Palm

    お話にならないおはなしたち。健全もカプも温かいのも冷たいのも雑多。

     竹久々(現パロ)   竹谷+雷蔵(現パロ)   留伊(現パロ)   虎+兵(虎三前提・成長)   竹鉢(現パロ)

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    講義の終了と同時に、一気に、開放感があふれた。重たい頭を上げて、階段教室の一番高い所から俯瞰するように辺りを見回す。さっさと鞄に物をしまっていく奴、グループになって声高に話し出す奴、次もこの教室なのか携帯電話をいじくりまわして動かない奴もいた。けど、大部屋での講義じゃ何回一緒になったって、たいして知らない奴ばっかだった。たった一人を除いて。

    「ハチ、寝てただろ」

    喧騒の中でも、真っ直ぐ飛び込んできた彼の声。どことなく呆れた口調に慌てて「え、……寝てないって」と弁解すると、さらに乏しすような眼差しが増した。講義中ははめているのだという眼鏡の奥にある光が尖る。
    「ほっぺた、線、ついてる。口元、よだれの痕があるし」
    「げ、マジで?」

    慌てて口元に手をやった俺に、兵助はしてやったりといった笑みを浮かべた。「よだれは、冗談」と緩めた唇が楽しそうに告げる。さすがによだれはヤバイって、とパニック気味だった頭が、すっと冷え、途端に力が抜けて体ごと机に突っ伏した。はぁぁ、と自然にため息が口から滑り落ちて行く。

    「ウソかよ」
    「でも寝てただろ。で、いつから寝てたんだ?」

    よだれの海こそないけど、古典の参考書のページは右端の方が少し折れ曲がっていて。机に放り出されたルーズリーフはミミズが這うどころか、一文字も書かれていないし。しっかり寝てました、っていう証拠が机の上に広がっていた。この状況で嘘を吐き続けれるほど俺は器用なわけじゃなくて、「授業始まって5分くらい?」と疑問形で自己申告すると、兵助の眉が深く寄せられた。

    「ほとんど寝てたな」
    「だってよ、昨日、徹夜で勉強しててさ」

    全く信じてない、って眼差しが痛いほど突き刺さる。「で、ホントのとこは?」と低い声で威圧的に尋ねられたら、はい、降参。

    「……大リーグ見てました。…つうか、あれ、何。何語?」
    「日本語。来週の小テストだって。今日やったとこ」
    「マジで!?」

    共通教養を選ぶ時に、とりあえず兵助と一緒に少しでもいられるように同じのを選んだけれど、現実は甘くなかったようで。

    「聞いてなかったの?」
    「聞いてねぇ。寝てた」
    「なら、5分じゃないだろ。授業開始1分って所か?」

    几帳面な教授だったことを思い出し、さらに深くなる兵助のため息を耳に慌てて前を見たけど、あとのまつり。少しでもノートに今日の授業のことを写そうとしたけど、青々とした黒板にはチョークの軌跡一つ見つからなかった。すがすがしい程に何もなくて、頭がまっ白になる。(や、まっ白なのは、ノートなんだけどよ)

    「んで、今日の授業、何やった?」
    「万葉集」
    「まんようしゅうて…まんじゅう?」
    「まんじゅうなわけないだろ」
    「…神様仏様兵助様。ノート写させて!」



    ***

    食堂に移動し全てを写し終わった頃には、手が痺れて動かなくなっていた。ガチガチに固まった右肩を回しながら「ありがとな」ととりあえず体裁を整えたルーズリーフを俺の方に、借りたノートを兵助の方に寄せる。パックジュースのストローを銜えていた兵助はそれを引き取ると、空いていた片手で器用に鞄に収めた。シンプルかつ丁重に取られたそれは、教授の話を聞くよりもずっとまとまっていた気がする。

    「つーか、絶対、古典とかありえねぇし」
    「そうか?」
    「おー。べしとかけりとか、なんじゃそりゃって感じだし」
    「そんなの覚えればいいだろ」
    「無理。絶対、無理。あと、訳せって言われてもわかんないし、気持ちとか考えれねぇし」

    俺の言葉に兵助は不満のようで「そうか?」と唸るように呟いた。「結構おもしろいと思うけどな」と。それが全く理解できなくて、シャーペンで消しゴムを突っつきながら「どのへんが?」と返す。兵助は生真面目な顔をして、「んー、昔も今も考えることって、そんなに変わってないなぁって」と参考書を撫でるように指で触れた。兵助の指先からそのまま、つらつらと綴られた字面を目で追うと、一つの対訳に、心を奪われた。

    「あー、これなら、俺、分かるかも」
    「え?」
    「この気持ちは分かる気がする」

    俺の言葉に聞き咎めた兵助は、じっと怪訝そうな視線をこちらに注いでいた。そんな兵助に、俺はそっと問いかける。

    「なぁ、兵助。誰のことだと思う?」

    近江の海 辺は人知る 沖つ波 君をおきては 知る人もなし











































     

    (あー。疲れた)

    体の節々が悲鳴をあげていて、俺はその場に倒れこんだ。まぁ、ジャージだからいいか、と回らない頭でそんなことを考える。秋の空はぐっと高く、羊の群れのような、ほわほわとした雲が放たれていた。幾分和らいだ日差しも、直接見れば眩しくて。俺は、翳すように腕を額のあたりにあてた。すん、と汗のにおいが突く。鉛が詰まっているみたいに重たい全身はそのまま地面にのめり込んでしまうんじゃねぇか、ってぐらいで。

    (このまま、さぼっちまおうかな)

    あまりの気だるさに放課後練習を抜け出す口実を考えていると、がさりっと草葉を踏みしめる音がちかづいてきた。やべ、と思わず身が強ばり、バネのようにして上半身を起こす。立ち上がろうとした次の瞬間、降ってきた声はよく知った人のもので、途端に力がへなへなと抜けていった。

    「なんだ、雷蔵か」
    「ごめんね、僕で」

    俺の言葉に機嫌を悪くしたんだろう、謝りながらも、むっと口角を下げ唇を切り結ぶ雷蔵に、痛む喉を宥めながら、慌てて言い訳をする。

    「や、雷蔵でよかったし」
    「本当に?」
    「ホントホント。ラッキー」

    ふーん、と疑わしげな視線を浴びせつつ、それ以上突っ込むのはよしてくれたようだった。俺の隣で膝立ちして、解けそうなスニーカーを結びながら「何やってるの、こんな所で」と尋ねてきた。

    「隠れてる」
    「隠れてる?」
    「そう。七松先輩から」

    ゴクリ、と自然と息を飲んでその名前を告げた俺に、あぁ、と雷蔵は納得したかのように頷いた。どことなく、痛ましげな色を湛えながら「そっか、応援団だっけ。ハチも大変だね」と労わってくれるのは雷蔵だからだろう。(これで三郎だったら、絶対、他人事のように言ったに違いない)その優しさに絆され、ついつい、愚痴が唇から連なった。

    「つーか、何なんだ、あの人」

    壁に耳あり障子に目あり、じゃねぇけど、なんとなく聞かれてそうで思わず声を潜める。それに合わせるように雷蔵も周囲を見回しながら「毎日、すごい練習してるもんね」と呟いた。
    俺達の学校の体育祭には、代々、応援合戦が一つの花形種目になっている。古風にも、い・ろ・はの三つの組に分けられ、それぞれが伝統の応援を披露するのだ。もちろん、一番の主役は三年生なのだが、その伝統を引き継ぐために二年生も参加する。俺は(なぜか)二年生のリーダーとして、七松先輩にしごかれる毎日で。

    (いくら体力あるほうだっつっても、さすがに無茶だろ)

    声の出し過ぎですっかりと嗄れてしまった喉。毎日、外で練習してるために、夏場でもこんなに焼けなかった、ってぐれえ黒い肌。裸足のせいか、踵や足裏はガチガチに皮膚が硬くなってまるで軽石のようだ。ずっしりとした厚みの長ランを着て、汗だくになりながら、さらに重たい旗なんかを振り回し、全身を使って舞い踊るために、全身の筋肉痛は休む間もなく山積していってるのがわかる。

    「あの人、ぜってぇ、人間じゃない」

    沸々としたものに思わず叫ぶと、雷蔵が「しー」と唇に人差し指を当てた。それから、一段と低い声で「まぁ、それは否定しないけどさ…」と口にする。「だろ」と同調を求めると雷蔵は苦笑を浮かべながら、「けど、」と俺の方を柔らかく見つめた。

    「きっと、ハチは見込まれてるんだよ」

    そう、一番の辛いのはそこだった。声を出したり、体を動かしたり、覚えたりすることよりも、それが何よりもしんどかった。『何で、俺なんだ』って。三郎や雷蔵みたいに、同学年や後輩をまとめるようなカリスマ性も優しさもねぇってのに、リーダーなんて。皆を引っ張っていくどころか、自分の力のなさに、この役を投げ出しそうになるのを必死に堪える毎日だった。だから、思わず「そんなことねぇって。誰でもよかったし」と卑屈な言葉を吐きだす。

    「ううん。先輩方は正しかったと思う」
    「どうだか」
    「ハチが適任だよ」

    きっぱりと言い切った雷蔵の目には靭い光が宿っていた。











































     

    「留さんっ!」

    長く垂らされたハチマキが視界のはしっこで揺れた。たんたん、とリズミカルに階段を下っていく見知った背中に、踊り場から身を乗り出して叫ぶ。すぐに「おぉ」と呼応が返ってきて、僕の方を見上げた。その場で立ち止まった彼のもとへと慌てて駆け寄る。僕が同じ段に立つのを待って、彼は今度はゆっくりと足を運び出した。うっすらと夕方が下りてきた校舎はどことなくほの暗い。けれど、そわそわとした、妙な熱気が籠っていて、どことなく高揚した空気が流れているような気がする。

    (体育祭のとかイベントの前って、なんか、いつもと違うんだよなぁ)

    昼間は普段と変わらずに退屈な授業の繰り返しだというのに、放課後になるとがらりと変わる雰囲気は面白くて、そのままずっと続けばいいのに、と思ってしまう。けれど、みんな心のどこかで感じているのだろう。永遠じゃないから、こんなに燃えるのだと。

    「今から、練習?」
    「おぉ、文次郎や小平太に負けるわけにはいかねぇからな」

    僕の問いに楽しそうに答える留さんの目は、どことなくぎらぎらとしていた。その輝きに「あんまり無茶しないでよ」と怪我を危惧してそう注意すると、「わーってるって」と、あんまり思ってない口ぶりで留さんは僕の方から視線を外した。応援団長として、出場する普通の種目の練習後にOBなどに来てもらって鍛練しているのだ。そろそろ疲れもピークにきてるのだろう。

    (けど、それを言ったって止めないもんなぁ)

    練習を休むどころか意固地になるのが目に見えるから言わないけれど、でも、心配なものは心配で。こっそりため息をつき、ぽつぽつと練習の状況を話す彼に相槌を打つ。口数の少なさに、練習があまり上手くいってないんだろうな、ということだ想像ついた。けど、きっと留さんが自分から吐き出すことはないんだろう。

    (言ってほしい、ってのは僕のわがままなのかな)

    階段を降り切って、廊下を歩き続け、ひんやりとした昇降口まで来て、僕はさな板の手前で足を止めた。カタン、と、そのまま先を行った留さんの踏みしめた残響だけが静けさを打つ。それで気づいたのか、振り返った留さんは訝しげに僕の方を見ていた。

    「これから、委員会なんだ」
    「これから?」
    「うん。体育祭当日の動き確認しなきゃ」
    「大変だな、保健委員会は。無理するなよ」

    自分だって大変な状況なのに僕のことを心配してくれる彼の優しさに、ぎゅ、っと胸が痛くなった。

    「ねぇ、留さん。練習、何時頃終わる?」
    「え?」
    「ラーメンでも食べて帰ろう。明日、休みだし」

    弱音を吐いてくれないなら、ご飯を食べて馬鹿をして一緒に笑い合って。それが、今の僕にできることだから。











































     

    不意に、眼前が暗くなったような気がした。瞼を降ろしていても、その向こうに人が待っているのを感じて。心の中で“早くいけばいいのに”と念じるも、なかなか立ち去らない気配に、仕方なく目を開ける。俺を覗きこむ虎が酷く暗く見えたのは、陰影だけのせいじゃないだろう。根つめた表情で、「兵太夫」と俺の名を呼ぶから、すぐにピンときた。三ちゃんのことだって。事の顛末をすでに三ちゃんから聞いていたから、意地悪でもしてやろうか、と思ったけど、止めとく。馬鹿みたいに一人で悩んで悩んで…散々迷って俺の所に来たんだろうから。

    「三ちゃんなら、いないよ」
    「知ってる」
    「なら、新しい罠に引っ掛かりに来てくれたわけ?」

    けれど、虎は俺の問いには答えず、鬱々とした声でもう一度「兵太夫」と呼ぶもんだから、仕方なく「高いよ」と体を起して胡坐をかいた。落ちてきた夕日に赤く燃え立つ障子を後ろ手で閉めると、虎は戸口を背にして俺の隣に腰をおろした。


    ***

    「たとえばさ、」

    二人の間にあった騒動について言い終わり、それから、ため息を吐き出すように虎が呟いた。ゴツゴツと分厚くなった親指と人差し指をすり合わせながら。俯き加減な虎の向こう、障子に伸びる黒い柱の影が、太ったような気がした。

    (あぁ、そうか)

    「泣いてくれるとかさ、喚いてくれるとか怒鳴るとかなら、そんなんだったら分かりやすいんだ」
    「うん」
    「けど、ああやって、こらえて黙られると、正直、困る」

    ずっと、いじり倒している指先を眺めていた虎の頭を叩く。すがすがしい音が響いた。

    「何、俺の所に惚気にきたわけ?」
    「や、愚痴のつもりなんだけど。ってか、兵。マジ、どうすればいいんだ?」
    「知らないし」
    「そんなこと言わずに、な、」

    すがりつく腕を振り払い、立ち上がると廊下をに眼差しが投げる。

    「俺はそんな三ちゃん知らないし。それは虎にしか見せない顔だよ」

    す、っと引き扉の窪みに手を掛け開け放したさきに、若草色の衣にばつの悪そうな三ちゃんが立っていた。











































     

    「最低っ」

    耳元で音が弾けて、あ、と思った時には熱が走っていた。ゆっくりと滲んできた痛みに呆然としていると、涙目の彼女にきつく睨まれる。けど、何の感慨も生まれてこねぇ。

    「も、いい」

    怒りなのか絶望なのか、よく分からない言葉を彼女は投げつけ、俺に背を向けた。ヒラヒラとした柔らかそーなスカートが遠ざかっていく。午後3時。中途半端な時間な上に雨模様の天気。学食は空いていて、人は疎らだった。その分、声が響き渡ったのだろう、あっちこっちから好奇の視線が俺にベクトルを向けているのが分かった。しん、と普段ではありえない静けさが、その場所を支配する。

    (つーか、見せ物じゃねぇんだけど)

    注目を浴びた恥ずかしさと不躾な視線への苛立ちに、力任せに椅子を引く。派手な音が妙な静けさを打ち破った。乱暴な行為に、さっ、と目が逸らされた。それでも意識は向けられているのが分かって、のびきったうどんを食べて、さっさとゼミ部屋に戻ろうと考えていたら、

    「どーぞ」

    水だろうか、うっすらと青いペットボトルが目の前に置かれた。半分くらいの所でたぷんと水面が揺れる。聞いたことのない声に顔を上げると、つなぎ姿の見たこともない男がいた。

    「別に毒なんて入ってないさ。飲みかけで悪ぃがな」

    赤やら黄色やら色にまみれた鮮やかな指先に芸術科の知り合いを思い浮かべる。けど、記憶を辿ってみてもに、思いあたらなかった。考え込んだ俺をどう受け止めたのか、男は「嫌なら頬だけでも冷やせば?」と言葉を重ねた。

    「どーも」

    手繰り寄せて、緩んだキャップを回す。持った時には、やや生ぬるく感じたそれも、喉を落ちていくには涼やかさへと変わっていく。そのままボトルを頬に寄せる。ひたりと貼りつく冷たさに、熱が吸い込まれていくのが分かった。

    「あんたさ、そこのガソスタでバイトしてるだろ」

    男に指摘され、彼女(いや、もう元カノか)との喧嘩の原因を思い出す。雨のせいで湿った空気に籠る油染みた臭気。

    (そりゃ、デートの前にシャワーを浴びなかったのは悪かったけどさ)

    こっちは苦学生なんだ、と今更ながら元カノに言われた言葉に胸糞が悪くなる。残った水をあおり、そのまま飲み干した。軽くなったペットボトルをテーブルに転がすと、その男と目が合った。

    「私は嫌いじゃないがな」
    「は?」