満月だろうか、丸い月が冴えた夜空を渡っていくところだった。

「寒っ」

自然と唇を切った言葉の隙間からさらに冷たさが入り込み、口を閉ざす。何かアウターを持ってこればよかった、と思いつつ、ちらり、と隣を歩く兵助を見やれば、ちゃっかり彼の首もとにはマフラーらしきものが巻かれていた。昼間、鞄から覗いていた時はちょっと早すぎやしねぇか、と思っていたが、日が落ちれば漂いだした冷たさに、今はただただその存在をうらやむばかりで。じっとそこに視線を注いでいると、ふ、と兵助が俺のそれに気づいた。何、と目だけで聞かれた気がして、顎をしゃくる。それ、という意を込めて。

「用意いいな」
「天気予報で今晩冷えるって言ってただろ」
「朝、見る暇なかったし」

口元は灰色のマフラーで見えなかったけど、その軽く潜まった眉がちょっと呆れているのを感じた。きっと、寝坊するからだろ、と言いたいんだろうな、と感じて「だから悪かったって」と昼間にも告げた言葉を頭を下げながら伝える。

「俺はいいけど、いざって時に困るのはハチなんだからな」
「分かってるって。来週は絶対出る」

先が思いやられる、とばかりに兵助が首を振るのも無理はねぇだろう。二週目にしてすでに一回目の自主休講。授業中に出た問題がそのまま課題となるという講義だ。このままじゃ、課題に手を付けることすらできねぇ。

「なぁ、兵助」

すたすたと歩きだした兵助に、慌ててその影を追いかけ踏み越えつつ「明日って、朝一限からだっけか?」と尋ねれば、もこもことしたマフラーに包み込まれた兵助からどことなく篭もった声が届いた。

「いや。今週は休講だから午後から」
「じゃぁさ、うち来る?」
「行く……けど、ノート貸すだけだからな」

自分で課題はやれよ、と付け足す兵助に「あり、バレてる?」とおどけてみせれば「バレバレに決まってるだろ」と。マフラーで漉されたんだろう、ため息は聞こえなかったけど、今度こそ呆れているのがその声音からもありありと伝わってきた。

「なー頼む!」
「……自分でやらないと意味ないだろ」
「だから課題をやってくれ、とは言わないからさ、教えてくれよ」
「ハチの教えては当てにならない」

きっぱりと告げた兵助は、痛いところを突かれた、と思いを巡らす俺を置いてすたすたと脚を進めていく。慌ててその背中を追いかけ「え、だってさ、一人で課題やったら、それだけで朝になるし」と、再び、影を越えて俺は必死に食い下がった。課題を一人でやりきれる自信がねぇ、ってのもあったけど、こうやって久しぶりに一緒にいられるってのに、課題で夜が明けました、だなんて空しすぎる。

「お礼に何か飯作るからさー」

それまで頑なに俺の頼みを跳ね除けていた兵助の肩が、ぴくっと揺れた気がして、俺はさらに言い募った。

「何、食べたい?」
「……豆腐ハンバーグ」
「それさぁ、普通のハンバーグじゃ駄目なわけ?」

兵助に課題を見せてもらおう、という頼む立場の俺がこんなことを言うのもあれかと思うが、異論を挟んでしまっていた。別に豆腐ハンバーグが悪い、とは言わない。けど、夕食にはちょっとヘルシーすぎやしねぇか、と、どっちかと言えばがっつり派の俺は、一応、無駄だと思って聞いてみた。だがもちろん兵助から戻ってきたのは「駄目」という強い言葉で。きっぱりと「豆腐がいい」と言い切った兵助を説得するなんて時間の無駄だと分かりきっていただけに「わかった」と了解する。

「豆腐ハンバーグな」

そう告げれば、ぱっと兵助の目が輝いて満面の笑みに変わる。本当に単純だよな、って思うけど、その笑みに絆されてる自分の方がよっぽど単純だって自覚はあった。

(けど、仕方ねぇよなぁ……惚れた弱みってやつだよな)

兵助が笑ってくれてるのが、何よりも嬉しいのだから。

***

「手伝おうか?」
「あー」

シンク下からボールを取り出しているハチに声を駆けたが、戻ってきたのは鈍い反応だった。ハチがそう濁したのも無理はないだろう。俺の料理の腕は壊滅的というよりも、それ以前の問題だった。前にも「何か手伝おうか?」と言って、ハチにきゅうりを切るように頼まれたものの、手が滑ったのか何なのか自分でも分からないが、気がつけば包丁がまな板に縦に突き刺さった。

「いいや、ありがとな」

申し訳ないというか困ったようにハチは目を曇らせていたけど、俺としては、どちらかといえばありがたい申し出なわけで。「じゃぁ、待ってる。何か手伝えることがあったら言ってくれ」と、一応、形の上だけで伝えて、それ以上、食い下がることなく引いた。

(まぁ、形だけ、な)

何かあったら言ってくれ、とハチがご飯を作ってくれる度に言っているのだが、「おぅ、何かあったら頼むわ」とのれん一枚で区切られた台所スペースに消えたハチから手伝いを頼まれたことはなかった。そのまま、床に放り出してあった鞄からハチに見せるためのノートとレポート用紙を取り出し、こたつ机に広げる。ついでに、ポケットで引っかかっていた携帯も時計代わりに左の隅に置いておく。

(まぁ、30分もあれば、とりあえずの形になるだろ)

ハチが料理している間に課題を片づけて、ご飯を食べて、それからハチが課題を写して……と頭の中で予定を並べ、ざっと所要時間を計算する。久しぶりに一緒にゆっくりといられるのだ。できれば、課題で夜が明けるだなんて避けたい。

(自分でも甘い、って思うけど、でもなぁ)

惚れた弱みってやつなのだろう、とそっと笑って、俺は筆箱からシャーペンを取り出した。トン、トトン。トトトトン。トントン。不規則なリズムに空気が揺らいだ。ハチが包丁で何かを刻んでいるのだろう。まるでメロディが奏でられているかのようなそれはだんだんと耳に馴染んでいって------

「兵助ー兵助ー」

ハチの声に、は、っと顔を上げる。課題に没頭してしまったが、もうできあがったのだろうか。さっきからあまり時間が経ってないように思え、机に置いた携帯を手にした。だが、ボタンを押して時刻を確かめる前に「兵助、悪ぃ、ちょっと手伝ってくれ」と切羽詰まった声が届いて、シャーペンを放り出し、急いでのれんをかき分ける。

「どうしたんだ?」
「悪ぃけどさ、ちょっと、これ、捲ってくんねぇ?」

これ、と目だけで合図された先、だらんと伸びた長袖はボールの壁に今にも触れんばかりだった。ざっくりとこねられたタネに僅かに残るのは豆腐だろうか。慌てて、ぐっと袖を引き上げようとして、

「って」
「あ、ごめん」

竹谷の皮膚まで摘んでしまった。不意打ちに顔を大きく歪めたハチにもう一度「悪かった」と謝りつつ、今度は袖だけを慎重に摘む。ぐ、っと筋が張り出した手首が覗いた。自然と感想が口を突く。

「ハチって、手、でかいよな」
「そうか?」
「あぁ、かなりでかいだろ。俺もそんな小さい方じゃないと思うんだけどな」

へぇ、そんなに違うっけ、と、まじまじと袖付近を掴んでいる俺の手とを見比べているハチは「手、合わせてみてもいいか?」とタネに埋まっていた手を挙げようとして。急いで「それして、手が汚れたら、袖、めくれないだろ」と止めれば「あぁ、そうか」と理解したように頷いた。

「悪い、じゃぁ、捲ってくれねぇか?」
「あぁ」

頷いたはいいが、つい手間取ってしまった。もちろん、構造としては分かるのだが、普段と見ている角度が違うからか、一瞬、どこからどうやって捲ればいいのか分からなかった。とりあえず、丸めるようにして袖を上げていく。

「ん、できた」
「おー、サンキュウなー」

肘あたりまで捲られた袖に笑顔を浮かべたハチは、唐突に「ん」と、その挽き肉と豆腐が混ざり合ったものを貼り付けた掌を俺の方につきだした。意味が分からず「何だよ?」と首を傾げれば、逆に「え、手、合わすんじゃねぇの?」と驚かれた。

「意味が分からないんだけど」
「だって、これでもう手が汚れてもいいじゃん」

ほら、とハチの目は捲られた袖口に向けられた。もう捲ったから手が汚れてもいいという理屈なんだろうか、と聞こうとしたその瞬間。捲っていたはずの袖がずり落ちた。あまりのタイミングのよさに、つい吹き出してしまった。

「もう一回、捲ってくれよ」

不服そうに唇を尖らせたハチのために、俺は改めて袖に手を掛ける。内側から外側に折り曲げるようにしてぐるぐると袖まで巻き上げて「できた」と肘よりもさらに一巻き分だけ上で止める。これで大丈夫だろう、と思っていたのだが、

「「あ」」

ハチが、ぐに、っとタネをこねようとした瞬間、またずり落ちてしまった。服の布地が柔らかいからだろうか。ずりずりと手首を隠してしまう袖に、今度こそ、とぐっと折り込むようにして、上げる。-------けど、結果は同じで。

「兵助、下手すぎ」
「仕方ないだろ、てろんとした生地だから上手く止まらないんだよ。嘘だと思うなら、自分でやってみろよ」

ハチの言いぐさに反論を立てれば「ごめん、悪かった」と彼は申し訳なさそうに眉間を潜めた。いいけど、と答えて俺は三度チャレンジする。今度は最初に全部肘の上まで上げて、そこで折り込む作戦に出たのだが、結果は同じで。どうしても動かすと、捲り上げた袖がずるずると下がってきてしまった。

「何か、ここまでくると、コントみてぇだな」
「そうだな。」
「分かった! ずっと兵助が袖を持ち上げててくれたらいいんじゃね」

我ながらナイスアイディアと自画自賛しているハチに、まさか本気じゃないだろうな、と思っていると「ん」と腕を突き出してきたものだから「洗濯ばさみ使えばいいだろ」と一蹴する。と、「せんせー兵助くんが冷たいです」とわざとらしくイジケるものだから面倒になってきて「もういい。ノート見せてやらねぇから」と告げれば焦ったようにハチが

「ごめん、俺が悪かった、すみません」

と手を合わせた。本来であれば、ぱちん、と鳴るはずだったそれは、ネタが手のひらにくっついていたからだろう、ねちゃ、っとした音しかしなかった。どことなく間抜けな響きに怒るのも馬鹿馬鹿しくなってきて「いいけど」とさっさと許せば、さすがにもうふざけるのはやめたらしく「悪ぃけど、上げてくれないか?」とボールに垂れかけた袖口を俺の方に差し出した。

「洗濯ばさみで止めるぞ」
「あぁ」

くるくると袖を丸め上げると、台所になぜか散らばっていた(おそらくは、開けたポテチの袋とかが湿気らないように止めておくものだろう)洗濯ばさみで止めた。ようやく安定したのだろう、ハチがボールに勢いよく手を突っ込んでも、それはもう落ちることはなかった。もう苦にならなくなったのだろう、まるで魔法を綴っているかのように動き出すハチの大きな手。あっと言う間にこねられ綺麗にまとめられ楕円形になったそれが、銀色のバッドにどんどんと並べられていく。じっ、っとハチに視線を注いでいると、

「兵助、丸めてみる?」

俺に気づいたんだろう、その手をハチが止めた。俺の方を覗きこんでくるハチに素直に想いを伝えれず「え、けど」としか返さずにいれば「まぁ、最初はあれかもしんねぇけど、結構、面白い感触だぜ」と笑った。俺が躊躇った理由を勘違いしているんじゃないだろうか、と案じていれば「それに、手を汚れてももう袖を上げる必要もないし」とハチは続けて。予想が確信に変わる。別に手が汚れることを気にしているわけじゃない、と伝えるために俺は口をしぶしぶ開いた。

「……だって、俺やったらぐちゃぐちゃになりそう」

ハチみたいに魔法の手を持ち合わせているどころか、目玉焼き一つできあいのだ。同じように丸めようと思っても、きっと、ぐちゃぐちゃになってしまうに違いない。そう思うと、どうしても手が出せずにいた。

「へ?」
「だから、俺が手伝ったらひどい見た目になるかもしれないだろ」

懸念を伝えれば、ふわ、っとハチは笑った。もし、今、ハチの掌がハンバーグのタネがくっついてなくて綺麗だったなら、きっと俺の頭を撫でてきただろう、そんな優しい笑みを彼は浮かべていた。

「大丈夫だって。失敗しても直せばいいんだし」
「けど、さわりすぎたら不味くなるだろ」
「あーまぁな。けど、大丈夫」

その温かな笑みのまま、ハチは俺の方を見た。

「兵助が手伝ってくれた、ってだけで、普段よりも何百倍も美味ぇって感じるから」


***

「「ごちそうさまでした」」

自分の手をぱちり、と合わせれば緩んだ唇から自然とその言葉がこぼれ落ちる。おいしかった、と伝えれば、ハチは眼差しをさらに和らげた。皿洗いは俺の仕事だ。いつものように、皿を引こうとして、ふ、と座卓にある彼の大きな掌が目に留まって--------気がつけば俺はハチの手に自分のそれを重ねていた。びく、っと掌の中でハチの温もりが驚きにはねた。

「な、兵助!?」
「何?」
「何って、手ぇ」
「手?」

何をそんなびっくりしてるのだろう、と一瞬思ったが、すぐに理解して。あぁ、と頷き、「や、さっき、合わせなかったから」と説明する。それから「どれくらい違うのかと思って」ともう一度ハチの手の甲に自分の掌を置いた。伝わる、温もり。

「ドウセナラ、手ヲ繋グノガイイデス」
「何でそんな片言でしかも敬語なんだよ」

調子に乗るハチに突っ込めば「いや、だって……」としばらく考えあぐねる様子を見せた。そんな彼に「家の中で手を繋ぐ理由なんてないだろ」と言を重ね、温もりを剥げば、今度は完全に沈黙してしまった。どれくらい、そうしていただろうか、ふ、とハチの目が輝いた。いいことを思いついた、とでも言いたげな面もちに「何?」と尋ねる。

「兵助、散歩しようぜ」
「今から? 課題は?」
「おー、今から。いいじゃん。だって、月、綺麗だったし」

な、と差し出されたハチの掌に自分のそれを重ねれば、ぎゅ、っと包み込まれる。やっぱり大きなそれはとても温かくて、そうして愛しくて。----------俺もまた、ぎゅ、っとその倖せな温もりを握りしめた。



盲目の魚は酸素を求めて