※十色サンプル

(あ、)

昏がりにぼんやりと浮かび上がったのは、川だった。噛みついてくるかのごとく、風が僕を唐突に襲った。叩きつける雨は礫をぶつけられたかのように痛く、そして、冷たかった。
何も、これが初めてのことではない。ここまでずっと真っ直ぐに歩いてきたのだ。これまでも目にしているはずだし、身に受けてきたはずだった。けれど、その瞬間まで、僕は全く気づいていなかった。そして、その時を迎えた瞬間、僕は唐突に気づいた。いや、気づいてしまった。--------------最期の場所に来たのだ、と。
ここは、最期のまちだった。
常に、何かを呑みこみ、そして何事もなかったかのように川は流れていく。

(馬鹿だな……何でこんなところ来ちゃったんだろう)

無意識のうちとはいえ、因果を覚える。ごぉごぉと唸る風の音に掻き消されそうな川の流れ。そこにずいずいと引き寄せられるようにして、僕は誰もいない橋に歩を進めた。
雨が染み入ったコンクリートは、これ以上、沈みきることのない鈍色に埋もれていた。水はけのための側溝は、降りしきる雨のせいで小さな川となっていた。思った以上に勢いがあるのだろう、側溝の壁にぶつかると上がる飛沫が僕の靴を濡らし続けていた。

(いなくなればいいのは、僕の方なのにね)

 獣の咆吼のような野太い風が嘲笑う。------------どうして生きてるんだ、と。あんな風に三郎を傷つけておいて生きる資格なんてあるわけがないのに、と。

(このまま逝ってしまおうか……そうしたら……)

柵は僕の胸元あたりまでしかなく、乗り越えようと思えば簡単に乗り越えれそうだった。
とおの昔に失ってしまった指先の感覚。それを引き戻すように欄干に手を掛ける。爪に入り込んだ錆が爪を赤茶色に染めた。ぐ、っと力を込めれば、血の流れが堰止められて、冷え切った指先にようやく熱が戻ってきたような気がする。その熱もあと少しで手放すことになるだろう。
欄干から身を乗り出す。最期の場所を目がけて。とても昏く、ひどく淋しく、春から一番遠いその場所に向かって。
みやぁ。--------------どこかで、猫の鳴き声を聞いた気がした。


中略


「散らかってて悪いけど、その辺座って」
「あ、うん」
「あ、停電しちゃってるらしくってさ。今、灯り点けるから」

 ローテーブルの端に腰を下ろした雷蔵の前にキャンドルを置き、ポケットに入っていたライターで火を灯す。じり、っと芯が躙り、やがて淡い橙がそこに灯った。キャンドルの明かりが揺れて、彼の顔に斑になって落ちる陰翳に、非現実的な気がしてきてしまう。何もかも、夢なんじゃねぇか、って。私は眠っていて、起きたら全部消えてしまうんじゃねぇか、って。それくらいに昏い翳に浸食されている雷蔵は、脆く感じた。
久しぶりに会う彼に、私はどこに座ればいいのか、さんざん迷って、うろうろと立ち歩いて、結局、彼の真正面に座った。それを見て、雷蔵が小さく笑った。「まるで僕みたい」と。

(そういえば、迷い癖は雷蔵の専売特許だったよなぁ。いつも迷って……ん?)

 あぁ、まただ。妙な気持ちになる。埋まってないパズルに嵌め込むピースを見つけたのに、いざ入れてみると僅かにずれていた時のような、そんな感覚。迷い癖は確かに雷蔵の特徴だ。小さい頃におやつを選ぶように言われ、中々、決まらなかった思い出があるのだから。だから、それは間違いない。迷い癖であることは。ただ『いつも』という言葉が引っ掛かった。自分で思い浮かべておきながら変な感じがする。
 にゃぁ
 違和に引きずり込まれそうになっていた僕を掬い上げたのはクロの鳴き声だった。

「綺麗な毛並みだね、クロ」

床のラグに足を軽く伸すようにして寛いでいる雷蔵は傍に寄っていったクロに話しかけていた。嬉しそうに、にゃぁ、と喉を鳴らしたクロはそのまま雷蔵の膝に上がり込む。

(あんなに人見知りする猫なのにな)

 滅多と来ない尋ね人には背中の毛を逆立てて威嚇するというのに、雷蔵に至っは全く片鱗が感じられなかった。まるで昔から知っているかのように、クロは大人しく撫でられている。時折、ゴロゴロと満足そうに喉を鳴らしていた。そのことも気になったものの、追求していくとどんどんと本題からずれていってしまうような気がして、私は溜め込んでいたその言葉を先に消化することにした。

「で、どうしたんだ? 突然」

クロを優しく撫で続けている彼の指先が止まった。

「突然?」
「だって、何年ぶりだ?」
「何年ぶりって」
「最後に会ったのって、じいちゃんの初盆か何かだろ?」

 そういえばあの時も、確か風が吹き荒れていた。台風か何かだっただろうか。ごぉごぉと家を突き抜けていく音。ガラス窓が打ち砕かれるんじゃねぇかと妙に過ぎった不安に身を寄せ合って眠ったような覚えがある。------------小さな掌はとても温かくて、私をひどく安心させたことも。

「三郎、覚えてないの?」
「え、何が?」

 ぽつん、と零された問いかけに私は顔を上げた。私の息でキャンドルの炎が揺らぎ、それに照らし出された彼の陰影も、蠢く。そこにあったのは、今にも泣き出しそうな、顔。だが、そのことを問い質すことはできなくなってしまった。彼の言葉によって、永遠に。

「……どうもさ、死んじゃったみたいなんだよね」

夕飯がハンバーグだった、みたいな軽いノリで告げられ、思考が置き去りにされる。まだ雷蔵の膝にいるクロはまるで会話が分かるかのように、不思議そうに私たちへと交互に視線をやっていた。
「ちょっとした事故で死んじゃって。で、神様に会って。それで、三郎に会いたいなぁ、って思ったら、ここにいたんだ」
淡々と進んでいく現実感のない言葉に頭がついていかない。とろり、と充満してきた甘ったるい香りに息がつまりそうで。風がアパートメントを突き抜けていくたびに、キャンドルの炎が軋む。ごうごう、とうねりのような音だけが煩い。

「……うそだろ?」

たっぷり呼吸を三回した後にようやく言った言葉にしては、なんのひねりもないものになってしまった。それほどに、何と言えばいいのか分からなかった。言葉に、ならなかった。
学生時代に、プールの底に沈んで形を保たない太陽を見つめているような。その後に疲れきって、つい、ベランダ側の机でつっぷして居眠りしてしまったような。それで、五分とかしか寝てないのに、何時間も眠ってしまったように感じてしまった時のような。現実と非現実が織り交ざった浮遊感と高揚感と虚脱感が、私の思考を停止させていた。

「うそだと思う?」
「……じゃぁ、幽霊なのか?」

頷く雷蔵を見ながら、それでも信じれない。担がれているんだ、って、キャンドルの匂いのせいでのぼせてきた頭で考える。昔から人を騒がせるのは私のはずだったんだが、と、意識のずっと遠い所で、いたずらっ子だった自分に付き合わされていた頃の彼の面影を思い出す。
困惑している私が見て取れたのだろう、彼は手を差しだした。

「触わってみる?」
「え?」
「触ったてみたら、分かるよ」

ゆらり、とキャンドルの炎が揺らめいて、彼の瞳を橙の火が覆った。閑かだった。嵐というのが嘘みたいに、何も音が聞こえなかった。けど、それはかまくらの中のような静けさとは真逆のものだった。ざわざわと耳の裏がうるさくて、それが積もり積もって全ての音がそれにかき消されてしまったように音が失われていた。私と彼の間に、すとん、と空隙が落ちた。

「……けど、そしたら、僕は三郎の傍にいられなくなる」

ほんの一瞬だけ雷蔵の瞳に浮かんだ澹さが、私の心を抉った。

(あぁ、そっか……雷蔵も、あの昏い場所に呑込まれてしまったんだ)

本能よりもずっとずっと深いところで、私はその言葉を受け止めていた。分かっていたはずだ。生きている以上、いつか、そこに引きずり込まれていくのだ、と。-----------それなのに、どうしようもなく泣きたくなった。


中略


「はい」

 袋から餌入れに中身を移し、それを床に置くと満足げにクロはひと鳴きしてから、そこに顔を突っ込んだ。カリカリと噛み砕くような音。夢中になっているクロの背中をそっと撫でる。

「ねぇ、クロ。どうして三郎は僕に会いたいって思ってくれたんだろうね」

会いたいと強く望んだのは僕の方だ。でもこうやって三郎と会うことができたということはまた三郎も僕と会うことを願ってくれたのだろう。----------それが、どうしてなのか、その理由は今の三郎からは全く推測できないけれど。

(神様も酷いよね……だって、三郎、何も覚えてないみたいなんだもの……)

話の噛み合わなさには、すぐに三郎が紐解いてくれた。どうやら僕との記憶は、じいちゃんの初盆ところまでのようだった。ということは、三郎は一切覚えてないのだろう。僕と付き合っていたことも、一緒に棲んでいたことも、温かくも淋しい夜のことも--------------そして、僕がしてしまったことも。
喉元を謝罪で締め付けられてしまっている。恨み辛みを言うために会いたいと思ってくれたのだとしたら、それはそれでよかった。むしろ、その方がどれだけよかっただろうか。

(それだったら、ちゃんと言えたのに。ごめんなさい、って)

あの日のことを覚えていないのに、言っても仕方ないだろう。いや、言えない。ちゃんと三郎に謝った、という自己満足の為だけに、忘れてしまっている三郎の記憶をほじくり返すことなんてできなかった。

(いっそのこと、最初からやり直せってことなのかな……)

昨日みたいな春の嵐の夜からもう一度。そう考え、自分の浅はかさに嗤うしかなかった。どれだけ希ったって、決してやり直すことはできないのだ。だってもう死んでしまっているのだから。蘇ったのは過去じゃないのだ。あの日から続いている今に、二人でいるのだ。------------これからも、ただ、流されて呑まれていくのだろう。この川みたいな場所で。

みゃぁ。

満足げな声音に、僕はこの部屋に引き戻された。まるで謝辞を述べるかのように、足下にすり寄ってきたクロに「おいしかった?」と尋ねる。すると、再び、柔らかな鳴き声がスェットに絡まった。じ、っと注ぐ眼差し。黒彩が期待に膨らんだ気がして、僕はクロに「また夕方にね」と言い含めた。すっかり空になってしまった餌皿を端に避ければ、分かってる、とでも言いたげに一つ尻尾を揺らしたクロは、僕から目を逸らすとさっさと行ってしまった。

「もう、相変わらずだなぁ」

クロは、拾い主である三郎のことが大好きで。最初の頃なんか僕が三郎に近づくだけで、ふぅぅ、と毛を逆立て威嚇されたくらいだ。
ちょっとずつ距離は縮まったように思っていたけれど、でも基本的には三郎の傍らにいつもいた。僕の側に来たのは三郎が仕事の打ち合わせか何かで外に出ていってしまったまま夜遅くになった時に、おそらく空腹に耐えきれなくなったのだろう、僕に餌の催促をする為に、仕方なそうに寄ってきては、にゃぁ、とさっきみたいに猫パンチと共に訴えたことが、何度かあった程度だ。
僕が寄っていく分には撫でさせてくれるし、抱き抱えても引っかかれることもないから、仲が悪いわけではないと思うのだけれど、でも三郎との仲の良さは僕がこっそり嫉妬を覚えるくらいで。三郎が「私と雷蔵の見分け方は、クロが近くにいるか否かだからな」なんて軽口を叩くくらいに、クロは三郎に懐いていた。
だから、今更ながら、驚いてしまう。クロ自ら僕の上に乗ってきたことに。さっきは、別のことで頭がいっぱいだったから何とも思わなかったけれど、よくよく考えれば、今の今までなかっただけに、すごいことなのかもしれない(まぁ、どうして僕の上に乗ってきたのか、その理由が理由名だけに妙に納得してしまったけれど)けれど、それはともかく、クロには感謝していた。クロがいなかったら、ここに来ることはできなかったのだから。

「ありがとうね」

 どこからか鳴き声が聞こえたような、そんな気がした。