ゆっくりと侵食してくる夜が、昼の名残りの熱を地面から奪っていき、ひんやりとした土の匂いが徐々に濃くなってきた。
先を駆けて薄闇を切り裂いていく三郎の背中を追いかける眼球の奥が痺れるように重い。
疲労が蓄積した足がもつれ、真っ直ぐに保っていた体躯が、やじろべえのように大きく傾いた。
衣服に包み覆いきれず露出した頬の下の皮膚が、すぱり、と切れたのが分かった。
「雷蔵っ!?」
僕の立てた音に振りかえった三郎が慌てて駈け戻ってくる。
三郎の額に当たる布は深い色に染まり、かなりの汗を書いているのだろう。
よく見れば、ガクガクとしていて膝が笑っている状態で、三郎もかなり足にきてることが分かる。
「大丈夫か?」
「ん、」
そう首を軽く振ると、三郎は眉を潜め、僕を見遣った。
僕は、たぶん、待っていた。ほんの、一瞬だけど、待っていた。
“もう十分やったじゃないか”って、終わりにする言葉を、あきらめの言葉が三郎の口を発することを。
-------------- たぶん、それは三郎も同じで。
「しんどいな」
「うん」
伸ばされた三郎の掌が、傷のない方の僕の頬を軽く触れる。
僕も自分の掌を、三郎の掌に重ねる。
「ここで、あきらめる?」
「まさか」
僕が慌ててそう答えると、三郎は口の端をきゅっと上げて、
「そうこないとな」
「んー」
トイレ脇の洗面台で自分とにらめっこしていると、怪訝そうな留さんと鏡越しに目が合った。
「どうした?」と言わんばかりに、その整った彼の片眉が緩く上がる。
「んー何か、唇がひりひりするんだよね」
日焼けかなぁ、と言葉を呟くために触れた唇は、かさりとささくれ立っていて。
軽く舌を這わしてみるけれど、潤ったのは一瞬で、すぐに乾きを覚える。
涼やかなものを、と貪欲な熱情に僕は勢いよく蛇口をひねった。
「今日、すげぇ暑かったからな」
「ホント。こういう日に体育とか止めてほしいよね」
「プールとかだったらよかったのにな」
「確かに。今日は入れたら気持ちいいだろうなぁ。
なのにさあ、プール開きするとさ、途端に寒くなるんだよね」
そう文句を言いながら、蛇口から洗面台まで伸びる水筋を、手で乱暴に破る。
飛沫が派手に上がって、一歩後ろにまでいた留さんまで掛って。
「おーいー」
「あ、ごめんごめん」
青い匂いが過った。
たくしあげられた長袖から覗く、留さんのよく日焼けした腕が視界の片隅に入る。
蛇口を僕がしたのとは反対方向に彼がひねると、直曝の勢いが弱まり、つぅぅ、と細い糸のような水流になった。
「っ」
「にしても、伊作、お前、ホント熱いな」
不意に触れられた右頬が、腫れるように熱くて熱くてたまらない。
からからに渇いた喉からは、冗談すら出てこなくて。
募る想いへの焦燥感に、目眩が僕を襲う。
「三郎、起きてる?」
「あぁ」
「暑いね」
「あぁ、暑いな。蛙が鳴いてる」
「うん。明日、雨だろうね」
「あぁ、雨だろうな。嫌だな」
「何で?」
「雷蔵と同じになれない」
「何が?」
「髪がさ、ぼわってなるだろ。やっぱり本物と違うからな。雷蔵のは、ほわほわしてる」
「あー。でも、僕なんかも、湿気を含むと纏まらなくて苦労するよ。
そう思うと、これからの季節がちょっと憂鬱になってきた。
ってかさ、三郎、寝れないくらい暑いなら、付け髪、取ればいいのに」
「やだ」
「何で?」
「雷蔵と同じになれない」
「また、それ?」
「そう。それ。雷蔵こそ、纏まらないなら、髪の毛を切ればいいだろ。そしたら、」
「そしたら?」
「私も付け髪を短くできる」
「何それ。…まぁ、でも、タカ丸さんにでも頼んでみようかな?」
「私が切ってやるよ」
「三郎が?」
「私が。心配しなくても変な髪型にはしないって」
「まぁ、三郎が器用なのは知ってるけどさぁ……じゃぁ、」
「やっぱり、いい」
「何が?」
「髪、切らないで」
「何で?」
「雷蔵のほわほわした髪が好きだから」
「……暑いね」
「あぁ、暑いな。蛙が鳴いてる」
「うん。明日、雨だろうね」
「あぁ、雨だろうな」
「おやすみ、三郎」
「あぁ、おやすみ」
急に地鳴りのような大きな足音が近づいてきたかと思うと、医務室の扉が荒々しく開け放たれた。
引き戸が桟にぶつかり跳ね返る様子に、思わず入ってきた人に文句の一つでも言おうとして。
口の先端まで出かかった言葉は、そのまま僕の中に取り残された。
--------突きつけるように差しだされた拳が、少しだけ震えていたから。
「どうしたのさ?」
留さんが見せてきた傷が、何でできたのかなど一目瞭然だった。
けれども、つい、そう問いかけてしまうのは保健委員に属する者の性分なのかもしれない。
傷口を検分していた僕は、留さんからの返答がないことに気が付き、顔をあげた。
留さんは口を閉ざしたまま、僕の視線を避けるように顔を背けていた。
うっ血してしまうんじゃないかって、心配になるくらい、ぐ、っと噛みしめられた唇。
その頑なさに、僕はため息を一つついて、それから治療に使う水桶へと手を伸ばした。
「ちょっと、しみるよ」
水を浸した手拭いで、塊になりかけている血を拭きとると、留さんの顔が苦痛に歪むのが分かった。
まるで老人の肌のように硬く、ひび割れたそこからは、押しだされた新たな赤が滲んでいた。
きれいな布片を当て、上から圧迫するように、きつく包帯を巻いていく。
「ん。これで、止血できたと思う。……まだ、行くの?」
疑問というよりも確認に近い僕の言葉に、留さんは「あぁ」と初めて言葉を発した。
「そっか。いってらっしゃい」
「……止めないのか?」
「だって、止めても行くんでしょ? 特訓」
そう尋ねると、さっきよりも力強い声が、僕の耳に、まっすぐ届いた。
「あぁ」
まるで、溺れるように。
まるで、何かに引きずられるように。
最近、私は、それこそ泥のように眠り続けている。
眠りの国は、すごく心地いい。
何もかもが現実的で、何もかもが非現実的だ。
夢の中では、私は空も飛べるし、海だって何時間だって泳げちゃう。
(私は泳ぐのがどうも下手らしい。溺れてる人と間違えられたこともある)
…そして、まだ、久々知先輩と手を繋いでいる。
夢の中の先輩は、いつも笑っている。
目じりを、きゅっと、緩めて私を見つめている。
その笑顔にほっとして、私は握りしめた彼の手の丸い爪をなぞる。
--------その瞬間、気付くのだ。これは、夢だと。
そうなったら、私は、もうその世界にいられない。
体の細胞の一つ一つまで、目覚めていくのがわかる。
全てが順々に現実に還っていき、最後に私は目を開けた。
窓越しに見えた、逆さまの空。
ほんのりとした、淡い金色が降ってくる。
床で寝てしまったせいだろうか、背中が酷く重い。
「今、何時だろう」
視界に置かれた枕元の時計の短針は4と5の間を指していて。
4時何分か、ということは寝起きの頭でも理解できた。
ただ、わからないのは、午前か午後か。
「っ」
気がつけば、嗚咽を漏れ出していた。
胸の中で溢れかえっている想いは、言葉にならなくて。
全てが、動き出しているのに、現実に還っていくのに。
-------------心だけが、眠っている。
眠りの国は、すごく心地いい。
ふわふわと、すごく幸せな気分で。
このまま、ずっと、そこにいたいくらい。