※12月五忍オフ本サンプルです。鉢久々・転生



世界は閑けさを抱いていた。

「ん」

ふわり、と淡い光が霞んだ視界の隅で散った。その光をぼんやりと追っていれば、やがて、焦点が結ばれて。自分のすぐ直下に広がる木の目が留まった。オーク調の深みのある色合いのそれが、ずっと先まで続いていて。-------ようやく、自分が泣き疲れて頬をカウンターに預けて眠ってしまっていたことを知る。

(あ、)

いつの間にか、レコードは終わりを告げていた。静寂の底はあまりに冷たい。ひりひりと潮風に灼かれたみたいに喉が酷く乾いていた。何か飲み物、と探す。
指先から数センチ離れたところにあるグラスの足には水たまりが広がっていた。完全に曇りが取れたガラスのそれには、うっすらとしたライトグリーンが閑かに俺を見ていた。作った時はぐちゃぐちゃだったはずのそれは、どこまでも透いていた。

(もう、店を閉めよう)

高椅子から降りた瞬間、たぷん、とギムレットが揺れた。カウンターを掌で押すようにして立ち上がったからだろう、大きく波立ってしまったそれはグラスの壁にぶち当たっては跳ね返り、また逆の縁に行き着いては押し戻される。しばらくの時間を経て穏やかになった水面。その緑が俺に問いかけてきた。それでいいのか、と。

(あぁ……これでいいんだ)

視界から、その透いたライトグリーンを追いやる。これでよかったんだ。これで。そう言い聞かせる。------------どうせ、また元の日々に戻るだけなのだから。『あの頃』の知り合いと出会って、記憶がないことを知って「さよなら」をして一度死んで、そうして出逢い直しをする。ただそれだけの、『あの頃』がゆるやかに死に伏していくだけの日々に戻るだけだ。
噛んだ唇がぴり、っと痛んだのを無視して、俺は入り口に向かった。ドアを開けた途端ひどく冷たい空気が肺を濡らした。湿りを含んだそれに土の匂いもまた染み着いていて、雨が降っているのであろうことを知る。地下に閉じこもっていたから全く気づかなかったな、と冷たい外気に触れて、きゅっと縮こまった体を抱えながら階段を登る。

(ん? あぁ、やっぱり降ってるな)

一瞬、戸惑ったのはあまりに細やかな雨だったからだ。
まるで世の果てで見上げたような、空合いだった。深々とした闇の中だからだろう、その雲や雨が白っぽく見えるのは。雨が降っていてよかった。これで、何もない、ただ、のっぺりとした闇だけだったなら、きっと俺はその世界に閉ざされたままだっただろう。

(寒いな……)

さぁさぁと降る雨は今にも消えてなくなりそうな、頼りなさそうな細かさだというのに、その霧雨が辺りから温度を奪っていた。店の中は適度な暖房を効かせているからいいが、こうやって外に出ると体の芯までも凍り付きそうな寒さだった。ぱき、っと折れて粉々になって、そうして何もなくなってしまいそうだった。----------------そうなってしまってもいい、そう思えたその時だった。

「兵助」
「っ、」

雨音に流されそうなほど小さな声。けれど、その優しい響きは俺の中にぽつんと落ちて、感情を波立たせた。
雨の中、鉢屋が佇んでいた。霧雨のせいだろうか、靄に包まれた鉢屋に幻のような危うさを覚える。夢を見ているのだろうか。都合のよい夢を。そうとしか考えられなかった。鉢屋が来るだなんて。
ざわざわと騒ぐ心に、辛うじて出てきたのは疑問ただ一つ。

「……何で?」
「逢いたかったから」

その柔らかな笑みを見たら、もう駄目だった。俺は彼に身を寄せ、己の手を彼の左胸に当てた。俺のそこはずっとずっと昔に空っぽになってしまっていたけれど。けれど、そうしたら、満たされるんじゃないか、って。鉢屋の「兵助?」と戸惑いを含んだ息のように細い声が頭上から降ってきた。

「なぁ、抱いてくれないか?」

温かくて優しくて。でも、昏くて淋しくて------------そして、かなしい夜が始まった。

***

「喉、乾いたな」
「あぁ」

飛び散らかされた熱がまだ体の周りを覆っているような、そんな気だるさの中では返事をするのさえも億劫だった。からからと干された喉から辛うじて押し出しただけの返事がぽっかりと宙に浮かんだ。------------鉢屋と寝てしまった。
ぎ、っとソファが軽く軋む。鉢屋が動いたんだろう。起き上がりざまの鉢屋に自分の指先が掠めた。熱に蒸らされたの髪はまだどことなく濡れているようなそんな気がする。今、何時頃なんだろうか、と思いめぐらすが、時計もなければ携帯もない、あなぐらのような店では判別のしようがなかった。

「あれって、ギムレット?」

ぐ、っと首筋だけで顔を上げ、鉢屋の視線の先を辿り、カウンターに残された緑を見つける。あれだけ乱暴に作ったというのに、時間が経っても、決してジンとライムが分離することがないそれは、『今』と『あの頃』がぐちゃぐちゃになって混ざってしまった自分のようだった。

「飲んでもいいか?」
「温くなってるし、まずいぞ」
「喉が潤せたら何でもいい」

もし、心底お酒を愛しているような、食満さんみたいな生粋のバーテンが聞いたら、殴り飛ばしそうな言だ。だが、俺は暇つぶしのために店に立っていたバイトでしかなく、あまり喜ばしい言葉ではないな、と思ったが、乾燥しきった喉では、それ以上口を開いて追求する気になれなかった。

(というか、ここで寝たって知られたら頸が飛びそうだな……)

普段、まず見上げることのない天井。まさかこんな形でこのソファの座り心地(いや、寝心地か)を確かめることになるとは思いもよらなかったな、と艶とした赤のそれに笑いをひっそりと噛みしめていると、鉢屋が怪訝そうな面立ちを浮かべた。

「どうした?」

いや、と首を振った俺を覗き下ろす彼は、まだ彼は何か言いたそうにしていたが、それよりも喉の渇きを優先させたのだろう、彼はソファを降り立った。
もともと、座るためのものでありベッド代わりになるような専用のものとは違う。ぎ、っとソファの妙な軋みが腰に響いて、申し訳程度に掛かっていた毛布を引きずり上げながら、俺は上体を起こした。休憩室から引っ張り出した毛布に、横たわらせた体を適当にくるめギムレットを取りに行った鉢屋を見遣る。
店を閉める準備の際に掃除しているとはいえ、普段は皆、靴で歩き回る場所だけに、綺麗とは言い難い床を直接裸足で歩く鉢屋に何か言おうかと思ったが、脱がされたがままに散らばっている自分の服を足下で見つけて。

「それ、拾ってくれないか?」

あー、と頷いた鉢屋はひょいと拾い上げると、俺に渡すのではなく、数歩分離れたカウンター席にわざわざそれを掛けた。最初、カウンターに向かう鉢屋の背中に、ギムレットを呑んだ後にこっちに持って戻ってきてくれるのかと思ったが、グラスを持つなり即座に踵を返した鉢屋のもう片手には俺の服はなくて。椅子に引っかけられたままのそれらに文句をつける。

「何で持ってきてくれないんだ」
「だって、持ってきたら着るだろ?」
「そりゃ着るだろ?」

鉢屋が言いたいことが分からず、声音に疑問を含まる。すると彼は「まだ朝には早い」と笑いながら、グラスを俺の隣に潜り込んできた。再び手狭になったソファ。そわ、っと腰に回された手に彼の言いたいことを悟って、俺はその手を抓った。

「って、零れるだろ」

たぷん、とグラスの中で大きく揺れたライトグリーンに「ソファ、汚すなよ」と注意すれば「もうベタベタだけどな」と鉢屋が揶揄してきたものだから、今度は背中を思いっきり叩いてやった。

「って……暴力反対」
「振るわせたのは誰のせいだ」

今度こそギムレットがグラスから飛び出して濡れてしまったのだろう、俺の言葉に低く笑った鉢屋は持ち手を変えるとギムレットが垂れ伝う手首を舐め取った。艶と濡れた舌がさっきまで自分の膚を蠕動していたのだと思うと、ちょっと不思議な気がした。俺の視線に気づいたんだろう「何?」と訊ねられる。俺が、いや、と首を振れば「ふーん?」とその目には怪訝そうな色を残していたが、彼はグラスを口元に寄せると、軽く傾けた。大きく上下する喉仏。吸い込まれていくライトグリーン。

「なぁ鉢屋、一口、俺にもくれないか?」

不味いと知っているのに美味そうに見えたのは熱の残滓に絡み取られて喉が尋常に渇いていたからかもしれない。少し潤すために残しておいてくれ、という意味で、俺はギムレットを呑んでいる最中の鉢屋にそう頼んだのだが、

「っ」

ふ、と目の前に透いた緑の影が過ぎった、と思った瞬間、俺の唇をアルコールが灼いた。熱い。反射的に開いた唇からねじ込まれるギムレット。それと鉢屋の舌。咄嗟に逃げようとしたが、頭を抑えるようにして回された奴の手がそれを赦してはくれない。とさ、っと視界の隅で空になったグラスがソファに落下するのが見えた。ソファが汚れてしまう。けど床じゃなくてましか。そんな呑気な考えが過ぎったのも数秒。アルコールを押し込んできた彼の舌に己のそれが捕まえられた。熱い。そこから帯びた昂ぶりに再び引きずり込まれそうだった。

「っぁ……」

どれくらい鉢屋に捕縛されていたのだろうか、ようやく自由になった唇からは吐息に艶とした喘ぎが混じったような気がして。羞恥を覚え、酸素を奪われきった頭で必死に誤魔化しの言葉を考えて紡ぎ出す。

「……まずい」
「そうか?」

余裕綽々の鉢屋が腹立たしくもあり、そして自分だけが感じてしまったことへの気恥ずかしさもあり、俺は深く息を吸い込んだ。呼吸を整えてから話そう、と。ゆっくりと巡っていく酸素。もう大丈夫だと判断した俺は、「鉢屋の味覚は当てにならないってことが分かったな」と精一杯の皮肉を投げつける。だが、そうやってからかったのに、鉢屋は乗ってこなかった。
ふ、と空になったグラスのように透いた目を俺に向けた。

「さっきは『三郎』って呼んでただろ?」

心臓が深く軋んだ。

「そう、か? ……覚えてない」

嘘、だった。覚えている。
鉢屋に抱かれている間、その名を呼んじゃいけない、とずっとずっと唇を噛みしめて堪えていたのに、最後の最後、焦がされ溶かされ混じり合った熱の果てで、その名を呼んでしまったのだ。----------------三郎、と。

(けど、言うわけにはいかない)

勘違いじゃないのか、と口にしようと思った瞬間、鉢屋は「あぁ」と頷いて。思いの外、はっきりとしたそれに、誤魔化しの言葉は口にされることなく消えた。
唇を閉ざしたまま黙り込んだ俺に、鉢屋が、ふと首を傾げた。

「……というか、私、名乗ったか? 下の名前」

戯れ事だと思った。一晩だけの。だから俺は嘘を吐いた。

「昔、俺とお前は恋人同士だった、って言ったら、信じるか?」