自動ドアの中へと踏み込んだとたん、酷く乾いた臭いのする風が顔を撫でた。 冷たさに肌に粟立つのを覚えたけど、「いらっしゃいませ」なんて迎えられたら、今更引き返すもできず。 仕方なく重い足取りを抱えながら、機械的で奇妙なほどくっきりとした笑みを貼り付けている店員に近づく。 「店内でお召し上がりですかぁ」 伸ばし気味の末尾に軽く苛立ちを覚えながらも、できるだけ小さな労力済まそうと頷き、メニュー表のアイスコーヒーを指さす。 「サイズはどうされますかぁ」 甘ったるいガムを飲みこんだ時のような胸やけのしそうな声音がピンク色の唇から吐き出された。 そんなに喉が渇いているわけじゃないけど、遅刻大魔王の『彼』のことを考え「…えむ、で」と答える。 他のサイドメニューを勧めてきそうな雰囲気に「以上で」とこちらから断絶すると「アイスMでーす」と店中に聞こえそうな甲高い声が響き渡って、頭の隅が引き攣るように痛んだ。 *** 受け取ったトレーを片手に、白っぽく乾いた店内をぐるりと見渡す。 ランチタイムには少し遅い時間のせいか、半分ぐらいしか埋まっていない。 てきとーに空いていた席を見つけ、テーブルにトレーを置いて窓が見える方に向かって腰掛ける。 と、それまで溜まっていた疲れが一気に吹き出した。 「最悪」 高めのヒールが足裏のツボを刺激しているかのように、指の付け根がしっかり痛い。 余計な力が入っているせいか、踝からふくらはぎの辺りまで、疲れが重たく滞ってる。 おまけに細いストラップが擦れてしまって、足の甲が痛くてたまらない。 (こんなの履いてくるんじゃなかった) 今すぐに脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られ、けど、ぐ、っと掌に爪を突き立てるように握りしめて堪える。 と、小さな震動を感じて、鞄の中に放りこんであった携帯を探る。 伸ばした爪にストラップが引っかかり、そのまま引っかけるようにして取り出すと、メールの着信を知らすランプが小さく点滅した。 折りたたんであったそれを開くと、予想通り、受信ボックスの新着メッセージに『彼』の名があった。 真ん中のボタンを一つ叩き、画面にずらずらと書き連なった顔文字付きの謝罪の文面が現れ、その中から『遅れる』の三文字を見つけて、ため息をひとつ。 『待ってます』という五文字を打ち込むと、さっと、送信ボタンを押し、送信確認画面が出る前に携帯を折りたたむ。 *** 窓側を向いて座るのが、癖だった。 ガラスの向こうに広がる世界は、強烈な太陽が灼くように降り注いでいるせいか妙に白っぽい。 立ちのぼる陽炎が揺らぐ様は、まるで水槽を覗き込んでいるような、そんな気分にさせる。 暑そうに額を拭いながら歩いて行くリーマン、馬鹿騒ぎをしていて小突き回っている学生、小さな子どもの手を引きずるように歩いて行く親。 (どれも、違う。『先輩』じゃ、ない) 自分が生まれ変わっているのだから、もしかしたら相手も生まれ変わっているのかもしれない。 けど、同じ時代、同じ国なんて、いったい、どれ程の確率か。 計算したことなんてないけれど、天文学的な数字になることには違いない。 (それでも、期待してしまうのは、) *** 「綾ちゃん、ごめんねー」 ぼんやりとした思考を、きらきらと透けてみえた淡い金色の光に、遮られた。 『あの頃』こそ珍しかったその髪色も、今では多勢に埋没してしまう。 あまり変わらない相貌を見るたびに、凪のように穏やかな感情がひた寄せる。 「いいえ。タカ丸さんの遅刻には慣れてますから」 「ごめん、ごめん」 頭を掻きながら彼が目の前に座ると、その体躯の分だけ日差しが遮られた。 その向こうを、ゆらり、と黒い髪が過ぎって、思わず凝らすようにその人物を眺めた。 けど、すぐに見知らぬ人だと分かって、ため息を呑みこむかわりにストローに口をつける。 すっかり氷が溶けだして水っぽくなったコーヒーは、酸っぱかった。 「今日は休みなんですね」 「久しぶりにねー」 ここの所忙しくて、と充足した笑みを向ける彼は、『あの頃』と変わらない仕事をしている。 と、少し離れた席から華やいだ嬌声が聞こえてきた。 興奮を抑えきれないのか、ちらりちらりと送られる視線と、歪むような甲高い声が耳を突く。 カリスマ美容師とその恋人、と邪推する内容を言葉の端々から感じとって、なんとなく不愉快になる。 (あんな奴らに、分かるはずないのに) 「どうしたの? そんな、しかめっ面でさ。せっかくの美人さんが台無しだよ」 「……そーゆーのがムカつくんです」 わけが分からないのか、きょとんと私を見つめるタカ丸さんの視線に、更なる苛立ちが募る。 「私は男でした」 生まれた時から私には『綾部喜八郎』という人物の記憶があった。 記憶があったというよりも、私自身が『綾部喜八郎』そのものであった。 けれど、どこで遺伝子が組みかえられたのかは分からないけど、私は女として生まれた。 当然の事ながら娘を授かったとしか考えていない両親に花よ蝶よと育てられ、16年が過ぎてしまった。 「美人さんってのは、男でも女でも使うけどねぇ」 ストローでアイスティを啜っていたタカ丸さんは、ふにゃりと頬を緩めて、そう答えた。 ゆるりと落ちてくるキャミソールを、爪先で摘まんで乱暴に肩にかけ直して。 足の甲の半分しか履いてなかった靴を、ぽん、と投げだす。 (こんな、ヒラヒラした服も、歩きにくいヒールの靴も、本当は嫌だ) 女の子らしく、と色々と善くしてくれた両親を困惑させる気にはなれなかったけれど、心が叫ぶのだ。 「でも、私は『綾部喜八郎』なんです」 遺伝子よりもずっとずっと深い所に刻み込まれた『あの頃』が、そう、叫ぶのだ。 「そんなに嫌なら止めればいいと思うんだけどなぁ。 そんな服も、靴も、女の子として振舞うのも。自由気儘に生きてきた綾ちゃんらしくない」 捻り出すような私の言葉を聞いていたタカ丸さんは、どことなく嗤うように言い放った。 挑発するような言葉に、睨みつけながら「じゃぁ、髪、切ってください」と頼むと、ふ、と彼の目が翳った。 さっきとは違い、緩く眉を下がらせ、痛むような眼差しを私に向けて「いいの?」と呟くように尋ねてきた。 「何がです?」 「だって、ずっと、伸ばしていたんでしょ。見つけてもらうために」 誰の為、とは、タカ丸さんは言わなかった。 だから、私も答えなかった。 瞼をそっと下ろして、その奥にずっと棲み続ける『先輩』の面影をなぞる。 -----------------きっとタカ丸さんも同じように思い出してるのだろう。 「とりあえずさ、ぺたんこサンダル、買おうよ」 温かな声に目を開けると、「足が痛そうだもの」と柔らかく笑うタカ丸さんがそこにいた。 (ねぇ、先輩。どこにいるんですか? ずっと探してるんですよ。私も、それからタカ丸さんも) まぼろしだけで 繋がるしかなくて
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