ハチしか、想えない。 L o v e s i c k n e s s
恋をすると、死んでしまう
ぼんやりとしていた視界が鮮明になっていき、その中に、見知った横顔が映った。 俺が身動ぎしたことに気がついたのか、彼がこちらを向いた。 今にも泣き出しそうな視線が、俺に絡みついた。ゆらゆらと暗澹に揺れる彼の瞳には、痛々しいものを見つめるような、そんな色が浮かんでいる。 「さぶ……ろ? 俺?」 「教室でぶっ倒れたんだよ」 言いにくそうにその端正な顔を歪めて三郎は、そう、告げた。 視線を泳がせば見たことのある淡い白の壁に柔らかな生成色のカーテンが頭上に合って。ここが保健室であることと、それから自分がベッドに寝かされていることを理解した。 掛け布団の端を握りしめたまま、彼に尋ねる。 「……夢じゃなかったんだな」 三郎は、何も言わなかった。ただただ、さっきと少しも変わらぬ、昏い目をしたまま俺の方を見つめていた。息が詰まる程重苦しい沈黙が、その事実を肯定する。俺はもう一度「夢じゃない、か」とその言葉を噛みしめた。そう、夢じゃない。そう分かっているはずなのに、どこか非現実的な気がして、うまくこの現実を呑みこめずにいた。何が本当で何が偽りなのか分からなかった。 「兵助……」 空気がか細く揺れた。戸惑いに満ちた三郎の声さえ、今はハチを思い出させるもので。 「悪ぃ、独りにしてくれないか?」 俺は三郎の優しさを跳ね除けるように、布団に潜り込んだ。ぐっと膝を抱え込むような体勢で薄暗い闇の中で息を潜める。耳の裏側、脈打つ音。うるさい。現実だ、と知らされているみたいだ。抑え込もうとすればするほど、クリアになっていくそれ。ハチ、ハチ、ハチ。 「……わかった」 しばらく佇んでいた気配から一つ溜息が落ちた。波紋のように部屋を伝播していき----それが消えるころ、ようやく上履きの擦れる音が暗がりの向こうから伝ってきた。足音が遠ざかり、ぱたり、と扉が空気を閉じ込める。それでも、完全な静寂は戻ってこない。脈拍のうるささに頭痛が相まって、吐きそうだった。 (なぁ、ハチ、俺なにかしたか?) 不意に、携帯のイルミネーションが闇に包まれた視界を劈いた。とたんに、さっきのハチの声が蘇る。耳をふさぎたい。目を背けたい。なかったことにしたい。けれど、はっきりと自分の中でこだまする「忘れてくれ」その言葉。 「ハチぃ……」 ぱたりぱたり。こもった音が、布団に吸い込まれていく。涙を留める術が、なかった。 (なぁ、何で? 俺、ハチに嫌われるようなことしたのかな?) *** 『大丈夫か?』 『早く出て来い』 『元気出して』 点滅し続ける、メールの着信ランプ。休み時間ごとに入ってくる留守録のメッセージ。そこには、学校を休み続ける俺を失敗する友人らの名前がディスプレイに連なっていた。けど、どんなに待っても 「ハチ」 その名がそこに映ることはなかった。 「は……ち……」 あの日の着信履歴は、もう消えた。ハチの名前は残ってない。けれど、それが夢になるわけじゃなかった。時間が経てば経つほど、こびりついてしまって取れないハチの声。俺は胸の痛みに耐えるように、ぎゅっと、携帯を握りしめた。ただただ、涙が携帯を濡らした。 「兵助、これは? おそろいのストラップでさっ」 「なぁ、何て落書きする?」 携帯に連絡がないのが答えなのだ、そう思い込もうと、この感情を封じ込めようとする。けれど、何を見ても何をしても、思い出すのは彼のことで。簡単に、ハチの言葉が、笑顔が、温もりが蘇る。息一つ、瞬き一つですら、全てがハチに向かう。俺の中に、ハチはこんなにも棲みついていた。なのに、 「なぁ、何で? ……別れたくない……ハチぃ……」 ハチと別れたくない。ハチを忘れることなんて、できない。ハチ以外の人を想うことなんて、できない。 -------------------------------------ハチしか、愛せない。 *** どうしようもない暗闇に迷い込んでしまったようだった。雷蔵や三郎や勘ちゃんが心配してくれて、元気づけようとしてくれてるのは分かったけれど、何もする気になれなかった。学校に出かけることも、食事をすることも、何もかもが無駄なように思えた。息をすることでさえ、も。ハチがいないのなら、何も意味がない。ただただ、涙し続けた。どれだけ泣いたのだろう。目が溶けるんじゃないかってくらい泣いて。もう涙は出てこないんじゃないかってくらい泣いて。それでも涙が枯れることはなくって。 『兵助、ハチが学校に来てる』 勘ちゃんからのメールを見た瞬間、俺は部屋を飛び出していた。 ----------------------------ハチ。俺は、ハチじゃなきゃだめなんだよ。 → |