寒風に逆らうようにして突き抜けていくせいか、自然と視線が落ちる。くるくると足下を掠めては打ち砕かれる枯れ葉。数日前から本格的に散りだしたそれは、道の脇に鬱積する間もなく、どこかに流されていく。乾いた音。走り抜けていくパンプスや革靴に踏みしめられたそれの存在など、靴の持ち主は知る由もない。なにせ、師走の文字通り、皆、足早に駆け抜けていくのだから。

(俺ものんびりしている場合じゃないんだけどな)

急がないと間に合わない。23時58分の終電に。さっき、店を出たのが40分を過ぎていた。駅までは5分と掛からないが、そこからホームが遠い。そう、ダッシュしなければ危うい時間帯だ、と頭では分かっていたが、足はひどく重たかった。引力とは違う、もっと別の物に引きずられて。--------別の物が何かだなんて自明の理だったけど。

「兵助、大丈夫か?」
「あぁ」

動きを止めてしまった俺に、先を小走りでいた竹谷が--------つまりは、俺の足をその場に留めさせてしまっている原因が-------俺の方を振り返った。ぜぇ、と自身も軽く息を上げているというのに、こちらを気遣うような眼差しに、胸が軋んだ。荒くなった呼吸とは、もっと別の。燻ぶり焦がれ爛れ落ちていくそれを、目の前のやつに知られるわけにはいかなかった。

「本当に? 結構、呑んでたし、無理するなよ」

ほんの数歩、だ。それでも、戻ってきてくれたということに、どうしようもなく泣きたくなる。嬉しさと-------それから、昏い淋しさで。たぶん、ここにいるのが俺じゃなくても、きっと竹谷は戻ってきてそう声を掛けてくれただろう。陳腐な喩えかもしれないが、それこそ竹谷は光のように温かく優しく、そして真っ直ぐな人物だった。

(そう、特別なことなんかじゃない)

声を掛けたのが、たまたま、俺だった。ただ、それだけだ。
仕事で珍しくミスが続いていて、かなり気落ちした。それでも、負けず嫌いな自分は、反省はもちろんしていたが、表面上は落ち込みを見せなかった。実際、上司に「久々知は将来有望だな」と揶揄されたくらいだ。---------けど、竹谷だけは気づいてくれた。何も言わず、ただ「呑みに行こうぜ」と誘ってくれたのだった。
ただ、それは俺じゃなくても、他の同僚だとしても竹谷はきっと同じように声を掛けただろう。それが竹谷が竹谷たる所以だったし、竹谷がたくさんの人を惹きつけるのは、その真っ直ぐな優しさにあるのだから。

(だから、特別なことなんかじゃない)

けれど、その一言が、どれだけ俺をすくい上げただろうか。どれだけ俺に期待を与えただろうか。--------そんなこと、今もまだ「本当に大丈夫か?」と案じるように俺を覗き込んでいる竹谷は知らない。

「あぁ、大丈夫だ」
「本当に? つらかったら、背負ってでも俺、走れるからな」

隠された竹谷の優しさに、つい、付け入ってしまいそうになる自分を叱咤し、俺もまた「じゃぁ、いざとなったら、そうしてもらおうかな」と笑い飛ばす。---------だって望みなんてないのだから。

(そう、望みなんてない)

二軒目の店で、あえて携帯を机の上には出さなかった。時間を見たくなかったから。わざと終電を逃してしまおうか、なんて邪な考えが頭を過ぎったから。寝技を使えばどうにかなる、だなんて考えていたわけじゃない。ちょっとでも長い時間、一緒にいたかった。ただ、それだけだった。
だが、小さな小さな俺の願いは叶うことはなかった。
どれくらいグラスを空けた頃だっただろうか、ふ、と竹谷が尋ねてきたのだ。「あ、終電って何時だ?」と。ちょうどグラスを傾けていた俺は一気にアルコールを落とし込むと爛れた口から言葉を押し出した。「……知らない」と。--------嘘だった。いつも使う駅だ。ちゃんと記憶している。からからに喉が干されていくのは酒のせいではなく、嘘を吐いてしまったという緊張のせいだろう。
だが、竹谷は「あ、じゃぁ、ちょっと待ってろ」と、尻に敷かれた携帯をポケットから取り出した。無骨な指で扱いにくそうにしながらも、しばらく携帯を操作すると、わざわざ教えてくれたのだ。「終電、23時58分だな」と。

(そう、だから望みなど、ないのだ)

「兵助?」

未だ心配そうな眼差しを受け、俺はそれを振り払うようにして「大丈夫、まだ走れる」と答える。このままここにいたら、ずるずると動けなくなってしまいそうだ。まるで月面に残された足跡みたいに深みにのめり込んでしまう。そうなる前に、と「行こう」と言葉を発した。竹谷に、というよりは、自分に言い聞かせるために。あぁ、と頷いた竹谷が振り向き直って、

「あ」
「え?」
「月……」

竹谷の言葉に視線を宙に転じれば、赤に蝕まれたそれ。

「そういや、今日、月食だったっけ?」
「あぁ。今、ちょうど皆既月食の最中だな」
「へぇ、そうなのか! すげぇなー」

感歎の声の隣で俺は宙を見つめ続けた。銅褐色が月面でゆらゆらと蠢いていた。宙とは違う色合いなだけに、輪郭は分かるものの、その端まで覆われて完全に月が影の下に入っている。昔から割と天文関連は好きで、今回の皆既月食も楽しみにしていたのだ。ただ、それ以上に楽しみな出来事が、ハチとの約束が入ったから、そっちのことで頭がいっぱいだったけれど。

(月食の始まりが、21時45分で、皆既月食の始まりが23時6分。で、その終わりが……あぁ、そうだ。23時58分)

終電の時刻。そことの重なりに、自分がその電車を目指していたことを思い出し、「竹谷、もう行かないと」と慌てて声を掛ける。けど、月を見とれたままの竹谷は「え、もうちょっと待って」と動く気配がなくって。再び俺は目を彼から宙へと遣った。全てがそこに吸い込まれてしまいそうな、そんな赤。

(ここまで綺麗に見えるとは思ってもいなかったな)

その心の中での呟きに、一瞬だけ、最初からみれたらよかったのにな、という想いが過ぎってしまったのは、たぶん、結果が結果だからだ。--------何の、望みもないと知ってしまったからだ。

(馬鹿みたいだな……)

ぐにゃ、っと赤い月が歪みかけて、慌てて手の丘を瞼に押し当てる。泣きそうなのは、きっと、目をずっと見開いて月を眺めていたせいだ。寒風に晒された目を守るために、自然と浮かんできた涙だ。そう言い聞かせないと、瓦解してしまいそうだった。今まで隠してきた想いを、全部、ぶちまけてしまいそうだった。けど、それだけはするわけにはいかなかった。週が明けたら、また一緒に働く仲間なのだから。------秘めておかなければならないのだ。望みがない以上。

(っ……)

せり上がってくる熱をどうにか押し戻し、目に当てていた手を外して、気づいた。月の縁に温かみのある光が優しく宿っていることに。皆既月食が終わってることに。------そして、電車が行ってしまったことに。

「あ、」
「どうした、兵助?」
「終電、行っちゃった」

ぽつ、と言葉と共に眼差しを落としつつ想像する。焦って「悪ぃ、タクシーになっちまったな」って竹谷の姿を。けど、「なぁ、兵助」と呼ばれた名は、どことなく濡れていて。顔を上げれば、そこには、くしゃりと顔を歪めた、今にも泣き出しそうな、そんな表情をした竹谷がいた。

「月を見てるふりして、わざとお前を引き留めたって言ったら、なぁ、兵助、お前、怒るか?」

優しい光が、ゆっくりと月の全てを温め出していた。




月に乞う