※無配コピ本に加筆したもの


ただいま、と返してくれる相手はいない。そうと知っているから、俺は黙ったままドアを押し開けた。防犯のためなのか、やたらと分厚くて重量があって出入りするのに力が掛かるのだが、いつも以上の重たさを覚えた。--------------------開けた途端、足下を浚った冷たさは、俺が想像した通りだった。想像通りすぎて、そして、慣れすぎて何の感慨も覚えなかった。これで最後なのだ。もう二度とこの冷たさに迎えられることもないのだ。そう事実として頭の中には浮かぶけれど、ただ、それだけだった。

(さっさとしてしまおう……三郎が帰ってくる前に)

 そう決意して部屋に乗り込んだ途端、妙によそよそしい空気を覚える。部屋自身も戸惑っているのかもしれない。まだ法律上は持ち主である俺を受け入れるべきなのか、それとも出ていった人間として侵入者として扱うべきなのか。それを追い払うように、俺はわざと歩を大きくしてキッチンに向かった。塵埃一つない廊下は、モデルルームのごとく綺麗で。綺麗すぎて偽物のように思えた。とてもじゃないが人が生活しているような感じはなかった。だが、その綺麗さは、たぶん数週間前と変わらないはずだ。まめな三郎が毎日のようにきちんと掃除をしていたのだから。きっと、気持ちの問題なのだろう。
 ぴかり、と磨かれた銀色の光が跳ね上がり、自分が無意識のうちにシンク周りの電気を点けていたことに気が付いた。体に染みついている行動というのは、三郎が好んでしていた皿洗いみたいにすっきりさっぱり泡で流す、というわけにはいかないようで厄介だった。-------------きっと記憶もまたそうなのだ、簡単には忘れることができないのだ、そう思うと少しだけうんざりする。もちろん思い出が一切ない場所に行けば、また違うのかも知れないが。そう考え、酷く自分が感傷的になっていることに気が付いて、俺はひっそりと嗤った。-------------------けれど、今日くらいは感傷的になっても赦されるだろう。ポケットの中でくしゃくしゃになっているであろう離婚届の存在を確かめるように、俺は服越しに撫でた。

(とりあえず、荷物を棄てるのが先だな)

 三郎の手によって磨かれたであろうシンクは生ゴミひとつとして残っておらず、三郎もまたずっとこの部屋に帰ってきてないんじゃないだろうか、と一瞬思わせたが、脇のスツールを開けた途端、入っていた保存瓶のシリアルが半分に減っていて、彼が今もこのアパートに住んでいることを示していた。いつもの行動パターンなら、しばらくは帰ってこないだろうと分かっていたが、のんびりしていたら三郎が帰ってくるかもしれない、とその場で佇みたがっている体を無理矢理動かす。スツールの一番下段、そこに入っている指定のゴミ袋を俺は取り出した。

(何か、皮肉なものだよな……)

 日頃、ほとんど三郎に任せっぱなしだった片付けを最後の最後でするだなんて。可笑しいんだか哀しいんだかよく分からなかった。継ぎ接ぎの感情は、ただただ、嗤いにしかならなかった。そのまま留まりそうな自分を突き放すために、俺は取り出したゴミ袋にとりあえず手近にあった箸を突っ込もうとして、ふ、と気づいた。ゴミ袋に名前が書いてないことに。アパートのゴミ集積所は有り難いことに時間を問わずに置いていっていいことになっているが、名前がなければそこから回収されない。面倒だな、と一つ溜息を零すと俺は袋をもってペンを初めとした筆記用具が置いてあるであろうリビングの方に移動した。
 きちんと整頓された筆立てからペン選んでゴミ袋に走らせれば呆気なく終わってしまった。だが、三年以上一緒に棲んで、ようやく書くことに慣れた『鉢屋』の文字もこれで最後なのだ。ビニールに滑って歪んだ文字に、もう少し丁寧に書けばよかっただろうか、と一瞬だけ思って、すぐに考えを改める。-----------どうせ棄ててしまうのだ。乱雑に扱ったところで、現状が変わるわけではないのだから。

「とりあえず、奥の寝室から片付けするか……」

 棄てようと思った箸はキッチンに忘れてきてしまった。僅かな距離だったが取りに戻るのが面倒で、また台所は後でやろうと決め、俺はまずリビングに残された自分のものを棄てる作業に入ることにする。棄てれるものは、全部棄てていく気だった。残したところで、三郎には何の影響もないだろう。だが、俺の中で全部を棄てることで区切りをつけてしまいたかった。

(そんなに量はないはずだが……)

 三郎みたいに物持ちがいいというよりも単に買い物に行くのが面倒という理由で、俺の持ち物は少ないだろう。

***

「何だ、その大荷物」

戻ってきそうになるドアの隙間に足を入れ、それを押さえとしてどうにかして玄関をくぐろうとしていると、不意にドアからの反発力が緩まった。やや俺よりも高いところから聞こえてきた声。三郎だった。背後からドアが閉まらないように持ってくれている三郎に「悪い」と礼を告げ、俺は大きな紙袋を抱えて中に入った。続いて三郎も入る。

「何買ったんだ?」

足だけで靴を脱いでいる間も追求してくる三郎にドアを開けてもらったのは別として、厄介な相手に見つかってしまったな、と思う。できることなら、当日まで内緒にしておきたかったものだった。こっそりと帰ってきてみればアパートの部屋に鍵が掛かってて、三郎の不在にほっとしたところだったのに、こんなにも早く見つかってしまうなんて、と内心でため息を揺らす。後で受けるブーイングを想像しつつ、かといって、とっさに誤魔化すこともできなくて、俺は正直に答えた。

「これ? モーニング」
「モーニング?」

最後、語尾が大きく上がり、三郎がこっちを訝しがっているのが分かったから「来週、後輩が結婚するだろ。だから買ってきたんだよ」と急いで告げた。次いで「そういえば、俺、披露宴でスピーチを頼まれたんだ」と話題を少しでもこの服から遠ざけることに専念する。

「あいつ、私には言ってこなかったぞ」
「三郎にスピーチ頼んだら、余計なこと暴露されるだろ」

わざと別の方向にいくように誘導すれば「あのやろ……今度会ったときに締め上げてやる」と予定通りの結果になったかにみえた。だが、すぐに「というか、モーニングって兵助、持ってなかったか?」と話を戻される。まぁ、三郎がそう疑問を持つのも当然だろう。持ってる、のだから。だが、現状を正確に言えば、持ってた、となる。誤魔化すのも面倒になった俺は「持ってた」と正直に答えた。

「持ってたって?」
「前に使ったときに、ビールふっかけられただろ」

ガーデンウェディングってやつだったのだが、急にビールサーバーを背負った新郎にふっかけられたのだ。その場にもこいつもいたから覚えていたのだろう、そういえば、と思い出したような面もちだった三郎が不意に眉間に皺を寄せた。しかめ面で「もしかして」と呟く彼の予想はおおかた当たってるだろう。

「……クリーニング出すの忘れてたら、えらいことになってた、みたいな?」

額に刻まれた皺の影が徐々に深まっていく様子に、なんていうか、悪い点のテストが見つかった子どもはこんな気持ちなんだろうな、なんて思う。実際になったことがないから分からないが、分が悪い。三郎は盛大のため息をわざわざ俺の前で「お前、そういうとこ、ずぼらだよな」とまき散らした。

「一見、几帳面で真面目そうなのにな……」
「別に一見じゃなくて普通によく言われるけどな」
「几帳面で真面目だって?」

あぁ、と頷けば「……まぁ、外面だけはいいからな」と三郎は唇をひん曲げた。その言い様は明らかに皮肉っていたものだったが、俺は理解していたが「外面がよければ十分だろ」と肯定しておいた。それを聞いた三郎が「あのなぁ」呆れたように大げさに肩を下ろしたが、結構本気だった。

(身内のやつらまで、いちいち気遣ってたら息苦しくてやっていけないだろう……)

見た目の印象となおかつ外ではそう振る舞っているからなんだろう、周囲の俺に対する評というものは『真面目だ』というものだった。決められた型から押し出されたかのように、誰もがその言葉を俺に向けてくる。だが、実際は違う。俺のことをよく知る人物は周りの『真面目だ』という評を聞いたら腹を抱えて笑うに違いない。

(実際は、ずぼらで面倒くさがりで適当な人間だからなぁ)

洗濯をちゃんと干すのが面倒で皺を伸ばさなくてくしゃくしゃだ、だとか、休日は一日中寝たときと同じ格好で家の中でゴロゴロ過ごしている、だとか、料理も面倒で冷蔵庫の中身は豆腐とビールだけだとか、ゴミだしを忘れてコンビニ弁当の容器が部屋に転がってるとか----------まぁ、それは、三郎と共に棲みだしたこの一年でほとんど解決されたことだが、根本が変わることはない。

(ただ、そういう姿を見せれる相手は限られているけどな……)

片手よりは多いが、両の手では余るくらい。俺の上塗りされていない姿を知っているのは、おそらくそれくらいの人数だろう。その数が多いのか少ないのか、俺には分からない。ただ、俺にとってそれで生きていく上では十分な数のように思えた。三郎がいてくれたら、それでいい。俺がずぼらで面倒くさがりで適当な人間だということをよく知っているのは家族に次いで三郎だろう。そういう意味で三郎は楽だった。素の自分でいることができる。----------不思議と最初から、息をするのと同じくらい自然に俺は三郎の前でなら『自分』でいることができた。

***

「で、結局一式、買ったのか?」

考えるのが面倒になって、モーニングやシャツ、ネクタイに靴など薦められるがままに購入したものが入っている紙袋は膨れ上がっていた。その袋をソファに投げだそうとしたところを咎められ、さすがに今回は、とクローゼットに服類を掛けて戻ってこれば、ソファに座っていた三郎にそう尋ねられた。ここまできたら誤魔化してもムダだと思い、あぁ、と肯けば「お前、馬鹿だろ」と溜息を吐かれる。自分でも痛い出費だっただけに、こればっかりは言い返せなかった。もちろん共用の生活費からではなく個人の貯金からお金は使ったが、それでも気まずいものは気まずいもので。唇を噛みつつ、三郎の隣に腰を下ろす。

「ホント、兵助は私がいないと駄目だな」

甘さの欠片もない、皮肉めいたものだったが、返す言葉が見つからず俺は頷いた。結婚したら大変そうだ、と続いた三郎の言葉に、ふ、と思い出したことがあって。三郎に呆れられている状況だ、というのは分かっていたのだが、どうしてもこらえきれず、緩んだ唇から笑いが出てしまった。俺が含んだ笑いを嗅ぎつけたんだろう、三郎は「どうしたんだ?」とこちらをのぞき込んだ。

「いや、服を買いにいく時間がなくてさ、ちょっと早めに昼休みもらって。それでデパートの礼服売場に行ってきたんだけどさ、その行く途中で勘右衛門に会ったんだよ」
「勘右衛門に? それで?」
「勘右衛門に『こんな時間何やってるんだ?』って聞かれたから『結婚式の服を見てきた』って言ったらさ、あいつ、何って言ったと思う?」

今、思い出しただけでもかなり笑えてくる。早く三郎に伝えて一緒に笑いたいような、けれど、少しもったいぶってみたいような、そんなふわふわした気持ちで俺は尋ねた。想像が付かないのだろう、顎を手で支えるようにしてしばらく考えていた三郎は「あいつの考えてることなぁ……『それより、どっかご飯食べに行こうよ』とか?」とかなり見当違いなことを口にした。俺が「そういう感じじゃなくて」と答えれば「それ以外に思いつかねぇんだけど」と三郎はぼやいた。まぁ、こればかりは当てるのは難しいだろう、と俺は正解を告げる。

「『え、兵助たち結婚決まったの? いつ、どこで?』って」
「は? どういうことだ?」
「どうもさ、俺たちが結婚すると勘違いしたみたいで、すごくびっくりしててさ」

鳩が豆鉄砲を食らったという諺を体で表すならば、まさにこんな感じなのだろうというくらい、勘右衛門は目を大きく見開いていて、心底驚いているのが分かって。あの表情をうまく説明できないのが残念だった。三郎と共有できたらもっと面白いだろうな、と思いつつ、情景を想像した三郎が「あいつ、」なんて笑いながらつっこむのを待った。だが、

「ふーん。じゃぁ、結婚するか」

それは「明日の晩ご飯は豚の生姜焼きにするか」とでも言うような口調で、けっこん、という音だけが、ふわふわと現実から遊離していた。音から言葉の字面は理解したが、意味が分からなくて思わず「は?」と三郎を見返したが、彼は口調を貫いたままその言葉を繰り返した。

「だから、結婚するか」

けっこん。どう考えても結婚しかありえないわけなのだが、事態を飲み込めなかった。現実から突出してしまった言葉を追いかけるために「……念のため聞くが、誰と誰が?」と尋ねれば、至極当然だろ、という面もちで「私と兵助」と三郎はさらりと答える。さらに「が、どうするって?」と追求すれば、打てば響く勢いで彼は断言した。「結婚」と。

***

「何、これ?」
「何って指輪」

 シンプルなデザインのそれは、ぴったりすぎるほど俺の左の薬指にはまっていて、まるで最初からそこにあったかのように自然と馴染んでいた。だが、突然すぎて「いやそれは分かってるけど」と俺はそこに灯った温もりに戸惑いを隠せなかった。すると三郎は「昨日、言っただろ。結婚するか、って」と言った。俺が頷けば「そういうことだから」と勝手に三郎は話を片付けようとして。慌てて「どういうことだよ?」と引き留めれば「お前、本当に鈍いな」と、呆れたように肩を竦めた。それから、

「それ結婚指輪だから」

 と続けた。まだ意味が理解できない俺に三郎が「だって、何か形にしないとお前、私のプロポーズ、信じないだろうし。けど、式を挙げるのには半年先とかじゃねぇとできないらしいからさ、まずは指輪だけでも、と思って」と説明を加えた。確かに、冗談でしかないと捉えていたから、三郎の読みは正確だったのだが、まだ混乱していて、どうにも反応ができなくて。頭がようやく追いついた俺が口にできたのは、「三郎の分は? ペアリングになってるんだろ?」なんて、なんとも的外れな言葉のような気がした。だが、そのことが気になったのだ。よくは分からないが、結婚指輪というのは、宣誓の議の時に交換する指輪だろう。それならば、俺だけがもらうのは何か違う気がして。どうせならば俺の手ではめたかった。そう思って訊ねたのだが、三郎は「あー、うん、私はいい」となぜか濁して、「まぁ、じゃぁ、今度の休みに役所に行こうな」と話題を変えた。--------------その言葉通り、次の休み、ぴしりとスーツで決めた三郎と共に婚姻届を出しにいった。だが、三郎の薬指はその後もずっと空白のままだった。

***

(……まぁ、結局はノリだったんだろうな)

あらかたの物を棄て終えた俺は、最後に左の薬指に収まっていた指輪をそっと引き抜いた。どうしても三郎が言っていることが冗談としか思えなかった俺の指に翌日、はめられたものだった。結婚指輪だ、そう言ったくせに、三郎の薬指に付けるものがなにもなかった地点で気づくべきだったのだ。いつか、指輪を外す日が来ることを。----------------最初から分かっていたはずなのに、あの瞬間、ぴかりと指に灯った温もりに信じてみたくなったのだ。三郎との永遠を。

(永遠なんてどこにもないって分かっていたはずなのにな)

辛く嗤った俺は、指輪をゆっくりと傾けてみる。人工灯りの下で、妙に乾いた光を反射させたそれは、それなりに大切にしていたはずなのに、結構、細やかな傷が付いていた。普段、気になることのなかった傷は、今の自分たちを象徴しているようだった。光が当たらないと分からない傷は、けれど、傷には変わりなかった。-----------------別れる、という結論を出すに至るにあたって、何かきっかけがあるのかと問われればノーだった。浮気されただとか、他に好きな人ができただとか、そんなきちんとした形の理由があったなら、喧嘩のしようもあったかもしれない。だが、違った。知らない間に、光に当たらなければ分からないような些細な傷が少しずつ増えていって----------------そうして、傷だらけになってしまったのだ。他人からしたら「そんなことで?」と疑問に思うようなことかもしれない。だが、傷は傷だ。痛いことには変わりない。三郎は俺を傷つけていたし、俺もまた三郎を傷つけていた。いつしか指輪の傷が増えていったように、理解できないことだけが増えていって。とうとう、音もなく崩壊した、ただそれだけだ。

(これ見て、三郎はどう思うだろうな……)

 哀しむだろうか、それとも、せいせいしたと思うだろうか。そんなことを考えながら、俺は別れのしるしに指輪をローテーブルの上に置いた。だが、そのどちらもしっくりとこなかった。哀しむようにも喜ぶようにも思えなかった。何となく想像が付いたのは、無表情のまま指輪を拾い上げてポケットに仕舞い込む三郎だった。---------------それは、あまりに昏く寂しい光景だった。

(まぁ考えても仕方のないことだけどな)

俺が思い描いた情景が正解かどうか分からない。その頃、俺はもう部屋にはいないのだから。ふ、と壁に掛けられた時計を見遣る。共に暮し始めた頃に入った店で、二人してデザインが気に入って購入したものだった。自分の物はほとんど棄て去ったが、共同購入した物は置いていくことにした。それを処分するかどうかは三郎に委ねることにする。そんなことなど露知らず、その時計は何も変わらずに時を押し出していた。思っていたよりも時間が掛かってしまった。

(そろそろ行かないと……三郎が帰ってきてしまう)

 顔を合わせる前に立ち去らねば、と、ポケットに収めた茶枯れた紙を出そうとして、ふ、と思い出した。三郎のクローゼットの中にもまだ私物が残っていたことに。急がないと、と足早に寝室に戻り、乱暴にクローゼットの扉を開ける。そこに吊されていたのは、俺たちが結婚するきっかけを造った、あのモーニングだった。俺が保管しているとまた駄目にしそうだから、という理由で彼の管理下の元、きちんと手入れされていたそれは、あの日と変わらず、皺一つなくぴしりとプレスされて吊されていた。--------なんとなく、棄てるのが惜しい気もしたけれど、次の場所に持っていくにはあまりに思い出がありすぎて。俺は決意が揺るがないうちに処分してしまおう、と、ぐっと、ハンガーを引きちぎるようにして手を掛けた。
まずい、と思ったときには勢い余って俺はモーニングの隣に並んでいた三郎のスーツまで落としそうになっていた。咄嗟に手を伸ばし、どうにかスーツが床に着くのは避けられたが、かつん、と何かが床を叩いた。転がっていったそれを慌てて追う。カフスボタンか何かの類だろうか、と拾おうとして気付いた。指輪だった。さっき、俺がテーブルに置いたはずの、結婚指輪。

(あれ、これ……? 何でここに?)

 意味が分からなかった。さっき、テーブルの上に棄ててきたはずの結婚指輪。それが、今、俺の掌の中にある。一瞬、別の指輪か何かかと思ったけれど、見間違うはずなかった。毎日、薬指を眺めていたのだから。どうして。それか知らない鸚鵡みたいに、ひたすら俺の頭の中でその言葉が響いていた。どうして、どうして、どうして。何度見ても、それが消えることはない。--------------------と、

「見つかっちまったな、それ……」

 いつ家の中に入ってきたのだろう、背後に三郎が立っていた。どうして、という言葉は声にならなかった。それでも想いは伝わったのだろう、三郎がぽつりと呟いた。「怖かったんだ」と。ますます混乱が募る俺に三郎が続けた。

「あの時さ、この機会を逃したら一生『結婚しよう』なんて言ぇねぇかもしれない、って思って、あんな風にプロポーズして。けど、すぐにちょっと後悔した。恥ずかしくて、つい冗談みたいな言い方をしてしまったことをさ。……いや、ちょっとじゃないな、大分だな……ちゃんと想いを伝えればよかったって。だから、きちんと伝えることができたら、その時に指輪をしようって決めてて……けど、言おうとすればするほど、恥ずかしくて言えなくて。今更なんじゃないか、とか迷ってて、そのままずるずるここまで来て……兵助を不安にさせちまってたよな」

 すまない、と謝る三郎の手には、俺がテーブルに置いてきたはずの指輪が握られていた。

「なぁ、もう一回、ちゃんとプロポーズしてもいいか? ちゃんと指輪を渡しても」

 遅いんだよこの馬鹿、って言葉は涙に呑み込まれて-----------------------俺はそっと肯いた。



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