※五忍サンプル

(あーまた朝が来てしまったな……)

どれだけ閉ざしても隙間からねじ込んでくる光は瞼裏で赤みを増してチカチカと瞬き、強引に目を開けようとしてくる。それに必死に対抗している地点で目が覚めていくのが分かっていたが、それでも、

(起きたくない……)

呼吸するのすら億劫に感じる気だるさが体中を蔓延していた。最悪に重たい体はベッドと一体化してしまったかのようだった。あるいは鉛が詰まっているか。指先を動かすことすら、鈍いスピードでしか動けない自分がそこにいた。

(だるい……)

どうにか再び、眠りに落ちていけないだろうか、と、ぎゅっと目を瞑って抵抗する。だが、すっかりと醒めてしまった意識は浮上していく一方だった。
ただ、体だけはそのままベッドから、眠りとは別の、更に深いところに引きずり込まれそうになっていく感覚に襲われる。このまま一日、動かずに済めばいいんだけどな、と夢物語でしかない空想を描いていると、

「っ」

耳が破れるかと思った。最大音量にしてあるアラームは鼓膜をつんざく。煩くて仕方ない。とりあえずその音の源である携帯へと、いや、その方向へと手を叩きつけるようにして振り下ろした。
勘でしかなかった。だから当たる部分が悪かったのだろう、がつっ、と痺れが伝わってきた割に、耳元でがなり立っているメロディが消えることはなくて。仕方ない、と俺は目を瞑ったまま携帯を引き寄せた。
一層、音量が大きくなったかのように思えたのは、より耳に近くなったからだろうか、それとも設定として段々と音量が上がるようにしてあるからだろうか。とにかく、煩い。
ここで目を開けるのは負けなような気がして、瞼を閉ざしたまま必死に広い画面に指を滑らす。適当に真ん中であろう、という所を押せば、ぶちっ、とメロディが途切れた。唐突に訪れた空隙。どうやら、目当ての場所を押すことができたらしい。目覚まし代わりのアラーム音が消えれば一気に静まりかえった朝に、このまま身を投じてしまおうと、さらに目を頑なに瞑る。

(……まぁ、こうしてられるのもあと五分なんだろうけど)

また五分後になればやんやと言ってくるであろう携帯を、このまま床にでも投げ捨てて壊してしまいたかった。------------どうせできないのだろうけれど。

(実際、あと五分後には起きるんだろうな……)

この場に留まっていたい、とどれだけ希っても、五分後に鳴る目覚ましに俺は布団から出て、会社に行く支度を始めるのだろう。社会からドロップアウトなんてする勇気、持ち合わせてないのだから。この二十六年、世間の流れから踏み外さずに生きてきたのだ。今更、組み込まれた社会から逃げ出すなんて、できるはずもない。

(あと、三十年以上もこんな日々が続くのか……)

ぞっとするが、けれど、何があっても自分は目覚まし代わりの携帯を遠くに投げることはないのだろうということもまた確かなことだった。
そんなことをうだうだと考えていれば、五分などあっという間で。再びがなり立てられた目覚ましで布団から出た俺は、のろのろと身支度を始めていた。散々、心の中で嘆いていたにも関わらず、だ。予想通りと言えば予想通り。そして、いつものことと言えば、いつものことだった。

(まぁ、いつもと言っても、特にこの半月だけど、な……)

職場間交流という訳の分からない人事異動のせいで今の職場に来て、半月。そう、まだ半月しか経ってないというのに、すでに俺は辞めたくて仕方なかった。

(前の所は、そんなに思わなかったのにな……)

辞めたいと思ったことはなかったが、かといって、別に前の仕事が好きだったというわけじゃない。生きていくために、つまりは給料を得るために淡々と業務をこなしていただけに過ぎない。
あの仕事を楽しいと思ったことは一度もなかった(まぁ仕事柄無理もないと思うが)が、働き出して一週間もしないうちに、とにかく前の職場が恋しかった。前の仕事が自分に合っていたのかと問われれば、今よりは、と答えるだろう。それくらい、今の仕事が苦痛で苦痛で堪らなかった。

(出社拒否、なんてできたらいいけど)

そうは思いつつも、俺の体は勝手に動いていて、腕がスーツの袖を通っていた。甲冑みたいに重たい、なんてくだらない冗談が頭に浮かぶ。まぁ、あながち間違いでもないのかもしれないが。戦いに出るようなものなのだから。

「はぁ」

息苦しいのはかっちりと締めたネクタイのせいなんかじゃ、きっとないだろう。行きたくない。このまま休んでしまいたい。心底、そう希いながらも、俺はネクタイをはめてスーツを着て、こうやって仕事に出ていくのだ。

(がんばれ、自分。がんばれ、がんばれ)

壊れた機械みたいに、ひたすらに心の中を巡るその言葉。がんばれ。がんばれ。がんばれ。あまりに繰り返しているせいか異国の呪文にすら思えてくる。それでも、自分にそう言い聞かせなければ、今にも崩れ落ちてしまって二度と立ち上がれない、そんな気がして、心の中で唱える。がんばれ、と。

***

一面の、白。光が溢れかえっていた。

(あ、花か)

兵助、っと名を呼ばれて振り返ったのだが、広がっている白があまりに眼前過ぎて、一瞬、何なのかが分からなかった。ふわ、っと漂った甘い匂いに個々の輪郭がはっきりして、それが花だということに気づく。そうして、それを抱えている手の持ち主にも。

「竹谷」

それと同時に、自分が職場に--------結婚式に着いたことにも。

「悪いけど、そこのドア、開けてくれねぇか」

これ下に置くわけにいかねぇんだよ、と今日の挙式で使われる花々なんだろう、両手で抱えた白を基調とした花やグリーンに俺に頼み込んできた。
竹谷はこの式場に出入りしている花屋のスタッフの一人だった。花嫁の持つブーケはもちろん、式場や披露宴のテーブル、ロビーに花嫁控え室、トイレにいたるまで、会場のありとあらゆるところを飾る花を竹谷が担当している。

「兵助、頼むよ」

直接、名指しで頼まれては無視するわけにもいかない、と俺は手を掛けたまま半開きだった通用口のドアをそのまま大きく開放させた。

「よっ、と」

脇からはみ出しそうな大輪のカサブランカ。それをぶつけないようにすり抜けた竹谷は「サンキュ」と笑った。----------まるで光のようにぴかりとした笑顔。
いや、と首を振った俺に竹谷は「いやーマジ助かった。結構な量の花だったけどいけっかな、と思って抱えたら、抱えれたんだけどさ、通用口の方は自動ドアじゃねぇこと、すっかり忘れてて」と零した。ぼやいているくせに、表情はそのまっさらな笑みを湛えたままで。

(いったい、何が楽しいんだろうな)

俺は竹谷の笑顔しか見たことがない。いつも笑っている。人生を謳歌しているとでも言いたげな笑顔。-------------そんな竹谷が、俺は苦手だった。

(いや、嫌いだ、だな……)

竹谷はいつも笑顔だった。偽りでもなく造っているのでもなく、心から楽しそうな笑顔。そんな笑みはぴかりと輝いていて。きっとたくさんの人たちに常に愛されてきたんだろうな、とか、光の中でしか生きてきたことがないんだろうな、とか思わずにはいられない。

(俺とは一生無縁の場所で生きている人なんだろうな……)

僻みだ。そう、僻み。
こうやって楽しそうに仕事をしていて、飲み会とかどっかに遊びに行くにも中心人物になっていて、いつも誰かしらに囲まれていている竹谷が羨ましくて----------羨ましすぎて、むかついた。仕事もプライベートも充実していて、人生楽しいです、みたいな竹谷といるだけで、何もかもが上手くいってない俺はすごく惨めな気分になるから。