(せんーせ!)

午前の終わりを告げる終鈴に脳裏で重なった、くっきりとした声。絵に向けていた筆を降ろした。パレットにはようやく思いの通りにできた青。透いたそれはどことなくやつの瞳に似ていて。それはそれで微妙な心持ちがしたが、それはともかくとして、この数時間ずっとこの色を出すために突き詰めてきたのだ。このままパレットの上で干からび皹割れていく絵の具のことを思うと偲びない。だが、それをキャンバスに重ねるには時間がなさすぎた。あと数分もすればこの静けさともお別れなのだから。

「はぁ」

寂れた美術準備室に自然と響くため息に重なったのは、バタバタとリノリウムの廊下を走ってくる足音。数分じゃなくて数秒だったか。そう苦虫を噛んでみても事態が変わる訳じゃないのだ。仕方ない、と椅子の向きを少しだけずらす。おそらく飛び込んでくるであろうやつを正面から見なくてもいいように。それから数秒も経たない内に、壊れかけの扉が大きく開いて、冷たい突風に貫かれた。

「せーんせ!」

また、だ。尾浜勘右衛門。三年一組五番。一度もわしの授業を取ってないくせに、出席番号まで覚えてしまった。成績は優秀。素行も良好。そんなやつが、どうしてわしのところに来るのか、全くもって理解ができない。毎日のように現れるこいつをわしは扱いかねていた。いや、扱いかねていた、というのは少々語弊があるかもしれない。----------わしはこいつが怖かった。尾浜の、真っ直ぐさが。
北館の端に追いやられたこの美術準備室からは一番遠いところにある彼の教室からここまで、チャイムと同時に全力で走ってきたのだろう。わしの名を呼ぶ間に、ぜぇ、と僅かに吼気が混じっている。僅かに、というところは、若さ故だろう。わしには到底できないことだ。
そんなことを考えつつも、彼に背を向けて返事をせずにいると「せーんせ! ねぇ、木下せんせぇってば!」と、いつしか正面に回り込まれていた。さすがにここまできて無視するわけにもいかない。ぱ、っと尾浜を飛び越えて視線を投げれば、きちんと扉は閉められていて、安堵の息を吐く。

(って、何で安堵をせにゃあかんのだ?)

思わずほっとしてしまった自分に理解ができず、頭を混乱させていると「せんせぇ、聞いてる?」と、さらに、ずい、と迫られた。その透いた双眸に狼狽した自分が映っていて、慌てて目を逸らす。

「……尾浜、まず入る前にノックをしなさい。それに、廊下は走る場所じゃない」
「せんせぇ、固いなぁ」
「固いじゃなくて大人として当然のことを言っているまでだ。それから、ちゃんと先生って呼びなさい」

線を引く。わしは教師でこいつは生徒だ。なのに、

「はーい、せんせぇ」

返ってきたのは、元気がいいばかりでちっとも分かってない響き。そんな尾浜に、わざと盛大にため息を吐けば「せんせー、そんな大きなため息吐いて、何か悩みでもあるんですか?」と首を傾げられた。誰のせいだ、と声を大にして叫びたかった。だが、口にしなかったのは、わしが大人でこいつが子どもだからだ。---------そう、子どもなのだ。いったい何にムキになっているのだろうか、と自分に問いながら冷静さを装い、再度、境界線を引く。今度は正面を向いて。

「ちゃんと先生って呼びなさい」

む、っとしたように唇を尖らせて「せんせぇのケチ。ケチケチどケチ。ちょっとくらい、いいじゃんか」と綺麗とは言い難い、けれども、罵るにしてはあまりに幼稚な言葉を口にする尾浜に思う。やはり、こいつは子どもなのだ、と。

「分かりましたよーだ。ちゃんと呼べばいいんでしょ!ちゃんと!」

わしが黙って思案している間に勝手に結論を出した尾浜に「あ、あぁ」ととりあえず頷いておけば「そうなんだよね、木下先生!」と一言一句、いや一音一句を区切るようにして名を呼ばれた。

「何だ?」
「え……えっと、何でもないです」
「何でもないのなら帰りなさい」

これ以上一緒にいて、かき乱されるのは適わない、と目を尾浜の向こうにある扉にやる。

「何でもなくないです」
「じゃぁ、何の用事だ?」
「……用事っていうか、先生に会いたかったっていうか」
「それだけか?」
「え?」
「なら、さっさと帰りなさい。まだテストは終わってないだろう」

一応、進学校という冠を負っているせいかこの学校はやたらとテストが多い。とっくの前に定期考査を終え、来週には終業式を迎えるというのに、なぜか今週は実力テスト週間と位置づけられていた。(まぁ、だからテストのない美術教師の自分はテスト監督以外の時間を自由に使って絵を描いていたわけだが)

「えー」
「えーじゃない。そもそも職員室は準備室も含めてテスト期間は立ち入り禁止だ」
「だって、今回、美術のテストないじゃないですか」
「まぁ、そりゃそうだが……」

真っ直ぐな眼差しで正論を言われて、ついつい言葉を濁していると「じゃぁ」と尾浜に話の主導権を持って行かれそうになり、慌てて「だから、テスト勉強をしに帰りなさい。内申は決まってるとはいえ、大事な時期だろう」と諭すように促した。だが、尾浜は、へらっと笑って「えー」と言うだけで。つい「尾浜、ちゃんと勉強しなさい」と語気が強くなってしまった。

「えー。だって家に帰りたくないし」
「何でだ?」
「……だって、一人だと遊んじゃうから」
「誰かとやればいいだろう?」
「じゃぁ、先生、見ててよ」
「はぁ?」
「ここでなら勉強する気になれるから。ほら、静かだし、ストーブ点いてて温かいし、分からなかったらいつでも先生に聞けるし」
「……わしは美術教師だからな。お前に教えれることなんてない」

教師になる時に試験は受けたがそれっきりだ。もう二十年近くも昔の知識など、干からびて固まった絵の具みたいに何の役にも立たない。時間はどんどんと流れていくのだから。ぷぅ、と頬を膨らませた尾浜が「せんせぇ、冷たいなぁ」と文句を挙げる。

「文句があるなら帰りなさい」
「それって、文句を言わなければいてもいいってこと?」

しまった、と思ったが遅い。分が悪い、と黙っていると「せーんせ!」と、ずい、と身を乗り出してきた尾浜の真っ直ぐな眼差しを受ける。思わず「今のは言葉のあやだ」と言い訳をしようとしたのだが「先生、そう言った」ときっぱりとした強さではね退けられてしまった。

「勉強していくなら、ここにいてもいいってことだよね?」

ここまで来て、今更駄目とは言えない。渋々、頷けば「やった!」と尾浜は満面な笑みを浮かべた。

「せんせぇ、だーいすき」

無邪気なそれは、まだ何も知らない白雪のようにまっさらで。--------嘘偽りを全く感じさせないからこそ、余計に思う。尾浜が口にした「好き」というのは、子どもが「カレーが好き」とかと言っているのと同じなのだ、と。

***

イーゼルの前から席を立ち、窓際にある古びたソファセットに移る。この高校に勤務した当初からあるそれは、一人掛けのちっぽけなソファが並んで二つと、それに向かい合うようにして長いタイプのものがあった。最近はそんな情熱も失ってしまったが、昔は泊まり込みで描くときに仮眠を取っていたものだから、絵の具が染み着いていて綺麗とは言い難かった。そのソファのうち、一人掛けにわしが座れば、尾浜は当然とばかりにわしの前にある長いソファをを陣取った。

「ところで、尾浜、昼ご飯はあるのか?」
「先生って怖い顔してるけど、本当は優しいですよね」
「は?」
「大丈夫。ちゃんと、ここにあるんで」

誰が怖い顔だ、と突っ込むよりも「じゃーん」と鞄の中から大きな弁当包みを取り出す尾浜の口から出た効果音の方が大きかった。つい「お前、最初からこの部屋で食う気だったんじゃないだろうな?」と突っ込めば「え、違いますよー」と尾浜は不思議そうに首を傾げた。それから、カラフルな弁当包みをうきうきと広げていく尾浜にもう何も言うまいと心に決め、自分も飯を取るために席を立つ。

「先生、まさか、それだけ?」
「あぁ?」

そんなに驚愕の声を出される理由が分からず、その疑念とやつの質問への肯定とが入り交じった返事になってしまった。だがそんなこと気にすることなく尾浜は「えぇっ!? いっつもこんな感じなんですか?」とわしがテーブルに広げた飯を見遣った。おにぎりが、鮭が二つとツナマヨと唐揚げの計四つにインスタントの味噌汁。(ちなみに甘味が欲しいところだったが、我慢した)いつもの昼飯だ。あぁ、と肯定をすれば「栄養偏りますよ」と注意を受ける。

「そうか?」
「野菜とか全然入ってないじゃないですか」
「味噌汁に入っているから、それでバランスが取れてるだろ?」
「そんなの野菜を食べたってうちに入らないですって」

そう意見を振りかざす尾浜の弁当は確かに色彩豊かだった。にぎやかなパレットみたいな弁当。ペットは飼い主に似るというが、それをどことなく彷彿させる。この弁当の作り手でもある母親に尾浜は似たのだろうな、と思う。明るくて朗らかな。そんな性格が滲み出た弁当は美味そうで。つい「美味そうだな」とそのまま声に出してしまっていた。それが気恥ずかしくて慌ててカップの味噌汁を掴み口を付けていると、不意に目の前で柔らかな黄色が揺れた。

「先生、はい」
「ん?」
「あーん」

ごふ、っと味噌汁を吹き出しそうになる。というか吹き出した。カップの中で収まって大惨事にはならなかったが。一部が妙なところに入り込んでしまって。げほっ、っと噎せそうになるのを何とか押さえていれば「先生?」と怪訝そうな面立ちの尾浜に覗き込まれる。その澄んだ眼差しに目を合わしていられなくて「いい」と逃げてしまった。床に散らばった絵の具。その隣にあるパレットに放置されたままの青は既に乾きだしていた。

「一番の自信作なのになぁ」

ぽつん、と落ちた言葉。今にも泣き出しそうな声。

「っ」

その透いた目を見たら駄目だ、そうと分かっていたから無意識のうちに手だけを尾浜の方に伸ばす。視界の隅に入った卵焼きだけを指で摘んで、そのまま口の中に入れた。わしの行動に流石に驚いたんだろう「ちょ、せんせぇ?」と素っ頓狂な声が上がった。だが、それも数秒のこと、眼差しから感じる。「どう?」と問われているのを。じんわりと広がったそれは、優しい味をしていた。

「うまい」

尾浜の方に向き直って告げれば「へへ」と照れたように緩めた唇が「せんせぇに褒められるなんて嬉しいなぁ」とますます弛緩した。そんな尾浜に、ふ、と過ぎった疑問を口にする。

「これ、お前が作っているのか?」
「うち、ばぁちゃんだけなんで」

え、と驚きを無理矢理飲み込んだ。教師生活も長い。今までに色々な生徒に接してきたし、家庭に事情を持つ生徒ももちろんいた。ただ、何となくだが、尾浜は両親に愛されて育ってきたのだろうな、という勝手な印象があった。当然、両親はどうしているのか、なんて聞けなかった。

「先生は? 一人暮らし?」
「あぁ」
「奥さんとか、いないんですか?」
「いるように見えるか?」

この昼食で、という意味で視線をテーブルに送ったのだが、それを辿った尾浜が何をどう思ったのか頓珍漢なことを言い出して。

「じゃぁ、せんせーの家に作りに行きましょ、ったぁ」

つい、途中で頭を叩いていた。思ったより威力があったらしく、ちょっと涙目になりながら「暴力反対」と訴えられる。すまない、と焦って謝れば尾浜は「いいですよ」とけろりと涙を引っ込めた。さらに「でも、お詫びに木下先生から何かほしいなぁ」と強請られる。その変わりようについていけずにいると「ね、せーんせ」と悪戯っ子のような笑みを投げられて。はぁ、と本日何度目かのため息を零し、わしは席を立った。

***

絵の具の指紋が付いているガラス瓶から直接マグカップにインスタントコーヒーを入れた。スプーンなんてものを使うことがないものだから、逆に時間が掛かってしまったが。そこに湯を注ぎ、ぐるり、とスプーンでかき混ぜれば、焙煎された匂いが昇り立った。インスタントにしてはまぁまぁの出来だな、と自賛しながらそれを片手にソファに戻る。尾浜は窓を見ていた。いつの間にか曇って真っ白になってしまって何も見えないと言うのに、何を見ているのだろうか。

「尾浜」
「え?」

振り向いたやつに「何か、と言ったからな。何でもいいんだろう?」と淹れたコーヒーを差し出せば、びっくりとした開いた目や口は横に広がった。ありがとうございます、と礼を告げる尾浜に「熱いぞ」と渡す。まだ節くれてない綺麗な手に引き渡せば、普段使っているマグカップだというのだが妙に絵になって----------自分のものとは思えなくなる。

「先生、砂糖は?」
「そんなものあるか」
「えー、俺、砂糖3本入れるんで」

覚えておいてくださいね、という言葉を背に再びポットらがまとめてある棚に向かう。自分のは尾浜に渡してしまったから、ずいぶんと前に使ったっきり水切りに伏せてあったマグカップを取り出し、そこに粉をぶち込む。目分量でざら、っと積まれたそれに、これまた適当に湯を注げば、さっき尾浜に淹れてやったものよりも妙にどろどろした黒が現れた。作り直すのも面倒だ、とそのままソファに戻る。

「苦いか?」

手でカップを弄んでいた尾浜に尋ねれば「ちょっと」と眉根を寄せた。あまりにも渋い顔をしているものだから「別に飲めなかったら、いいんだぞ。残して」と伝えれば、即座に「嫌です。せんせぇに淹れてもらったコーヒーを残すだなんて」と勢いよく首を振られる。そのまま「それに猫舌っていうか、熱いのが苦手なんで、冷めればちゃんと飲めます」と強く訴えられ、そこまで言うなら、と思い、それ以上は黙ることにして。自分もマグカップを呷った。流れ込んできたコーヒーは唇の皮が剥けそうなほど熱い。猫舌という尾浜には確かに熱すぎるのかもしれないが、今の自分にはそれくらいがちょうど心地よかった。

「せんせぇ」

マグカップに口を付けたまま、目だけで呼ばれた方を見やる。だが、ちょうど熱いコーヒーが喉を灼きながら下っていくところで、返事ができなかった。それを別の意味と取ったのだろう「先生」と名を呼び直される。ようやく全てを腹に押し込めることができたわしは「何だ?」と返事を寄越した。だが、尾浜のやつはマグカップの取っ手の背を指で撫でるだけで、なかなか、言葉を継ごうとはしなかった。

「尾浜?」

忙しく動いていた指先が、ぴくり、と止まって。きゅ、っとそこに力が込められたのが薄白く変わっていく指先の色で分かる。それまでずっと伏せられていた眼差しが上がって-----------透いた目がわしを見つめていた。

「木下先生って、彼女、いるんですか?」

真っ直ぐな眼差しに、嘘を吐くことさえ、忘れていた。

「いない」

ただ、願った。さっきみたいに頓珍漢なことを尾浜が言い出すことを。それで笑い飛ばすか、冗談で頭を叩いて終わりにしようと、そう思っていた。けれど、じっ、っと注いでくる尾浜の目は透いたままだった。

「っ……そんなこと、知ってどうするんだ?」
「知りたいだけです。先生のことが、先生の全部が」

凛と冬の朝みたいな声が切々と響いてくる。これ以上、聞いちゃいけない。いや、言わしてはいけない。その透いた目が守られるべきは『子ども』という領域でだ。境界線を踏み入れさせてはいけない。

「俺はせんせぇのことが「尾浜」

遮るしかなかった。

「せんせぇ」
「勉強する気がないなら、帰りなさい」
「っ」
「……それに、ちゃんと呼ぶように言っただろう」

握りしめられていたマグカップがテーブルに置かれて。たぷん、と黒が揺れた。彼の目もまた。けれど、尾浜はきゅっと唇を結んだまま、何も言わずに出て行った。パタパタと遠ざかっていく足音。やがて、それさえも閑けさに呑まれ、消えていく。

(傷つけただろうな……けど、どうしろって言うのだ)

好きという気持ちだけではどうにもならないことがこの世界にはあることを、自分が一番よく知っている。ため息を吐きながら、どさ、っと体をソファに投げ出す。尾浜が残したマグカップからまだ淡く昇る湯気の向こうに、散らかったままのパレットが見えた。何一つ変わらぬ青も。




Long December