※無配コピ本に加筆したもの

(ハチのやつ、遅いな……)

眠気がずっと頭の隅に居座っていた。ずいぶんと前から感じていたそれを無視していたのだが、じわじわとそれが広がるにつれて眼前の明るさが減っていく。まるで蛍光灯に黒ずみが溜まって少しずつ光の厚みが薄れてきたかのような薄暗さの中、俺はソファの傍らにある携帯を取り出した。ぱちん、と弾くように開ければ、眩しさが目を突く。デジタルの数字が右隅で申し訳なさそうに深夜を告げていた。

(終点まで乗り過ごした、とかじゃないといいけどな……)

その可能性が0と言えないのは、前科があるからだ。普段、呑む分にはそれ程彼の酒癖が悪いとは思わない。そりゃまぁ二十歳になった頃は色々と無茶をしていたが、働き出せばセーブすることを覚えたのか、店でリバースしまくった挙げ句誰かに担がれて帰宅、ということはなくなった。それでも飲み会に行って終電で帰ってこようとしたはいいが車内で爆睡して乗り過ごした、なんてケースは中々なくならなかった。その度に、途方に暮れたハチから電話が掛かってきて俺が車を出す羽目になったのだが、それが一回や二回どころじゃなかった。両手で指折れば何回、行きつ戻りつを繰り返せばいいのか分からないくらいだ。前科と呼ぶにはあまりに多すぎるような気もしたが、まぁ、長年付き合っていれば、それくらいの回数になってもおかしくないのかもしれない、とも思う。曖昧なのは、それが多いのか少ないのかは俺には分からないからだ。なにせ、比べる対象がない。ハチ以外の人物と付き合ったことがないから。

(最初で最後の恋人だ、と思ってたからな……)

内なる想いを言葉にして、思わず嘲笑ってしまった。『思っている』じゃなくて『思っていた』と過去形にしているのは自分だけなんだろうか、と。そのことを確かめることすら、しなくなって久しい。---------倦怠期、なんて言葉などとうの昔に俺たちの中で朽ち果てたものだった。もう十年も付き合っているのだから。

(十年、か……)

日々を振り返るには十年という歳月はあまりに長く、そして現在進行形すぎて難しかった。映画のワンカットみたいにシーンとして印象に残っていることは、ぱ、っと思い出すのは、どれも特別な出来事ばかりだった。---------------------けれども、その特別な一コマだけでこの十年が語れるわけじゃない。それが可能なのは、それこそ映画やドラマの世界だけで、現実はそのワンシーンの下でたくさんの記憶にない日々が積み重なっているのだ。普段は忘れている分、そのことを考えると、ちょっと思うと不思議な気になる。ただ、実際、思い出すのはやっぱり何気ないワンシーンじゃなく、特別なことなんだろう。

『今すぐは無理だけど、十年後に結婚しよう』

ふ、と頭の隅で聞こえてきた声は鮮やかなものだった。けれど、その鮮やかさにはリアリティが欠けていた。機械を通しているわけでもないのに、妙に音のバランスが悪いような、そんな声音だった。当たり前だ。もう随分と昔の-----------それこそ、十年も前の記憶なのだから。けれど、すり切れて聞こえなくなるテープとは違って、何度となく思い返してみてもその声が消えることはなかった。いや、繰り返し繰り返し思い出しているから、忘れないのかもしれない。十年前の出来事なんて、片手で数えるほどしか覚えていないのだから。ただ、それがあの当時そっくりそのままかどうかと問われると怪しい。もしかしたら、補正して実際のよりも美化しているのかもしれない。まぁ、どちらにしろ分かっていることは、あのワンシーンを俺は一生覚えているだろう、ということだけだ。思い返すこちらの感情は変わっていくとしても。思い出に棲み着いてしまったその温かい声も、今は、ただ哀しいだけだった。

(もう絶対、忘れているだろうな……)

自分だけが覚えている約束なのだろう、と左手の薬指を見る。もちろん、そこに刻まれているのは皺だけだった。日頃意識することはないけれど、年齢ってのは案外そういった部分から出てくるのだろう。まぁ、男だから、そんなに気にしないけれど、ただ、さっきの『十年』という感覚と相まってひどく憂鬱だった。

(十年後、自分はハチと一緒にいるだろうか……)

三日、三十日、三ヶ月、三年……倦怠期だの別れ話がなかった訳じゃない。危機的な状況を何度か乗り越え、気が付けば十年が経っていたという感じだった。十年前、どんな未来を描いていたのか、はっきりとした部分までは覚えていないが、少なくともその未来にハチは一緒にいたはずだ。------------------そうして、実際、叶っているというのに、素直に喜んでもいいのだろうか、と疑問に首を傾げている自分がいた。十年後、ハチと一緒にいるのだろうか、と未来予想図を描こうとしたけれど、ぼやりとした景色は一向に焦点が結ばれることなく、消えてしまう。これからもずっと一緒にいたいとは、思う。でも、どうしても想像できないのだ。-----------------あの日、指輪をもらってプロポーズをされた時には簡単に思い描くことができた未来が。そのことが、とても寂しいことのような気がして、俺は自分だけが使っている書き物机に向かった。三つある内の一番下の段。深いその引き出しのさらに一番奥底に、それはずっとそっと仕舞ってあった。

「ぶかぶか、だな」

小さな小箱から取り出したのは、あの日の指輪だった。それを己の薬指にはめてみる。関節をえぐることなく、すとん、と落ちきった指にあの日と同じ感想が自然と口を突いて出て。そんな自分に笑ってしまう。当たり前だ、この十年、体重は多少上下したけれど極端に太ったということはないのだから。この前、衣替えをしたときに出てきたビンテージもののジーンズは大学の時から穿いているものだったりする。働きだした直後にストレスで大きく痩せたけれど、大学の卒論時期の夜食で太った分を考えれば、プラマイ0の範疇だった。-----------------ましてや、指のサイズなんてそうそう変わるものでもないだろう。

(けど、百パーセント変わらない、ってのはないのかもしれないな……)

最終的には十年前とそう変わらない体型を維持しているが、変化がなかったわけじゃない。指のサイズも同じだろう。指輪はあの時に一回もらったきりで結局、ぴったりのサイズのを貰うことはなかったから、分からないが、サイズ自体の変化はないだろう。けれど、指の太さに全く変化がないということはないだろう。十年間、生きてきたのだから。----------------生きていれば、変わっていく。そんな当たり前のことが妙に新鮮に思えるのは、立ち止まることをしなかったからかもしれない。変わっていくと分かっていながら、何となく流されてきてしまっていた。今日という日まで。

「ただいまー」

がしゃん、と玄関の方で鈍い金属音が響いたかと思うと、すぐに呂律が若干回っていないような声音が続いて。ぼんやりとしていた俺は、一瞬、反応に遅れた。ハチだ、そう気づいた時には短な廊下から足音が迫ってくる頃で。俺は慌てて机の引き出しの一番奥に指輪をしまった。カツン、と底板を叩く音に、傷が付いてしまっただろうか、と心配になったが、再び引き出しを開けそれを確かめる間もなかった。

「おー、なんだまだ起きてたのか」

酩酊状態なんだろう、赤ら顔したハチがふわふわと口元を緩めながら謳うように声を上げた。巻き散らかされる酒臭さに辟易して「終電逃したら向けに来て、ってメール寄越しただろ」とぼやいても、「そーだっけ」とケタケタ笑うだけで。完全に酔っぱらってる、と俺は眼前にまでせまってきたアルコール臭を追い返すように大きくため息を吐き出した。

「で、何で帰ってきたんだ?」
「タクシー」
「あそ。なら、次回からもそうしてくれ」
「何、へーすけ、怒ってる? 怒っちゃってる?」

絡んでくるハチに今日の酔い方は最低だ、と俺は苛立ちをかみ殺した。酔っぱらいなのだ。何を言ってもするりと通り抜け、そのまま朝になればさっぱりと記憶から消え去っているだろう。何か喋るだけで、いや、ため息を零すことでさえ無駄な労力を使うような気がして、口を噤んだ。俺が黙っていると、

「ごめん。悪い、すまない。許してくれ、兵助っ」

もはやふざけているとしか思えないような言いように、俺は唇を改めて頑なに引き結んだ。こんなにもイライラするくらいだったら、さっさと寝ておけばよかった、と後悔する。何となく、久しぶりに大喧嘩になりそうな予感がしただけに、余計に。この数年、派手な喧嘩をしたことがないのは事前に互いに回避しているからだ。-----------長く一緒にいれば、互いに相手の空気を察するのにも長けてくる。喧嘩になる前に片方が引いたりそこに触れないようにしたりする。たとえ喧嘩したとしてもこじれる前に折れて謝ってしまう。そうやって、完全に丸めることはできなくても収めてきた。けれど、目の前のハチはかなり酔っぱらっていて、とてもじゃないが空気を読めるような判断力が残っていなさそうだった。となれば、俺が避けるしかなかったのだが、

「へーすけ、愛してるー」
「もういいから」

いきなり叫んだハチにと、思わず引き留めの声を掛けた。「やっと口、聞いてくれた」とハチは笑ったが、俺はちっとも笑えない。スーパーで安売りされている野菜みたいに、一山いくらの勢いで言われても、嬉しさの欠片もない。そんな風に「愛してる」なんて言われたことが哀しくて------------俺は叫んでいた。

「お前なんか嫌いだ。……どうせ、もう十年前の約束なんて忘れてるんだろっ!」

***

しん、とした静けさが響いた校舎は朝の中でまだ覚めぬ夢の中にいるようだった。カンカンカンと甲高い音が静まり返った廊下に響き渡る。スチーム暖房が動き出したのだろうが、校舎全体は冷たさの底にあった。口から自然と零れる息が目の前を白く霞ませる。身震いを一つして、俺は紺色のマフラーに唇を埋めた。窓の向こうは薄暗い。夜の闇に塗りつぶされたのとは違うが、学校に来て勉強しようって思ってた奴の気を削ぐには十分すぎるほど。今にも雪が降り出しそうな雲合いだった。自由登校になったせいで、三年生の教室が入っているこの階は全くと言っていいほど人気がなかった。

(まぁ、俺もハチに呼び出されなければ、来なかっただろうな……)

 推薦で早々に大学が決まった俺が三学期に入っても学校に来る理由はたったひとつだった。------------ハチに会うため。けれど、それもセンター試験が終わり自由登校が始まるまでだった。二月に入ってから、もうすぐ二週間。俺はハチと数えるほどしか会っていない。ハチには「お前の勉強の邪魔になりたくないから」と説明したが、それは半分嘘だった。毎日、顔を合わせていたのが確実に合わさなくなる。一ヶ月後には確実に来る未来。それに慣れるための練習を俺はこっそりしていたのだ。そんな俺に気づいていたのかもしれない。ハチはメールや電話こそ寄越したが、この二週間、一度だって「会いたい」とは言ってこなかった。だから、いきなり『明日、話したいことがあるから、朝7時半に教室で待っている』というメールが来たときに覚悟だけは持った。もしかしたら、終わりになるかもしれない、と。だが、

「お、兵助。悪いな、朝早くに」

 俺を出迎えたハチの表情は明るくて。ほっと、胸を撫で下ろしながら「いや。どうしたんだ?」と訊ねたのだが、面持ちに緊張を走らせ、彼は黙り込んだ。その落差の激しさに、俺の方にも再び不安が灯る。しばらくの間、彼が何か言いたそうに口が開き、けれども生み出すのは空気ばかりというのが続いた。そうやって空気は吐き出されているはずなのに、だんだんと息苦しくなる。ざわざわとした雰囲気が廊下を漏れ伝ってくる。下の学年が登校してきたのだろうか。いくら三年は学校に来る人数が少ないとはいえ、0ではない。そのうちに、この教室にも誰かが来るはずだ。そうなれば、ゆっくり話すこともできない。それに何よりも沈黙にゆっくりと殺されていくのに耐えきれなくて。俺の方からその言葉を提示した。

「……別れ話、なのか?」
「え……違う。そんなんじゃない、違う」

吹き出したボイラーの音に呑み込まれてしまいそうな俺の声を、ハチは慌てて否定した。じゃぁ、話って一体何だろうか、と疑問に思っている俺は、不意に、温もりに包まれていた。目の前にある景色に、ハチに抱きしめられている、と気づいた俺は顔を上げた。優しい、笑み。真っ直ぐな、目差し。

「今すぐは無理だけど、十年後に結婚しよう」

 全ての音が消えたような、そんな気がした。びっくりしすぎて俺は声を出すことができず、ただただ、ハチを見つめることしかできず、結果として黙ったままという格好になってしまった。だからだろう、「ってか、急に悪ぃ。そんなこと言われても、って感じだよな。嬉しくも何ともねぇよな」と一人、まくし立てるハチは、まるで親とはぐれた子犬みたいに不安げに瞳が揺れていて。焦って「そんなことない。嬉しい」と俺も返事をすれば、ぱ、っと笑顔が弾けた。っしゃ、っとガッツポーズを握るハチにおかしさがこみ上げてきて、ついつい、笑っていると、ふ、っと手を取られた。

「これ、安物だけどさ……」

 その手には、銀色に光る指輪があった。ハチに「はめてもいい?」と問われ、肯く。手を取られ、

「……あれ?」

爪先で一瞬、引っかかったリングは、そのまま、するりと薬指を滑った。普通ならば突っかかるはずの関節ですら何の障害もなく通り抜ける。突き刺さるような勢いで行き止まりにぶつかったけれど、そこでさえも抜けてしまうんじゃないか、というくらいその銀色と俺の指との間には隙間があって。

「え、何で……だって俺の薬指にはぴったりだったのに」

呆然としているハチが呟いた言葉に、何となく原因が分かったような気がした。ハチに「それって何号の指輪なんだ?」と訊ねれば、「何ごうって?」と逆に聞かれた。やっぱり、と思いつつ「指輪にもサイズがあるんだ。7号とか9号って、何号って形で」と伝える。えぇ、っと衝撃を受けているハチに「号数知らずに、どうやって選んできたんだ? 店員に聞いたのか?」と聞けば「や、ああいう店、入るの初めてで恥ずかしかったし、とにかくデザインは選んで、あとは自分の薬指にはめてみて……あぁ、そっか、お前の方が指が細いんだな」と理解したようで。まさに、がっくし、といった勢いでハチは肩を落とした。

「どうしよう、これ」
「店員に言ったら変えてもらえるけど……けど、これでいいよ」
「え、何で? 変えてもらえるならそうしようぜ、」

 不思議がるハチに俺が「たって、十年後に笑い話としてできるよう、思い出に残したいし」と告げれば、頭を掻きつつ「勘弁してしれくれよな」とハチはぼやいたけれど、結局、すぐに笑い出して。笑い話になる前から、俺たちは笑った。それから家に帰るまでに落とすのが怖くて、ハチに聞いてから俺は指輪を中指に移してみれば、ぴったりで。俺たちはまた笑った。

「今すぐは無理だけど、十年後に結婚しよう。その時は、ぴったりのサイズの指輪を贈るから」

***

酷い倦怠感と頭痛に叩き起こされる。夢か、と起き抜けに真っ先に呟くくらいに体がだるかった。ぱ、っと翳した手には、当然、指輪なんてものはない。---------------結局、ハチから指輪をもらったのはその時一回きりなのだから。ここまでリアルな夢を見たのは、あんなことを言い放ったからだろう。あの頃に戻りたがっている心を叱咤しても体を上手く起こすことができず、俺はごろりと寝返りを打った。指輪のない指先に触れるのは、造られた冷たさ。

(あれ、ハチは……?)

 てっきり、隣で寝ているものだと思っていた。あの後、ハチの顔を見るのも嫌で、俺はさっさとベッドに潜り込んだ。どうせ酔っぱらっているのだ、俺が投げつけた暴言も朝になればきれいさっぱり忘れ去っているだろう、と何も言わずに。他の家具についてはこだわりはさほどなかったが、寝付きの悪い俺は寝具だけは譲れなくて。やたら狭い部屋にキングサイズのダブルベッドが鎮座する形となったのだが、そのベッドのシーツは半分より向こうは、ぴん、と張られたままだった。いつもなら喧嘩をしてもベッドの端と端で寝るのだが、ハチの姿はどこにもなかった。

(え……? ハチ……?)

 酷い言葉を投げられて、怒って出て行ってしまったんじゃないだろうか、という想像が駆けめぐった瞬間、俺はバネのように跳ね起きていた。怖かった。このまま「さよなら」になってしまうんじゃないか、って。着の身着のままで、慌てて部屋を飛び出そうとした瞬間、ばふ、っと弾力ある物に正面衝突する。そのまま、押し戻され倒れそうになった俺は、ぐいっ、っと腕を引っ張られた。その力に流されるがまま、今度は、柔らかな温もりに抱き留められる。

「っと、兵助、大丈夫か?」
「ハチっ」

 つい、その胸に飛び込みそうになって、けれど、喧嘩(といっても一方的に俺が怒っているだけなんだろうが)していること思い出して、俺は温もりから抜け出した。あんな簡単に「愛してる」なんて言ってきたハチが悪いはずなのに、どうしようもなく気まずくて顔が見れなかった。だが、ハチのことは気になって。自然と視線はそちらに流してしまう中で、気が付いた。すでに彼が着替え終わっているということに。普段であれば休日は昼過ぎまでゴロゴロしていて、たいてい部屋着だった。ちらり、と見えた時計の数字は昼前とようやく呼べるような時間帯で。

「お前、朝早くから出かけてたのか?」
「あぁ、ちょっとな。……何だ、俺がいなくてびっくりしたのか?」

 そう聞かれたけれど、素直に頷くのは癪な気がして俺は口を噤んだ。ふ、っと笑ったハチはまるで赤子をあやすかのように俺の頭を、ぽんぽんと撫でてきて。それが嫌で彼の温もりをはね除けようとして---------逆に、ハチに腕を掴まれた。放せ、と口にする前に逆に「目を瞑ってくれねぇか?」と頼まれる。意味が分からなくて「何で?」と聞く口調は強いものになってしまったが、そんなこと意に介する様子もなくハチは「いいから、いいから」と笑った。「頼むって。俺が『開けてもいい』って言うまでさ」と懇願され、俺は黙ってそれに従った。目を閉じれば、温かな闇。ふ、と左手が取られるのが分かった。何だろう、と思っていれば、薬指に温もりが灯った。僅かに詰まる感じに、つい、目を開けてしまっていた。

「これ……指輪……」
「あ、こらっ。まだ目、開けていいって言ってないって」

 冗談めかして怒ったような言い回しをしたハチは「だって」と言い訳する俺に笑って、それから、目差しを俺の左手の薬指に落とした。第二関節で引っかかっていたそれは、そこを何とか通り抜けて。そうして、ぴったりとはまった。--------------あたかも最初から、そこにあったかのように、ぴったりと。

「よかった、今度はちゃんとぴったりだな」

 悪戯っ子のように笑うハチに胸がきゅっとなる。言いたい言葉も聞きたいこともたくさんあったけれど、どれもこれもが鬩ぎ合っていて。結局出てきたのは「何で?」という疑問符だけだった。だが、もちろん、それだけでは伝わらなかっただろう「え?」と困ったように彼は眉を下げた。何か言わないと、と色々渦巻いている中で咄嗟に出てきたのが「何で、指輪のサイズを知ってるんだ?」という言葉だった。十年前はサイズが分からずにぶかぶかだったのに、と思ながら、そう俺の問いかければ「覚えてるか? 十年前の指輪騒動」と逆に訊ねられた。「当たり前だろ」と答える。

「あの後、しばらくしてから……っても、大学に入ってからだけどさ、お前が持っていた指輪がなくなったの覚えてるか?」

 そう問われ、朧気な記憶が少しずつ色づいていく。あぁ、そうだ。何となくデザインが気に入って、時々右の薬指に付けていたファッションリングを俺はなくしてしまったのだ。いつもの場所にきちんと置いたはずなのに、とゴールデンウィークで帰省して俺の部屋に遊びに来ていたハチに話した記憶がある。数日後、全然、覚えのない場所から出てきて不思議に思ったのだが、

「あれ、俺なんだ。サイズが知りたくて、ちょっと借りたんだ。悪かったな」

いや、と首を振り「……その指輪が何号か店かなんかで調べたのか?」と訊ねれば、彼もまた首を左右に動かし「いや。恥ずかしくて聞けなくてさ……だから、すっげぇ考えたんだよ」と答えた。それから、ハチは俺の薬指の上に、彼自身の小指を重ね置いて。それから、笑った。

「ほら、ぴったりだろ……俺の小指は兵助の薬指、俺の薬指は兵助の中指」
「俺の中指はハチの薬指、俺の薬指はハチの小指……」

 あぁ、と笑ったハチは、あの日と変わらない真っ直ぐさで俺を見つめた。

「今すぐ、結婚しよう」



I Love You