、と笑った。

「愛さなくていいから」

詩を詠うように彼はその言葉を紡いだ。

「俺のこと好きにならなくていいから。愛さなくていいから……だから、殺して」