(さみぃ……けど、部屋の中よりかはましか)

ぐ、っと突き刺すような冷たさを胸の中に取り込めば、へどろのように溜まっていた甘ったるい匂いがすぅ、と溶けていく。どうもまだ体中が香水臭い気がして、もう一度だけ深く外気を吸い込んだ。あの部屋にいると、鼻がひん曲がるんじゃねぇか、って気になる。はぁ、とベランダにある柵に背を預け振り向いた部屋はピンクとか赤とかに溢れかえっていて。ますます溜息が零れる。

「何であんな臭ぇものつけるかな」

まぁ自分も香水付けてるから人のこと言えないけどな、と思いつつも、こうやって部屋を見るだけでげんなりするあたり、どうもあいつとは根本的なものが合わねぇんだろうな、と痛感せずにはいられねぇ。そうと分かってるのに、いつまでもずるずると付き合ってる自分にも嫌気が差してくる。

(だいたい、煙草吸う訳でもねぇのに、ベランダ出てる、って地点で終わってるよな)

『ちょっと遅くなるから合い鍵使って入ってて』なんてハートが乱舞するメールをもらったのは、部屋のチャイムを鳴らしてからのことだった。何度連打しても出てくる気配のない彼女に、このまま家に帰ってやろうか、と思ったが、勝手に帰ったら帰ったで後々が面倒くさそうで。メールすればそんな返事。天秤に掛けた結果、私は『待ってる』という絵文字も顔文字もないもない一文を彼女に送りつけた。だが、この部屋にいると甘ったるい匂いで息が詰まりそうになる。香水だかお香だかアロマキャンドルだか知らねぇが、ものには度というものがあるだろう。ありとあらゆる匂いが入り交じって、少しいるだけで頭の奥が痺れてきて、早々に俺はベランダに退避したわけだが、

(くそっ、せめて煙草があったらな)

苛立ちに噛みしめる歯がもとめるものを、彼女は嫌った。だから、こっちに来る前にケツポケットに突っ込んだ箱がへしゃげていてのには気づいていたが、どのみち吸えないからいいか、とコンビニに寄らなかった。だが、さっさと会って、さっさと帰えって吸おうという当てが外れた今、どう考えてもそれが敗因だった。

(コンビニ行くか? けど、その間にあいつが帰ってきたら厄介だしな)


三郎、どこ行っていたの、だとか、何してたの、だとか質問責めに合うのは目に見えていた。ただでさえ彼女と会うだけで気疲れするっていうのに、これ以上余計な徒労を味わいたくねぇ。口が血が脳が--------体中が求めるそれを意識の外に遣り、ぐ、っと背をベランダにのめりこませる。体幹を曲げ反らしてみても、鈍色の雲が居座っているだけで、空に星は見えなかった。

(くそ、さみぃ)

かたん。凍った空気が揺れ、じり、と独特の匂いが舌を焦がした。ぱ、っと、視線を音の方向に遣れば、予想通り闇に燻る紫煙があった。もちろん、それを吸っている人物も。うかつにも、そのままその人物と視線を絡めてしまった。風呂上がりなんだろうか、闇目にも艶と濡れている髪を淡い白が撫で過ぎていく。煙草を口の端にぶら下げていた男は表情に色を出すことなく、俺を見ていた。

(そういや、隣は男だっけ)

彼女のアパートに出入りするときに何度か鉢合わせたことがあったが、それ以上のことは何も知らなかった。だが、目が合ってしまった以上、このまま無視するわけにもいかず、どーも、と頭だけ軽く下げておく。男は銜えていた煙草を指の間に移しながら俺を一瞥した。

「今日はまだ喧嘩してないんだな」

いきなり意味の分からない言葉を言われて「はぁ?」と素っ頓狂な言葉しか出ねぇ。

「いつも、すごく喚いてるだろ。煩い」

別に喧嘩しているというか、まぁ、勝手にあいつが一方的に怒ってくるだけなのだが、確かに甲高い声で泣き叫んでいるのは事実なわけで「そりゃ、どうも、すみませんでした」と謝っておく。だが、どうして自分がほぼ初対面のやつにこんなこと言われなきゃならないんだ、という釈然としない思いがありありと出てしまったんだろう、男は「すみません、って面じゃなさそうけどな」と笑った。こうも逆撫でされれば、さすがに気分も悪い。部屋に戻ろうか、とした私を男は「そんな怒るなよ、悪かった」と引き留めた。

「いいもん吸ってんな」

煙草をくれたらチャラにしてやるよ、というこっちの意図を察したんだろう、男はわざわざベランダに出てきて俺の方に「これしかねぇけど」と手にしていたやつを掲げた。煌々と灯りを灯すそれは、だいぶと灰が溜まっている。ん、と反転させられ差し出された吸い口が艶と濡れているのが夜目でも分かった。さすがに、見知らぬ男と間接的に口づけすんのもどうなんだ、と

「んだよ、吸いかけかよ」
「風呂上がりでポケットに箱が入ってないんだ」

端正な眉を歪めて事訳したが、その目が「嫌なら吸うな」と言ってるようで。ニコチンに飢えていた俺の頭は正常な判断を下すのを諦めた。どーも、とさっきのように目礼だけ済ませ、そのままタールに汚れかけた茶色を食む。ちり、と舌先を苦みが掠った。煙草を銜えたのと同時に彼の指が離れ、ぱ、っと灰が散った。気道を螺旋入っていく感覚にちりちりと脳裏が痺れた。最奥まで届いたそれが押し戻されるのを感じ私は唇から煙草を指に持ち替え、は、っと俺は胸に納まっていた冷涼な空気を吐き出した。

(くそ、うめぇ)

くぅ、と感歎を上げそうになるのを、他人の前だった、と寸でで抑える。だが、男はそれすら見透かしているようで、唇の端で笑った。気恥ずかしさに男から視線を外して、再び煙草を呑む。じわじわと血液が巡り出すのを遠いところで聞いていると、彼がぽつりと呟いた。

「大変だな、煙草自由に吸えないってのも」
「……何で知ってるんだよ」

驚きに慌てて煙草を落としそうになり、寸での所で噛み止めた。フィルターがすでにへたっていたせいか、じわ、と直接的な苦みが広がる。随分と火が指まで近づいてきた煙草の行き先を探す。完全禁煙の彼女の部屋に、当然、灰皿なんてものはなく。とりあえず、このままベランダの縁に煙草を押しつけるか、と煙草を持ち替えていると、

「お宅のカノジョに、洗濯物に匂いが着くからベランダで煙草吸うな、って怒鳴り込まれたことがあってさ。けど、まぁ、それ以来、わざとベランダで吸ってるんだけどな」

たぽん、とタールのねっとりとした匂いが私に絡みついた。使えば、と差し出されたのはコーヒーの空き缶。どこにでもあるようなそれは、暗がりではっきりとはしないが、煙草が詰まっているのだろう。好意を受け取って、プルトップがちぎられた辺りに煙草を突き立てる。じ、とか細い音が最後を告げた。そのまま、ぽっかりと開いた穴に押し込める。

「……お前、趣味悪いな」
「あんな女と付き合ってるお前の方が、よっぽど趣味悪いだろ」

真顔で返されて、確かに、と笑う自分は滑稽だったが、だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

「別れたら」
「それができたら苦労しねぇし」
「好きなわけ?」

呆れられたような目差しを受けてすぐさま「まさか」と否定する。男は「だったら、『好きな女が別にできた』とかできたとか理由付ければいいだろ」と、軽く眉を潜ませた。まぁ、自分だってそうできるものなら、そうしたい。だが、無理だ、というのを身をもって知っていた。前に、あまりに彼女のことが重たくて適当に女友達に頼んだときは、自殺狂言だのなんだのって周りを巻き込んで最悪だった。あんなごたごた、二度としたくねぇ。

「……もっとインパクトねぇと無理」
「インパクトか。……あ、なら、これは?」

何、という問は、やつの唇に、じり、と痺れに呑み込まれた。ぐわり、と食いつかれていく酸素に頭が追いつかない。薄れた空気に、体中に完全にニコチンが回りきってしまった。熱に狂いそうになって目を瞑れば、ちり、と瞼裏で光が弾け散った。くそ、っとねじ切られそうな舌を押し返し、逆に奪われた息を取り戻しにいく。じわ、と行き来する煙草の匂いに溺れそうになった瞬間、訳あっていた熱が離れた。つや、と濡れた男の唇が笑った。

「男が好きになった、とか」