※五忍無配。


(ん?)

赤で入室を示している鍵。妙な既視感を覚えた。だが、アルコールがしっかり充満している頭では、その正体が掴めなくて。そのまま、鍵が回って白に変わるのを待っていた。

(あ、そっか……)

既視感の正体を理解したのは、一つしかないトイレから久々知が出てきた時だった。相変わらずいいとは言えねぇ顔色だったけど、そのことを口にはできなかった。ぱ、っと目が合った時、一瞬だけ浮かんだ色合いに、向こうもおそらく同じ事を感じたのだ、ということが分かったから。
端から見たらさぞかし滑稽なことだろう。トイレの前で、大の男が立ち尽くしているだなんて。けど、俺たちにはそうなる理由があった。----------俺と、こいつとだけの秘密の理由が。

(そうか、もう一年も前になるのか)

嘲笑いが乾いた喉に貼り付いた。貼り付いてよかったと思う。急激に醒めていくアルコール。何をどう言えばいいのか分からず、俺は彼を見つめるしかなかった。

(一年前は、こんな風な思いを抱くなんて思いもよらなかったもんな……)

***

(くっそ、まだかよー)

全く持って開かないドア。文句を言いたいところだが、誰が入っているのか分からねぇだけに、抗議の声を上げることすら難しかった。

(先輩だったら、最悪だもんな)

 後で何を言われるかわからねぇ。忘年会で、すっかりできあがっている先輩も多く、下手すりゃ何か一発芸をしろとかっていう展開も考えられる。それだけはごめんだった。
どんちゃん騒ぎをしましょう、という幹事のコールに続いたかけつけ一杯のビールに始まり、熱燗を二合、焼酎をロックで三杯飲んだところで、体は次の酒を入れるために、さっさとアルコールを分解させることを選んだ。--------こう言うとなんか高尚な感じがするが、要はあれだ、トイレに駆け込もうとした。のだが、

(おい、早くしてくれよ)

幹事が穴場だ、といって予約を取った店は、確かに彼の言うとおりだった。料理はうまいし、酒の種類もそれなりにある。だが、大通りから一つ路地に入っているせいか、店舗はこじんまりとしていて、さほど広くはねぇ。だからだろう、男女のマークで分かれたトイレは各一つしかなく。店の奥まりにあった、黒色の棒人形のタイルがはめ込まれた扉の鍵は赤が占めていて、俺はその場でたたらを踏むはめになったのだ。

(遅ぇなーあーもー)

一回、感じてしまえばそれを抑えきれないのは、自然現象だからだろう。いつまでも開かねぇドアに、いったん席に戻ろうかとも思ったが、その間に中のやつが出てきて、別のやつが入っていったらショックだ。何よりぞわぞわと下腹部に来る波に動くのも危険な気がした。

(ってか、誰だよ)

狭い店舗故に、今日は自分たちの職場の貸し切りだった。つまりは、このトイレの中にいるのは、顔見知りなわけで。なかなか出てくる気配のなさに、中に入っているのが同期とかだったら、絶対ぇ文句を言ってやろう、と最初はそんなことを考える余裕もあった。けど、今や、懇願の域だ。

(頼む。頼むから出てきてくれ)

掛かったままの鍵に念じてみるものの、目の前で俺を遮断している赤は一向に白へと回る気配はねぇ。いい加減、我慢も限界に達していた。どこか楽しそうな歓声が上がり、別のところから、どっと笑い声が沸く。そんな賑やかしさでさえも、目の前の扉に集中している俺にとっては、ずいぶんと遠い場所のできごとのような気がした。

(ってか、中に、人、いるよな?)

さっきから音一つ聞こえてこねぇってことに、ふ、っと気づいた。耳をそばだててみる。が、やはり、物音一つない。これで、まさか人が入ってなかったとかだったら、アホすぎる。確かめるために、俺は拳の底を扉に打ちつけた。極力、体ををドアに近づけて反応を待つ。だが、俺が出した鈍い音の他に、響くものは何もなかった。もう一回する。だが、結果は同じで。

「おーい、誰も入ってねぇのか?」

そう聞きながら、さっきよりも強く叩く。やっぱり反応がねぇ。誰もいねぇのかよ、と脱力感が体内に落ちていくと同時に、波がやってきて。慌てて手をドアノブに伸ばそうとした瞬間、かちゃ、っと金属音が響いて。------------------次の瞬間、衝撃がでこを直撃した。

「いってぇー」

尿意も何もかもが吹っ飛んだ。散った火花。痛みがこめかみあたりまで走った。場も間も悪かったんだろう、急に開いた扉の端、角になっている部分が俺の頭に直撃したのだ。すげぇ痛ぇ。じんじんと響いてくる熱に、ぶつかった額を押さえて俯く。

「あ、……悪ぃ。大丈夫か?」
「……あぁ、何とか」

顔を上げれば、そこにいたのは同期の久々知だった。同期といえば同期なのだが、部署が違うためにあまり話したことがねぇ。すまない、と謝る彼は心なしか顔色が悪い気がしたからだ。元々、色白のイメージがあるが、今の彼は完全に血の気が引けていて、まるでそのまま透けて消えてしまうんじゃねぇだろうかってくれぇだった。

「久々知? 大丈夫か?」
「……あぁ、何とかな」

辛うじて届いた返事。口元を押さえる彼の仕草に「もしかして、さっき吐いてた?」と尋ねれば、彼は「ちょっとだけな」と呟いた。それから、すぐさま「今、出ていくと飲まされそうで、ついつい長居してるうちに寝てしまってたみたいだ」と言を継いだ。こちらを心配させないために冗談めこうとしているのか、弱々しい笑みを浮かべながら。

「占領してしまって、すまなかったな、竹谷」
「それはいいけど、大丈夫なのか?」

あぁ、と頷く彼の表情は、明らかに大丈夫そうじゃなくて、「水、もらってきてやろうか?」と尋ねたが、小さく笑いを結ぼうとしていた彼の唇から届いたのは「いや、自分で取りに行くから大丈夫だ」という言葉だった。

「大丈夫って見えねぇけど……」
「あー、けど、まぁ、さっき出るもの出したし、ちょっとゆっくりしてれば、治まるだろうし」

大丈夫、と再びその言葉を繰り返した彼に俺が「けど」と言い募ろうとした瞬間、

「竹谷ーおーい、竹谷、どこだー。氷がねぇんだけど」

直属である七松先輩の馬鹿でけぇ声が飛び込んできた。ちょっとトイレ、と席を外してからかなりの時間が経っているはずだ。「げっ」と漏らした声を聞き留めたのだろう、久々知が「俺のことはいいから」と俺の背を押す。頑なな意志に俺は「無理するなよ」と言うと、さっさと先輩の元に戻るために、ようやく開いた扉の中に飛び込んだ。

***

店の外に出た途端、心地よい風が頬を撫でた。周りにいた女の同僚たちは寒い寒いと零していたが、アルコールがちょうどいい燃料になっていて、俺にはちょうどいいくらいだった。
このまま二次会に行くかそれとも解散か、誰もが決めかねているのは中途半端な時間帯だったからだろう。貸し切りだったがために、予定時間をかなりオーバーしたようだった。二次会があるなら行くし、でも、解散でもいいな、と少しだけ重たくなった頭の隅の方を喰いだした眠気に思う。それは俺だけじゃねぇようで、誰もが誰かの音頭取りを待っている、そんな雰囲気が俺たち一団の中に集まっていた。くだらない談笑をしながら決定を待っていると、

「おーい、竹谷ー竹谷ー」

遠くで七松先輩が手を大きく振って呼んでいた。先輩と同期の人たちが輪になっていた。ちょっと緊張しつつも、酒のせいでふわ、っと浮いた足取りで「何っすか?」とそっちに駆け寄れば、先輩たちが輪になっていた理由が分かった。

「こいつさー、家まで送っていってやってくれ」
「久々知!?」

別のチームリーダーである食満先輩に支えられるようにして立ってしていたのは、紛れもなく彼だった。
あの後、トイレから出ればそこに彼の姿はなくて、席に戻ったんだろう、と、自分も席へと帰る際に辺りの座卓を見回したものの発見するよりも先に「竹谷、早く来いー」と先輩の急かしに遭ってしまい、久々知を見つけることができなかったのだが、まさかこんな事態になっていたとは。

(何か、悪かったな……)

本当はさっきも辛かったのに、無理矢理トイレから追い出してしまったんじゃねぇだろうか、と心配になる。一気飲みなんかを強要してくるわけじゃねぇが、先輩方は酒がめちゃくちゃ強い。同じペースで飲んでいれば、こっちが吐いてしまう。俺は昔から強い方だったが、様子を見るに久々知はそうじゃなかったんだろう。
中存家先輩と共に、のぞき込んで彼の様子を見ている善法寺先輩に尋ねる。

「こいつ、大丈夫なんですか?」
「うん。後半、全然飲んでないし、急性アルコール中毒とかにはなってないと思う」
「というか、寝てるだけだ」

す、っと話に入ってきた立花先輩が「悪いが、こいつを家まで送っていってくれないか?」と視線を俺に向けた。

「えぇ、俺がっすか?」
「何だ、嫌なのか?」
「や、違いますって。ただ、俺、家知らないんで」

本当に面識がある、って程度なのだ。潮江先輩に「何だ、同期なのに知らねぇのか?」と首を傾げられたから「同期ったって、部署違って、あんまり喋ったことがないから」と事訳したが、先輩は「そういうもんか?」と、その傾いた首の角度がさらに深まるだけだった。

(先輩等の代、仲、いいもんな)

自分たちもそれなりに同期飲みとかはするが、先輩たちほどではない。実際、久々知とは飲んだことがなかった。まぁ、新歓の時は同じ会場にはいただろうが、その時は顔すら認識してなかったのだと思うと、進歩かもしれねぇが、それはともかく、

「悪いが、頼んだぞ」

立花先輩の言葉に続いて皆が口々に「よろしく」と言ってきたけれど、他にも適任者はいるはずだ。こいつと同じ部署の勘右衛門とかは、と辺りを見渡す。だが、見つからねぇ。さっきまで、あんなにテンションが高くて目立っていたはずなのに。

「頼まれても、だから、どこに住んでるのか「タクシー、止めてきた」

ぼそ、っとした声だったが、俺の言葉を遮るには十分すぎた。いつの間にか輪から抜け出して呼びに行っていたようで、中在家先輩は大通りの方に視線を投げるなり「あっちで待たせてる」と続けた。こうなれば仕方ねぇ。

「そいつ、貸してください」

そう俺は彼を支えている食満先輩に申し出た。あー、と頷きかけた先輩は「通りまでは連れてってやるよ」と、片側だけを空けた。あざーっす、と脇から支え、俺たちは歩きだした。

***

どうにかこうにかタクシーに久々知を運び、俺も隣に乗り込む。ばた、っと扉が閉められた瞬間、詰め込まれた寒風が頬を切った。だが、それも一瞬のことで、すぐに生暖かい空気になじんでしまう。

「お客さん、どこまで?」
「どこ……えっと、久々知。起きろ」

揺さぶったり、軽く肩を叩いても「んー」と寝言の延長のような返事しか戻ってこなくて。運転手さんが心配そうな眼差しをミラー越しに投げてきているのがわかった。

「あーじゃぁ、もう俺の家に連れていきます」

俺のアパートがある地名を告げれば「わかりました」と、ウィンカーを出した。緩やかな加速に流れていく街のネオン。下からくる振動が伝える重低音に、そっと久々知の方に視線をやれば、彼は微動だにせずに眠りについていた。


***

あの夜、久々知と寝てしまった。どこでどうしてそうなったのかは分からねぇ。どっちが誘っただとか、そういうのもなかった。ただ、気が付けば俺の下で久々知が艶めいた声で俺の名を呼んでいた。
目を覚ましたら、ベッドの中にあるのは自分ひとりだけの温もりだけで。一瞬、夢かと思ったが、酒臭さとは別の、ねっとりとした空気が絡み付いてくるのに、そうじゃねぇと知った。
起きあがってみれば、テーブルに『鍵は郵便受けに入れておきます。ありがとう』と書き置きが残されていて。署名はなかったけれど、その流れるような綺麗な文字は、仕事のメモなんかで何度か目にしたことのある彼の字面と全く同じだった。

けど、それっきりだった。

週明け、どうにかして久々知と話をしようとしたが、いざ、何を話せばいいのか、と考えているうちに一週間が終わってしまった。向こうからも何も言ってこなかった。もちろん仕事上は言葉を交わすし、机上にはあの朝と同じような綺麗な文字のメモが残されていた。けど、それだけだ。

(避けられているとか無視されている、とかの方がまだよかったよな)

あまりに自然すぎて、本当に何もなかったかのようだった。けど、棄てることのできなかった置き手紙が夢じゃないのだ、と、逆に現実を突きつけてくる。--------久々知の中であの夜のことはもう既になかったことになってるのだ、と。そう考えると、ぎゅっと胸に搾り取られるような痛みが疾って。

(気が付けば、いつも、久々知を目で追ってるんだもんな)

半分くらいは結婚を考えていた彼女とも二月には別れて。けど、その後も久々知とは何もなかった。繰り返される日々の中で会話はあるけれど、あくまでも仕事上の同期としてでしかなかった。馬鹿だよな、と自分でも思う。けど、どうしったって、忘れることができねぇのだ。

「あのさ、」
「え?」

ぎこちない声に、ぱ、っと俺は意識をその場に引き戻された。動きかけた唇に、何を言われるのだろう、と緊張に速まる心臓を抱えながら彼を注視していると、

「そこにいると出れない」
「あ」

ごくごく普通の言葉に「悪い」と慌てて体を横に退かせた。そのまま、終わるはずだった。また、週明けから何の代わり映えもしない同期としての日々が始まるはずだった。けど、

「ありがとう」

俺の隣を通り抜けようとした久々知が、あの置き手紙を彷彿させるようなことを言うから。狭い空間で触れ合ってしまったから。彼の温もりを感じてしまったから。-------だから、俺は兵助の腕を掴んでしまっていた。

「竹谷?」

あの夜に取り残されているのが自分だけなのか知りたかった。

「あのさ、抜け出さねぇか?」




はじまりのおわり

前日に「竹谷がトイレを我慢する話」と振ってくれたHたん、ありがとう!