いつもと変わらない冬の夜だというのに、年の瀬の街は騒がしく、どこか浮かれたっている。忘年会帰りのサラリーマンにイルミネーションを見に来たカップル。ステップを踏む足取りは軽やかに俺の前を通り抜けていく。煌びやかなネオンは闇を透かし、近くの空は藍色に淡く溶かされていて明るい。そのせいか、晴れているんだろうけど、星は見えなかった。

(満天の星空を見せてやる、って、どういうことだ?)

***

今時ドラマでも言わないような歯の浮くセリフを三郎が言ってきたのは、一週間くらい前、ちょうど寝ようとしていた時のことだった。
久しぶりに掛かってきた電話の用件は、最初は年明けにある同窓会(といっても仲のいい友人らと呑むだけだが)に帰るか、って話で、それで幹事の友人にメールを返していないことを思い出した。

「いや、この正月は帰らないから」

出るのか、という問にそう答えれば、電話越しに「休みじゃないのか?」と怪訝そうな声が届いた。深夜番組でも見ているんだろうか、受話口の向こうからは、何かよくわからない笑い声が聞こえてくる。カレンダー通り休みの俺とは違って三郎は明日(というかもう今日か)は仕事じゃなかっただろうか、と時間が時間だけに、大丈夫か、って思う。

(まぁ、もういい歳した大人なんだから、俺がどうこう言うこともないけど)

そんなことを思いつつ俺は「休みだよ。二十八日が仕事納めで、四日から勤務」と答える。

「なら十分、帰れるじゃねぇか」
「まぁ、そうだけどさ」

そう呟いてから「帰るといろいろと親が煩いし」と俺が続けた。まだ二十九歳だというのに、最近、カノジョを連れてこいだとか結婚の予定はないのか、とやたらと聞かれるのだ。
その度に、まだ早すぎるから、と適当に濁すものの、どうやら田舎はそういうわけにいかないらしい。盆に帰った時も、どこどこの誰誰が結婚しただの、どこぞの家は孫が生まれただの、耳が痛くなるほど色々と言い聞かせられたのだ。

(孫の顔を諦めてくれ、とか言えたら楽なんだろうけど)

嫁さんと子どもと一家団欒なんてそんな日が来ることは絶対にないだろう、と確信を持って言えた。だが、父母に男と付き合ってます、ましてやそれが高校の友人で、あなたたちもよく知っている三郎です、だなんてカミングアウトできるほど俺は靭くなかった。
その悩みの種の一端を担っているはずの三郎は「大変だな」と他人事のような同情を寄せてきた。まぁ、長男の俺とは違い、三男坊で昔から自由気ままな生活を送っていたヤツには俺のような悩みとは無縁のところにいるのかもしれない。

(お前のせいだろ、責任取れよ、なんて三文芝居に出てくることは言うつもりはないけど)

未来がない、とまでは言わないが、先のことが見通せない暗闇の中にいるのも事実だった。今はまだいい。親からの追求も「忙しいからカノジョを作る暇はない」とか「まだ三十にもなってないのに結婚なんて考えられない」と濁していられるから。
けど、問題はそこじゃない。十年後、二十年後、俺たちはどうしてるのだろうか---------------一緒にいるのだろうか?

「まぁ、じゃぁ、とりあえず、今回は不参加なのか?」

ふ、と割り込んできたのは、俺の思案など全く関係ない三郎の言葉だった。急に『今』という場に引き戻されて、「……あぁ。正月に帰らないのに、わざわざそれだけのために行くのもな」とワンテンポ遅れて返事をする。すると、ちょっと子どもが拗ねたようなトーンの声が受話口から聞こえてきた。

「ふーん、なら、私も止めておこうかな」
「別に合わさなくてもいいんじゃないか?」
「止めとく。兵助がいないのなら、つまらねぇし……あー久しぶりに兵助と会えると思ったのにな」

駄々っ子めいた言いように「久しぶりか?」と突き放せば「久しぶりだろ。前に会ったの十月だぞ。二ヶ月もあってないんだぞ。おまけにクリスマスも、仕事で会えないじゃないか。こんなのなら、遠距離していた頃の方がよほど会ってたし」と早口でまくし立てられるようにして噛みつかれた。

(あー、そうかもな)

離ればなれだった大学を卒業し、働き出して三年。勤務の関係でようやく同じ都市に住むことができるようになったのは、二十五の時だった。それまではバラバラに住んでいたからこそ、それこそ、月一回はどうにかこうにか時間を作って会いに行っていた。
だが、逆に、会おうと思えばいくらでも会うことができるようになってしまえば、その距離に安心してしまったのか、前に会ったのはいつだったか、と思い出さなければいけないくらいにしか会わなくなってしまっていた。

(惰性ではないよ、な)

付き合いが長くなってしまえば、触れるだけで緊張する、とか、待ち合わせだけで楽しみだ、とかそんな可愛らしい感情なんて沸き上がることもない。一番大きいのは、一緒にいて楽だということだった。そりゃまぁ、セックスをするときは別だが、別にこいつの前だったら、正直、スウェットで横に転がって腹をぼりぼり掻くことだってできる。気取らなくてもいい、言葉にしなくても何となく通じる物がある。
それを居心地の良さと取るべきなのか、それとも惰性と取るべきなのか。もし、周りから、なし崩しのままダラダラと付き合っている、と言われたら完全には否定はできないのだけど--------------だけど、そうと言い切ってしまえば、心のどこかに虚を覚えるのだ。冷たく、昏く、淋しい虚を。

「じゃぁ、年を越す前に一回呑みに行くか」

唐突に飛び込んできた三郎の声。別事を考えていたせいで、何が『じゃぁ』なのか分からないけれど、それも悪くないと思い「俺は二十八日で仕事納めだからその後はいつでもいいけど、三郎は?」と訊ねた。すると、「あー俺、三十一日しか空いてない」と唸るような声が戻ってきた。三十一日。大晦日。「まぁ、どこも混んでると思うけど」と街々の騒々しさを思い浮かべていれば、三郎が言ったのだ。

「満天の星空を見せてやるよ」

***

ざくり。その乾いた響きに、地面で静かにその終わりを迎えようとしている枯葉が、俺のブーツによってあっさりと割れたことを知る。冷えきった空気が喉を剥いでいく感覚に俺はマフラーを更に押し上げ、口元まで覆った。人息の温かさも感じるのは最初だけで、早くアルコールを入れて温まりたい、と自然と足が速くなる。
指定された店は、ずいぶんと路地の奥まったところにあった。辺りを二、三度巡ってからようやく見つけた扉に、付近にその店の名の看板が出てないかと見遣ったけど、闇に呑まれてよく分からない。とりあえず、他にそれらしき入り口はなく、ここだろう、と俺は扉を開ければ、ちりん、と聖夜も過ぎたのに、小さなベルが頭上で鳴った。
店の中は外とは違い、温かみのある暗さが店の中を満たしていた。ちょうど、入口付近にいた店員が、ちらり、と俺に視線を投げかけきた。「連れが来てるんだけど」と告げ、辺りを見渡す。と、カウンターから「兵助、こっち」と声を掛けられた。ほ、っと息を吐くと、目で店員に合図を寄越して三郎の元に足を向けた。

「遅かったな、兵助」
「ちょっと迷った」
「電話してくれたらよかったのに」

初めての店でどんな種類のアルコールがあるのか分からず、頼むのの参考に、と思って、俺はコートを脱ぎながら三郎の隣に腰を下ろし、ヤツの呑んでいるグラスを見遣った。だが、生憎、干したところなのだろう。足高のすらりとしたグラスは、つぅ、と僅かな水滴とアルコールのてらりとした痕跡が残っているだけで、何が入っていたかまでは分からなかった。

「それ、何、呑んでる?」

同じ物を頼もうと目線をグラスに置いたまま訊ねたのだが、三郎は俺に答えることなく、前にいたバーテンに「これと同じものを。あ、こいつにも」と勝手に注文してしまった。え、っと戸惑ったけど、さすがにこの場で声を上げるのは格好悪い。バーテンが「かしこまりました」と下がった後に三郎に小声で文句を言う。

「お前、何、勝手に決めてるんだよ」
「いいだろ。どうせ同じのを、って言うくせに」

まぁ確かにそのつもりだったのだが、自分で言うのと人に言われるのとでは全然違う。何がどう、ってわけではないのだけれど、気分的に。だから、やや批難を込めた口調で「それで、何を呑んでいたんだよ」と改めて問うた。すると、彼はどこか楽しそうに口にした。

「星」
「は?」
「星を呑んだ」

一瞬、頭がおかしくなったのかと思った。昔から変なことを言うヤツだったが、星を呑んだとか意味が分からない。思いっきりそれが顔に出てしまっていたのだろう。三郎は唇を緩めたまま説明しかけ、ちょうど、そこに「お待たせしました」とバーテンがグラスをカウンターに並べた。

「シャンパンだよ。シャンパン。昔から、フランスではシャンパンを星を呑むって言うそうだ」

グラスの中で、ゆらゆらと昇っていき、瞬くようにして弾けるいくつもの泡。店内の暖色味のあるルームライトのせいだろうか、それとも元々のシャンパンの色合いのせいなのだろうか。その泡が灯す淡いこがね色の光は、まさに星のようだった。

「……それで、『満天の星を見せてやる』って言っていたのか?」

三郎の誘い文句を思い出して聞いてみれば三郎は「いや。違う」と首を横に振り否定した。じゃぁ何なんだ、と訊ねようとした瞬間、ふ、と店の灯りが落ちた。トーンダウンした、というレベルじゃない。それまで柔らかな橙色の光でゆったりと包み込まれていた店内を、真っ暗な闇が塗り込めて漆黒に閉じこめられてしまった。

「な、」

突然のことに混乱してそれしか言葉が出ず、何か火事とかあったんじゃないだろうか、と慌てて立ち上がろうとして。けど、俺の手を、ぐ、っと引く温かく力強い掌。隣にいた三郎だ。手首を掴まれたまま、耳元で囁かれる。

「大丈夫だ。もうすぐ満天の星が見える」

次の瞬間、俺が目にしたのは、宙から零れる星々だった。

***

「ここ、プラネタリウムバーなんだ」

プログラムの上映が終われば、再び、店内の明るさは暖かみのあるそれに代わって。宇宙に旅していた身体がようやく戻ってきた。けど、地上に足を付けたかのような、ふわふわした感じが残っている。まだ夢心地の俺は呆けたように「そうやって最初から言ってくれればよかったのに」と呟いた。すると「言ったら、驚きがなくなるだろ」と三郎は笑い、それから続ける。

「兵助、昔から星とかプラネタリウムとか好きだっただろう。だから、一度連れて来ようとずっと思ってたのさ。本当なら本物の満点の星空が見せたいんだが、まぁ、それはまたいつかの話で」

そうやって覚えていてくれることはすごく嬉しい。だが、三郎が言うことが、いちいちキザで。気恥ずかしくて俺は話題を変えようとした。ぱ、っと目に入ったのは、さっきまで星空を創り出していた投影機らしきもの。お風呂なんかで楽しむようなタイプのものは、ちょっとした雑貨屋なんかでも見かけるが、それとは比べものにならないほど立派なものだった。

「そういえばさ、昔、プラネタリウム作ろうとしたこと、あったよな」
「あー、あったな」
「高校最後の年、だっけ?」

三郎が学校祭でプラネタリムを上映したい、って言い出したのを、俺はまるで昨日のように覚えている。
まるで映画のワンシーンのような、完璧な放課後だった。もし神様がいるのだとするならば、きっと神様に采配されたんだろう、そう思わずにはいられないほど美しい放課後のことだった。-------------あの日がなければ、今、俺たちはここにいない。

***

ゆっくりと力を逸していく夕日が、教室全体を淡い金色に包み込んでいた。遠く、ブラスバンドが奏でたメロディは、ぶつかり、はね返り、混ざり合い、ばらばらになって、元がどんな曲だったのかさっぱりだった。けれど、そこに運動部のかけ声や(たとえば、テニス部の「そーれー」であったり走り込みをしている柔道部の「一、二、三」といったものであったり)野球部のノック練習で弾かれた金属音が重なり、新たなメロディが紡がれているような感じだった。
各々が部活や委員会、もしくは足早に街へと繰り出して人気が少なく空洞化した校舎で、そのメロディはやけに賑やかしく感じる。だからだろう、その教室の静けさに、一瞬、入るのを躊躇した。--------あるいは、その、こがね色の光の中に佇む三郎にどうしようもなく焦がれる感情を抱いたからかもしれない。
それでも用件を果たさなければ、と俺は意を決した。

「三郎」

手元に集中していたやつは、ふ、と顔を上げると「お、い組から偵察か?」と可笑しそうに唇を緩めた。もちろん冗談だと分かっていても「違う。昼休みに貸したノート」と注釈を付けたのは、そうでもしないといつまでも本題に辿り着けないという、過去の分析からの判断だった。
自分は饒舌なほうでないという自覚がある。それにも関わらず、三郎と話していると、話題があらぬ方向へと広がっていってしまい、最終的に本来言わなければいけないこととか、聞かなければならない-----------------三郎の考えていることは、よく分からない。二年経っても俺の中での三郎はよく分からないやつ、という存在のままだった。

「悪ぃ。ちょっと待ってろ」

三郎は持っていたものを机に置くと、横に掛けてあった鞄を漁りだした。カップうどんの容器を二つ合わせたような、そんな球体が自然と目に止まる。真っ黒のそれはマジックか何かで塗りつぶしたのだろうか、ペンを当てた力に強弱があったのだろう、妙な色むらができていた。

「あー、あったあった」

 助かった、と差し出されたノートを受け取った俺の口からは、自然とその疑問が零れた。

「何やってたんだ?」
「何やってるように思う?」

 嫌なやつだ。分からないから聞いているのに、と軽く睨みつければ「そんな怒るなよ」とわざとらしく両手を挙げる。まるで洋画の主人公みたいに。それが様になるのだから、ちょっと腹立たしい。矛盾しながら「怒ってない」と答えると、三郎はその黒々とした球体を手にした。

「これにさ、穴を開けてみたらどうなるかと思って、さっきからずっと試していたところだ」

 さっきは遠目で分からなかったが、その手には針があった。家庭科でしか使わないそれは、どう見てもこの場に不釣り合いな存在だったが、俺は彼が何をしようとしているのかが分かってしまった。

「まさか、と思うけど……もしかしてプラネタリウムを作ってるのか?」
「あぁ。よく分かったな」

 幽かに細められた目が三郎の驚きを宿していた。喜怒哀楽、表情豊かに変える割に、それがやつの本心じゃなく演じている部分が多々あることを俺は知っている(そして、そのことを知る人物が数少ないというのも、また)。だからこそ、こうやってちょっとした変化に隠された本心が見れたときに俺は感じる。嬉しさと----------それから、もっと知りたい、という気持ちを。

「それ、針で穴を開けていたのか?」
「あぁ。すげぇ肩凝った」

 やつが首を倒した途端、ばきぼき、と俺の頭にまで響いた音に、真実を告げるのは忍びない気がしたが、三郎のことだ、言わなければ発覚したときに後々まで文句を言われるに違いない、と告げておく。

「それじゃ、見えないけどな」
「はっ?」
「それで、穴を開けて、中からライトで照らし出すつもりだったんだろ」

 あぁ、と頷く三郎に事実を端的に伝える。

「そのやり方じゃ見えないよ。単に、ぼやぁって光が出るだけ」
「マジで!? 今までの苦労が……」
「案外、三郎って馬鹿なんだな」

 考えれば分かりそうなのに、という暗意を込めて告げれば、酷く落胆した様子の三郎は「悪かったな。ってか、お前だって、さっきの言い方じゃ試したんだろ?」と噛みついてきた。

「まぁ、小学生の時にな」
「……嫌なヤツだな」

 あーあ、と三郎は伸びをする勢いに任せ、手にしていた球体を投げ出した。床に転がったそれは、そのうちに机の脚に引っ掛かって止まった。まだ収まらないのだろう「無駄に時間を使ってしまったー」とぼやく三郎は子どものようにどこか幼い。

(これも素なのだろうか? それとも演技なんだろうか?)

 三郎の真意について考えるとき、それこそ、幾千万もある星の中から、たった一つを探すような、そんな気持ちになる。たくさんありすぎて、どれも小さすぎて、目を凝らしている間に、何を探していたのか分からなく。-----------たとえば、シリウスくらい明るければ、さっと見つけることができるのに。

「笑うなら笑えよ」

 不機嫌な声音に、俺は慌てて首を振った。

「笑わない……今年の文化祭で使うつもりだったのか?」
「あぁ」
「ずいぶん、地味なんだな」
「地味で悪かったな」

高校に入って知り合った三郎は、派手なことをすることで有名だった。元々、ろ組はお祭り好きなやつが集まったこともあるのだろうが、その元締めである彼が代表委員であるがために、特に行事ごとになると、やることが半端なかった。
一年生の時は、本格的な女装・男装喫茶(当然のようにメイドと執事がいた)のために、校内に暖炉のある部屋が出現したし、二年生の時は、校内にお化け屋敷兼巨大迷路を作ってみたり(しかも、なぜかローラー滑り台で二階から一階に下りて出口だった)していた。
それだけに、高校最後の文化祭が『プラネタリウム』というのには、正直、驚いた。どんなことをするのか、と皆の期待があっただけに、勘ちゃんから「今年、ろ組はプラネタリウムなんだって」と聞いたときに、ちょっと拍子抜けしたのは否めなかった。

(まぁ、俺は星が好きだから、嬉しかったけど)

 この高校で唯一、残念に思うのは天文部がないことだ、と思うくらいに俺は星が好きだった。家には天体望遠鏡もあるし、時々、隣の市まで出ていきプラネタリウムも見に行く。だから、三郎のクラスの出し物がそれと聞いたとき、羨ましくて仕方なかったのだ。

「いや、俺は好きだからいいけどさ……けど、実は、周りにはそうやって言っておいて、本当は別のことやるとか、そんなのなのか?」
「いや。普通のプラネタリウムだ」
「そうなのか? てっきり三郎たちのことだから、また何かしでかすのかと思ってた」

 しでかす、って何だよ、と笑った三郎に、勘ちゃんに聞いて以来ずっと疑問だったことが改めて浮かび上がる。しでかす、とまではいかなくても、最後だから絶対にもっと派手なことをすると予想していたから。その意味も含めて疑問を投げかける。

「何で、プラネタリウムなんだ?」

 だが、三郎は俺の問に答えることなく、椅子から立ち上がった。さっき転がっていった黒い球体を拾い上げる。ふ、とこがね色の光が途絶えた。校舎の陰に太陽が入ってしまったんだろうか。一気に暗がりに落ちた中で、三郎の細やかな表情の変化など見て取ることはできなくて。

「何でだと思う?」

俺を見る三郎の目には、星のような小さな光が宿っていた。

***

「け……兵助……兵助!」

急に呼ばれて、は、っと指がカウンターのシャンパングラスにぶつかりそうになる。寸でのところでグラスの足の部分を掴んで事なきを得たけれど、たぷん、と中の琥珀は揺れて。すっかりと収まっていた泡の星が、また、一面に輝きだした。

「何、思い出してた?」

そう尋ねてきた三郎はニヤニヤ笑ってて、たぶん、同じ事を考えていたのだろうけど「……別に」とだけ言っておく。すると、ますますヤツのにやけ面が酷くなったものだから、カウンターの下で足を蹴っ飛ばした。

「って」
「何、そんなニヤニヤしてるんだよ」

 見事命中させた俺が文句を上げれば、三郎は蹴られたことが不服だといったといった面持ちを浮かべ、それから当然だろ、と言いたげに「するだろ」と唇の端を上げた。シャンパングラスを引き寄せた三郎が、さらに、一見こちらが気恥ずかしくなるような言葉を告げる。

「俺とお前との始まりなんだから」

けれど、その言葉は俺に昏いものを連想させた。始まり。始まりがあれば必ず付きまとう、もの。

「……いつ終わるんだろうな」

つい、ぼそりと漏らせば、シャンパンを飲もうとしていた三郎はグラスを降ろして俺の方を覗き込んだ。何が、とは言わなかった。けれど伝わるものがあったのだろう。

「何、お前、終わらせたいわけ?」

三郎の面持ちは怒っているようにも哀しんでいるようにも面白がっているようにも見えなかった。ただ、ひどく真面目な相貌をしていて。その中に、星屑よりも小さな小さな光が一瞬だけ物言いたげに灯ったけれど、それを掬い上げるよりも先に昏さに塗りつぶされてしまって、結局、いや、と俺は首を振った。
三郎は黙ったまま、再びグラスを持ち上げるとシャンパンを呷った。僕もグラスを引き寄せた。ずっと静まりかえっていた、こがね色に。-----------------揺れたアルコールの中で、星が踊る。口をグラスに寄せると、一気に押し込んだ。ひりひりと痺れる。唇も、喉も、肺も。でも、それはシャンパンに含まれる炭酸のせいじゃない。-------------心も痺れていたから。


(全部、吐き出してしまおうか、)

 そうしたら楽にはなれるだろう。それのことは目に見えていた。そして、その先にある結論も。--------------三郎は俺を引き留めないだろうし、俺もまた三郎には縋り付かないだろう。終わらせたい訳じゃない。でも、終わりになってしまう。
 そうと分かっているのに、まるでシャンパンの泡のように、どんどんと浮かび上がってくる、いくつもの想い。そして、その根幹にあるは、たった一つだけだった。十年後、二十年後、俺たちはどうしてるのだろうか、一緒にいるのだろうか、という疑問。

(いや、違うな。……一緒にいたい、と思ってくれているのだろうか?)

 全てをぶちまけようとした瞬間、ふ、と突然に闇が訪れた。ゆったりとした音楽に混じって届くアナウンスに、プラネタリウムの新たなプログラムの開始を知る。

『本日の空は……』

 ふわり、と手に温もりが宿った。三郎の手。暗闇の中で手を重ねられる。-----------それは、まるであの日のようだった。三郎と、初めてキスをしたときみたいだ。

***

 明日から文化祭、という校舎内はすっかりと様変わりしてしまった。日常が取り払われた空間というのは、ちょっと不思議だった。もう、ほとんど準備が終わったためだろう、静まりかえった廊下を歩いていた俺は、ふ、とその教室の看板の文字に惹かれ、何の気になしに、覗いて、

「あれ、三郎?」
「お、兵助。何だ、前夜祭行かなくてもいいのか?」
「人が多いのは苦手だって知ってるだろ」

 閉めきった窓からでも聞こえてくる、楽しげな声。その一端を担っているのは友人の勘ちゃんだった。DJとして盛り上げてくる、と宣言したとおり、校庭にはたくさんの人が溢れかえっているが、皆、笑顔だった。暮れていく夕方は、西の端に鮮やかな残照があるのみだった。

「三郎こそ、行かなくていいのか?」
「まだ、やることが残ってるからな」
「そんな暗いところで、何やってるんだ?」
「裁縫」
「それは見れば分かる」

 そうじゃなくて、と言い募った俺など気にすることもなく、三郎は「できた」と手にしていた布を、まるで布団のシーツを引くみたいに大きく揺らした。ばさ、っと空気を含んだそれが、ふんわりと床に降りる。

「兵助、暗幕を掛けるのをちょっと手伝ってくれないか?」

 いいけど、と返事をするよりも先に、カーテンの端を渡された。カーテンレールに引っかけるから端を渡してくれ、と三郎は椅子を窓際に寄せた。足下に付きそうなカーテンを丸めて抱えた俺もまた窓に近づく。ノリのいい曲がガラスを振動させ、そこに、誰かの笑い声が重なる。それなのに、この空間だけは切り離されているくらい静かで----------------まるで、宇宙船に乗っているみたいだった。

「ん、貸して」
「はい」

 でも、この静けさは嫌いじゃなかった。
指示されたとおりカーテンの端を渡しながら、周囲を見渡す。三郎のクラスも明日からの展示だ。教室の中央に鎮座された球体。結局、自作で作ることを諦めた三郎が他校の天文部から借りてきた投影機だった。明日、どこかで時間を作って来よう、と目でその機械をなぞっていると、

「おわっ」
「え?」

 どさ、っと闇が落ちてきた。いきなり、真っ暗になった視界に思考が付いていかない。暴れ回る心臓を宿した体は、何とか抜け出そうと藻掻く。と、手に温かさが宿った。

「悪ぃ。兵助、大丈夫か?」

 三郎だった。その温もりに思考が切り替わる。カーテンレールに掛けていた暗幕が落ちてきたのだ、と。布越しにだからだろう、くぐもった「大丈夫か?」という三郎の問いかけに「あぁ、びっくりしただけだ」と答える。
とにかく出口を探そうと、空いている左手を使ってカーテンをあちこち手繰り寄せようとしたら、ぐ、っと掴まれていた右手を引っ張られた。布でできた谷を一つ分、ずり動いたのだろう。だが、新たに引きずり込まれた空間は、どう考えても奥まった方で。またふざけやがって、と思って、

「さぶろ」

 批難の声は、彼の唇に吸い込まれてしまった。キスされてた。

***

 会計を済まして外に出れば、随分と冷え込んできていた。マフラーをきつく巻き直し、ゆっくりと歩き出す。いつもであれば、この時間帯に聞こえてくるのは、時折通る車の音とか深夜番組に出ている芸人のテンションの高い笑いくらいだろうけれど、今日だけはまだ宵の口かと勘違いするくらい、辺りは騒々しかった。けれど、俺たちの周りは静かだった。賑やかしさから切り離されて、ぽつん、と音のない宇宙に俺たちは漂っているみたいだった。------いや、俺たちじゃないのかもしれない。

(俺、ひとりだけなのかも、な)

 ふ、と立ち止まって、何気なく見上げた宙に、蒼い光。

「あ、」
「何?」

 三郎に問われて自分が声に出していたことを知る。今更誤魔化しも効かないと「シリウス」と俺はその星を指さした。そこを辿った三郎が、あぁ、と理解の声を上げた。それから続ける。

「全天で一番明るい星、だっけ?」
「そう。おおいぬ座のアルファ星。8・6光年」
「8・6光年ってことは、今、見てるのは8年と6ヶ月前の光ってことだよな?」
「あぁ……もしかしたら、もう消滅しているかもしれない」

 8年と6ヶ月前。この星が光を放った瞬間、自分たちは何をしていただろう、と思い出そうとするけれど、具体的なことは出てこなかった。ただ、遠距離恋愛をしていた大学生の夏休みのはずだから、きっと、三郎に会いに行くために、懸命にバイトしていただろう。----------------会えない距離は、この星よりも、ずっと遠くに感じていた。

(でも、今よりも、ずっと近いのかもしれないな)

 ひそ、と冥んでいく心に、真っ直ぐな声が響いた。

「でも、消えてないかもしれないんだろ?」

あぁ、そうだ。終わりを迎えているのかもしれないし、まだあるのかもしれない。それは『今』の俺たちには分からない。誰にも分からない。-------------たとえ、もうすでに終わっていたとしてもそれを知るのは、ずっと先のことなのだ。その瞬間が来るまで、きっと星はただその身を燃やし続けるのだろう。

「なぁ、兵助」

ふ、と三郎が俺の方に身を寄せてきた。「確かに始まりがあれば、終わりはあるだろうけど」と、ぽつん、と呟くと、三郎は俺の手をぎゅっと握りしめた。満天の星の中から、たった一つを見つけることは難しい。三郎の真意をきちんと俺が汲み取っているのかは分からない。けど、この温もりは確かなもののような気がした。

「お前との終わりは、私かお前のどっちかが星になるまでだ、って私は勝手に思ってるけどな。……違うか?」