<1>

「何だ、お前も逃げてきたのか?」

不意に掠めた笑いに目を開ければ、そこにはどこか楽しげに唇を緩めている鉢屋がいた。「も?」と尋ねれば「逃げてきたんだろ?」と再び、その問いを受ける。別に誤魔化すこともないだろうと、俺が「そうだな」と正直に伝えれば、彼はその愉快そうな笑みをますます深めた。

「明らかに興味なさそうだったもんな」

最初の店とは違い、話しかけてくる彼の言葉に気安さを覚えるのは、共犯者的な感情を持ち合わせて。知人というにはもう少し親しく、友人と呼ぶにはあまりに互いのことを知らない。ただ、『も』という助詞から、匂わせられたのは、『共犯者』あるいは『類友』という言葉だった。その証拠に彼は「私と一緒で」と付け足した。

(嘘だ)

咄嗟にそう思ったのは、彼の印象が百八十度変わってしまったからかもしれない。一軒目の店で俺自身が彼とほとんどしゃべらなかったこともあるのだろう、寡黙、というイメージが俺の中に刻み込まれてしまっていた。いや、寡黙、というには語弊がある。----------いったい、彼が何を考えているのかさっぱり分からなかった。

勘ちゃんとはともかく、友人だという竹谷との会話に混じることもなく、ただただグラスに口を付けては煙草を吹かし、綺麗にむしった魚を箸でつまむ。それから、時々、思い出したように携帯をいじる、という感じの鉢屋は、つまらなさそうというよりも、その感情ですら浮かんでなくて。その目は、まるでガラス玉のように外の景色を映し出しているだけだった。それが一軒目。

だが、二軒目--------つまりは合コンの場になって、豹変した。その場の空気を作り出しているのは紛れもなく鉢屋だった。最近のテレビドラマに始まり、好きな芸能人だとか見た映画だとか好きな音楽だとか、それからファッションの話。どんどん話題を広げていく鉢屋に、最初は別人かと思ったくらいだ。時々、竹谷をいじっては笑いを取り、俺や勘ちゃんに話を振ったりと忙しい。なおかつ、その合間に相手の服や小物を褒めたり、趣味に対して「いいよな、それ」と相槌を打つのも忘れない。
さっきがさっきまでだっただけに、俺はあんぐりと口を開けるしかなかった。

「そう言う割に、お前はずいぶんと楽しんでいるようだけどな」



<2>

盆も正月も関係なく突然に帰ってくる代わりに、突然いなくなる。その繰り返し。

(待ってるつもりはないんだけどな)

お前は面倒くさがりだからな、と残像の三郎が笑う。そうなのかもしれない。全てが面倒なのだ。三郎を詰めて一緒にいてほしいと繋がりを深めることも、この部屋から出て行って三郎との関係を断ち切ることも。
そうして十年。
ものぐさにも程がある。外面を繕うことは、まぁ、それなりにしてきたから周りからは几帳面と思われがちだが、実際、俺よりも放浪している三郎の方が遙かにきっちりしている。

(まぁ、だったら、何でいつまでも俺との関係をずるずるとさせているのか、って話なんだろうけど)

三郎は物事にきちんと白黒つけて生きているタイプの人間だった。-------------俺とのこと以外はすべてにおいて。
だから、それはそれで不思議だったのだが、そのことを追求することすら面倒と思うのだから、どうしようもないと自分でも思う。

(まぁ、それもこれが最後だろうけど)

誰かに扇動されたわけでもない。自分の意志だ。ただ、意味はなかった。この鞄が空っぽのまま床に転がっているのを見て、ふ、と思い立ったのだ。-----------------この鞄に荷物を積めて出て行ったらどうなるだろうか、と。



<3>

(あ……)

ちょうど「先にシャワー浴びてくる」と三郎が脱衣所に向かった瞬間で「三郎、電話」と閉まりかけた扉に向かって呼びかけてみたものの、届かなかったのか俺の言葉はドアで閉ざされた。
同時に、テーブルを震わせていた振動が途絶えた。まぁ急ぎの用事ならまた後で掛けてくるだろう、と思った瞬間、再びのバイブ音。今度はメールだ。二、三秒、画面が光った後、暗がりが落ちる。

(さっき電話かけてきた人と同じ人だろうか? けど、メールだったら別に呼びに行く必要もないか)

一瞬、できた空隙に響くのは脱衣所から聞こえる物音。メール一つで、わざわざ、三郎の裸を覗きに行く気にもなれず、後で伝えればいいだろうと判断する。
三郎がシャワーから戻ってくるまで適当にDVDでも見ていようと、テレビ前のソファに移動しようとした瞬間、また携帯が震えた。--------------そこからひっきりなしに鳴り響く携帯のバイブ音に、ようやく知った。日付が変わったことに。

(そっか……三郎の誕生日になったんだな……)

もちろん忘れていたわけじゃない。そうじゃなければ、こんな平日の夜にわざわざ三郎の家に泊まりに来ていない。
付き合うようになって初めての誕生日。意識すればするほど緊張してしまう自分に、わざと意識の外に置いていた。---------何てお祝いの言葉を掛ければいいのか、それすら分からなかったから。