※春コミサンプル

「でも、ちょっと意外だったな」

竹谷の指を見とれていたせいだろう、携帯機器から目を上げた竹谷と正面から視線がかち合いって。もちろん、竹谷に俺の思惑が悟られたわけではない。そうと分かっていても、竹谷に---------己の教え子に少しでもそんな熱を抱いてしまったという罪悪感に、俺は慌てて俯いた。欲のように、どろりとした黒を目に留めつつ、訊ねる。

「……何が?」
「こういう曲、先生が聞くと思ってなかった」

頭が堅そうだからクラシックばかりかと思ってた、と告げる竹谷の声は笑っていて、俺は顔を上げることができた。からかい混じりの面立ちの竹谷に「別にクラシックばっかりなわけじゃないさ。むしろ、クラシックよりこういう曲の方がよく聞くな」と白状する。だが、「けど、まぁ普通の音楽の授業ではやるわけにいかないからな」と付け足すことは忘れなかったけれども。
もし、仮にさっきの曲を歌うとしたら卒業式になるだろう。自分が竹谷くらいの時と比べ、随分と歌謡曲が教科書に載るようになったものの、割合からすればさほど多くはない。ほとんどは、竹谷の言う頭の堅そうな曲ばかりだ。多くの子からすれえば、つまらないとしか思えない曲だし、俺自身も魅力を感じるかといえば首を傾げる。だが、それを教えなくてはならないというきまりがある以上、そこには従わなくてはならないのだ。

「本音と建て前ってやつ?」

揶揄するわけでもなく、呆れるわけでもなく、哀しむわけでも憤るわけでもない、ただ真っ直ぐな問いかけに、俺は何も言えなかった。きっと彼は知っている。本音と建て前の中で俺がぐらついていることを。いつの間にか音楽が止まっていた。いや、彼が止めたのだろう。閑けさが沈黙に変わりそうになって、俺は視線を逃がした。

「ギター」
「え?」
「ギター、弾くんだな」
「……ちょっとだけな」

 竹谷が流した視線に重ねるように俺もまた壁際のギターに視線を遣った。柔らかい彼の目差しは、さっきまでこの部屋を包んでいた曲のように温かく優しく、そしてどことなく淋しげな翳を含んでいるような、そんな気がした。

「なぁ、竹谷。何か弾いてくれないか?」
「は? 何で」
「いいから」

 竹谷は「何で、急に」とぶつぶつと言いつつも、ギターケースの置いてある対角へと向かう。俺の頼みを無茶ぶりと取ったのだろう、よく分からない、といったような表情をして。だが、どっしりとした黒のケースに手を伸した竹谷の表情が、不意に変わった。-----------------愛しそうに触れる竹谷の指はとても綺麗だった。

***

「もういいだろ」

竹谷の指先が紡ぎ出す優しい音は、す、っと俺の胸の奥底に入り込んでいって、このままずっと聞いていたいと思わずにはいられなかった。けれど、奏で終わった竹谷は照れたように余韻を遮って。顔を赤らめた彼は見られているのが耐えられないといったようにギターをケースに仕舞う手を急がせる。けれども、ギターに触れる指はとても丁寧なもので、竹谷が楽器をとても大事にしていたことが伝わってきて。つい唇を緩ませてしまったのだが、それを見つけたらしく竹谷が膨れ面を作った。

「下手くそで悪かったな」
「それで笑ったんじゃないって。……竹谷のギター、すごく上手かったし」
「おだてたって、学校には行かねぇから。どうせ嘘だろ」
「そんな嘘つかないさ」

 俺の言葉を信じることができないのだろう「どうだか」と肩を竦めた竹谷に、俺は真っ直ぐ目を重ねた。これだけは、どうしても伝えたかったから。これだけは。

「俺は音楽に関しては嘘をつかない」

 他のことに対しては嘘や偽りを塗り固めているという自覚がある。だが、音楽に対してだけは、嘘を吐くことをしたくなかった。いや、できなかった。どれだけ表面で取り繕うとしても無理なのだ。-----------胸の奥、ずっと深いところが震えることを隠すことは、どうしたってできなかった。

「……そんなの、どうしたら嘘じゃないって分かるんだよ」
「音楽の授業に出たら分かる」

もしこの言葉を他の生徒が聞いていたなら、分かってくれるだろう。だが、生憎、竹谷は俺の授業に出たことがなかった。だからだろう、こちらとしては結構真面目に答えたつもりなのに、竹谷は冗談としてしか捉えなかったのだろう「何だよ、それ。ずりぃ」と笑って-------------そうして、ふ、と真顔を見せた。

「じゃぁさ、キスしてよ」
「は?」
「キスしてくれたら、学校、行ってもいいよ」


中略


す、っとそのまま流し通そうと背後から近づいていったのだが、ちゃんとできているのだろうかと不安になって、ちらり、と覗き込んでしまったのが間違いだったのだろう、つい足を留めてしまっていた。
とりあえず名前だけは書いたらしく、汚い字が名前欄いっぱいになっていた。欄の幅を上手く調整できなかったのだろう『竹谷』はやたらと大きいのにそこに続く『八左ヱ』という文字はだんだんと小さくなっていき『門』という字においては枠線に重なっていた。
自分も画数は多くないが文字数がある方で、ふ、と小学生くらいの時はテストの時に名前を書くのが面倒だな、なんて思っていたことを思い出して。ひっそりと笑いを噛み殺していると、竹谷がこっちを見上げた。不服そうな唇が動く。『何、笑ってんだよ』と。何でもない、と首を振ろうとした瞬間、彼がさらに空気を刻んだ。

『兵助』

まるで直接話しかけられたかのようだった。ダイレクトに響いたそれ。耳を食まれたかのように、ぞわり、と熱を覚えた。--------竹谷が、欲しい。もたげた熱情が一気に巡り、瞼裏がハレーションを引き起こす。まるで竹谷に触れられたみたいだ。
あの日、キスをして以来、竹谷は二人きりの時になると「兵助」と呼ぶようになった。最初は咎めていたが、どれだけ言っても直すことのない気配に、最近は文句を言うのを止めた。眠たそうに音楽室に来ては俺のピアノを聞いたり、逆に竹谷がピアノを弾いていくこともある。その後、そのまま寝てしまって休み時間が終わることもあれば、唐突にキスされることもある。その唇の熱を思い出さずにはいられなかった。

「ぁ」

己から零れる吐息が色づいているのが分かって、咄嗟に離れた。まずい。そう振りかぶって----------シャーペンが走る音、ため息、エアコンの機械音。そこにあるのは、それまでと変わらない世界だった。秩序が守られ構築されている。淡いモノトーンの世界に閉ざされた教室は、俺が乱した空気など一切感じさせることなかった。

(気づかれなかったか?)

たとえ俺の変調に誰かが気づいたとしても、原因は悟られてないはずだ。周りからすれば竹谷は俺の影になっていたのだから。彼が俺の名を呼んだことなど、分かるはずがない。だから大丈夫、そう言い聞かせながら、速まりそうになる足をできるだけ地に着けるようにしてゆっくりと歩く。端にあった教師机に行き着くと、ようやく俺は振り向くことができた。-----------竹谷が笑っていて。

(っ)

再び、上昇しそうな熱に、俺は窓の外を見遣った。重たそうに垂れ下がっていて、雪が降り出しそうな雲間。氷が張ったような色合いに窓ガラスに頭を押さえつけて冷やしたいのを我慢し、ひたすらに深く息を吐き出す。
まだ竹谷がこっちを見ているんじゃないか、と思うと跳ね上がった心臓は収まってくれない。だが、いつまでも外を見ているわけにもいかない。テスト監督なのだから。少しでも早く落ち着けるように、と数字を数える。一、二、三、四……。それが八十を超えたあたりでようやく正しい速度に戻ってきた拍動に、百ですっぱりと数唱を区切り、意を決して再び教室の方を振り向いた。

(あ……寝てる?)

さっきまで真正面に向けられていた笑顔は突っ伏されていて、ぴょこ、っと跳ねている
髪だけが彼の座っている位置にあった。穏やかに上下している背中。この数分足らずで寝てしまうことなどできるのだろうか、とも思ったが辺りに漏れ出ているのは安らかな寝息のような感じがして。さっきみたいに見つめられることがなくなったことに、ほっとする反面、竹谷に振り回されている自分に何だか釈然としない気持ちになる。

(かなり歳が離れているやつに……しかも、生徒に振り回されてるだなんて)

竹谷に想いを寄せるとき、ふ、とそこに重なるイメージは春を呼ぶ嵐だった。稲光が走り、雲が渦巻き、風雨が吹き荒れる。まるで、すべてをなぎ倒すような、そんな青嵐。---------その嵐が過ぎ去った後に現れる、甘やかな空色。希望の色。竹谷に抱く感情はぐちゃぐちゃで、考えれば考えるほど、自分でも訳が分からなくなってしまう。どうしようもなく引っかき回される。けど、最終的にそこに落ち着くのだ。

「っ……先生っ!」

やたらと大きな声に、は、っと引き戻される。優しい青などどこにもない。モノトーンの学生服が四角四面に続く秩序保たれた教室。その一角で、す、っと直立に手を挙げていたやつが俺を見ていた。眠りこけている竹谷の数列後ろ。そこから俺に真っ直ぐ視線を向けていたやつの唇は何の迷いもなく刻む。「先生」と。------------そうして、気づく。呼ばれている「先生」というのは、自分のことなのだ、と。記号でしかない言葉。だが、今、俺が求められているのは監督官という、つまりいは「先生」という記号なのだ。

「何だ?」
「シャーペンが」

最後まで言わずとも、その生徒の目線の先を辿れば、彼がシャーペンを落としたことが理解できた俺は「あぁ」と途中で語尾を分断し、軽く腰を曲げて腕を伸ばした。ん、と手渡す時に添えようとした言葉は舌先を滑って音にはならなかった。むくり、と起きあがった竹谷がこちらを向いていたから。
とりあえず、指先から力が抜けてシャーペンは落とした生徒の元に返ったようだったが、俺はそれどころじゃなかった。緩んでいる竹谷の口角は、嗤っているようにも、得意げになっているようにも見えたから。-----------また『兵助』とその唇が刻むんじゃないか、と気が気じゃなくて。竹谷に行動されるよりも先に、と、わざとらしく顔ごと背けて竹谷から視線を外す。俺の耳を「ありがとうございました」と生徒の声が通り抜けていくのと同じくらい、周囲からは自然に映るように、遠くを監督している体で歩みを進め、彼の横をすり抜けようとした、その瞬間、

(っ)

俺の視界を掠めた文字。『放課後、音楽室で会いたい』きっぱりとした迷いのない力強い字面のそれが、差し出された答案用紙の隅に刻まれていた。このままこの回答用紙を浚うことができたら、どれだけいいだろうか。けれど、俺の指が掴むのは冷たい空気であり、俺の足が踏みしめるのは彼の足下から続くリノリウムだった。周りから妙に映る前に、俺はその場所から離れた。