ふ、と延々と軒先が連なっている視界に違和を覚えた。違和といっても、何かが引っかかるような、しっくりとこない感じだった。世界が、妙に継ぎ接ぎしていて収まりが悪かった。どうしてだろうか、と記憶を掘り下げていくがいまいちはっきりしない。ただ、ぽっかりと開いた穴に当てられた布のように、思い出の中の景色と照らし合わせた時に妙にその部分の色だけが周りから浮いているような気がして、当てずっぽうで尋ねた。

「あれ、あそこって前からカフェだったか?」

無意識に流して生きている日常の記憶ほど曖昧なものはない。知らない間に移りゆく季節のせいで、刻々と変化していっているはずなのに、その変化が微塵すぎて印象に残らないのだ。味覚や嗅覚に刻みつけることができたならまた別かもしれないが、乾ききった風が吹き抜ける街ではそれを感じ取ることの方が難しかった。だが、塵ほどの小さな変化であっても積み重なれば違う。たとえば数週間前にようやく芽吹いた萌葱もモザイク画のように枝葉が集まれば、緑の世界を造り出し春の息吹を感じさせるものとなる。

「ううん。前はなんかアジア系の雑貨屋だった」

自分の勘が当たっていたことが雷蔵によって証明されたものの、いまいち、ぴん、とこなかった。おそらくその店の中に入ってなかったからだろう。よく立ち寄る場所なら、もっと早くに気づくはずだろう。五感で感じることのない記憶ほど簡単に薄まってしまうのは普段から感じていることだった。それなのに、そのことに気づいたのは、自分が異邦人になってしまったからだろう。刻々と変化をしていく世界はその場にいれば案外気づかないものだ。だが、少し街から離れて戻ってきたときに、ふ、と騙し絵を見たような気持ちになって---------そうして気づく。その変化した町並みに。変わらないものはないのだ、ともまた。

「雷蔵?」

楽しそうな足取りでずっと進んでいた雷蔵の歩が、不意に止まった。ふ、とそれまで私の傍らにあったはずの意識が遠いところに佇んでいた。どうしたんだろうか、とその視線の先を辿れば、ずいぶんと高いマンションが日差しを抉るようにして立っていた。だが、それだけで、特別に珍しい光景とは思えない。どこにでもある、何の変哲もない世界。誰もが通り過ぎていくようなその場所で、雷蔵だけが祈りの最中にいるような面持ちで眺めていた。再び、私が「雷蔵?」と問いかければ、ふわり、とさっきまでの表情は空気の中に溶けてしまっていた。先に歩き出す彼の影を追いかける。

「何でもない」
「って、表情じゃなかったけどな」

 彼の言葉を引き取れば、少し困ったように彼は唇を噛んだ。ゆっくりと息を零すようなささやかさで彼はやっぱり「何でもない」と、再びその言葉を告げた。けど、知っている。それが嘘だ、と。二、三度瞬きをし、それから軽く前髪を触る仕草は、正直者の雷蔵がどうしても嘘を吐かなければいけないときの癖なのだ、と幼なじみの私はよく知っていた。

「雷蔵が言いたくないって言うなら、それ以上は聞かないけど……けど、ひとりで抱え込むなよ」

 無理矢理に聞き出すこともできたが、彼に選択肢があるように言葉を譲った。相手に強要されて言葉にしたものは、どれも偽物でしかないと知っているから。雷蔵はあやふやな笑みを一度浮かべた後、す、っと目差しを、遠い遠い空に投げた。ひどく哀しそうな色がそこにあって。思わず「雷蔵」と呼びかけようとした瞬間、ふ、と彼がこちらを見遣った。

「三郎は信じる? 永遠って」

さすがに予想の範疇にない問いかけだけに、俺は「え?」と、真っ先に疑問を呈する反応をしてしまった。その先の言葉が浮かばなかった。-----------------彼が望んでいる答えが分からないのは、初めてだった。ずっと、一緒に生きてきたのだ。それこそ、物心つく前から。以心伝心、という言葉は私たちのためにあるんじゃないか、と思うほど、お互いに何を考えているのか、だいたいは分かる。けれど、今、雷蔵が何を想いその言葉を口にしたのか分からず、すぐに話を続けることができなかった。

「……どうしたんだ、急に?」
「ううん……そうだね、急だね」

 どうにかして振り絞った声は、自己完結した雷蔵の手によって終わらされそうになって、慌てて彼の名を呼ぼうとした瞬間、「あら、雷蔵くん。それに、三郎くんも。珍しいわね。どうしたの? 帰省中なの?」という言葉に遮られた。声を掛けられた方向に体を向ければ、そこにいるのは顔見知り花屋のおばさんだった。外に出してあった鉢植えの花なんかをしまう途中で私達を呼び止めたのだろう、植木鉢を抱えていた。朗らかな笑みは、昔から変わらない。ただ、以前はなかった白髪交じりの髪だけが、時の流れを感じさせた。


「三郎が帰ってきてくれたから、ちょっと遠出をしてきたんです」

 嬉しそうに目を輝かせて雷蔵がそう答えると、おばさんは「そう、それはよかったわね」と強く頷いた。心底そう思っているのが、目尻の皺からも伝わってくる。単なる近所のおばさんという関係だけだというのに、彼女が感慨深げにでそう言ったのには訳がある。私がこの街に戻ってきたことと、それから、雷蔵が遠出できるほどの体調がいいいのだ、というその両方があるからだろう。------------------小学生の頃に病気になって以来、雷蔵は体が弱くて、いつも入院しているか家で静養しているかで。雷蔵がこうやって外を出歩くことができるのは、その当時のことから考えれば、ある種の奇跡なのかもしれない。遠出、といっても、駅前までの距離だったが、雷蔵にとっては海外に出るようなものだった。

「店長〜、これでいいですか?」

その言葉と共に私達の前に現れたのは、ウェディングベールを思い起こさせる純白の花束だった。わぁ、っと感歎の声が漏れる。穏やかな溜息のごとく「真っ白な花ばっかりで、きれいだな……」と誰に伝えるわけでもなく呟いた雷蔵は、その花束を食い入るように見つめていた。

「うん。オッケー……今日はそこの教会で二件も結婚式があるのよ」
「どうりで……本当に綺麗だな。……ねぇ、三郎」

 ふ、と花束から動かされた目は、その白を映しだしているかのようにキラキラと輝いていて。私が「何?」と訊ねれば、花びらのごとく柔らかな唇が綻んだ。楽しそうに「今度、お見舞いに来る時、お花持ってきてよ。小さなブーケでいいからさ」と話を咲かせる雷蔵におばさんも「安くしとくわよ」と乗ってくる。

(お見舞いの時、か……)

できることなら、お見舞いじゃない時に雷蔵に花を贈ることができたらいいのに、と心の中では強く強く思う。誕生日とか何かのお祝い事とか、それこそ結婚の時でもいいし、むしろ、本当に何のイベント事がない時にこそ花束を手渡したかった。何気ない毎日の中で「綺麗だったから」と雷蔵の所に花束を買って帰ることができたなら、どれだけ倖せだろうか。-------------------けれど、そのことはあまりに今の私たちには夢物語過ぎた。私はこの街に棲んでいないから、花束を買ってからここまで帰ってこようと思うと雷蔵に渡すことができるのは萎れてしまったものしか無理だし、また、こうやって雷蔵が不調を訴えることなく一日を外で過ごすことができたのも希だった。ひそ、と昏がりに苦しさを溶かしながら、結局「ミニブーケ、可愛いですよね」なんて盛り上がってる二人に水を差すことはできず、私は「分かった」と約束を口にした。

***

「見て見て、三郎」
「あぁ……結婚式があるって言ってたな」

その後も、しばらく二人のおしゃべりは続き、私が声を掛ければ「じゃぁ、さようなら」とようやく雷蔵は店から離れた。だらだらとした坂道を、彼の歩調に合わせてゆっくりと登る。彼の家までの近道である、教会を抜けようとした時、彼が歓声をあげた。道路まで溢れている、人。白銀の光に輝く、新郎新婦。どの顔も倖せそうな笑みが浮かんでいる。その笑顔の中を門に向けて歩いている姿は、本当に嬉しそうで。その雰囲気に誘われるようにして、私たちはふわふわと近づいていた。

「いいなぁ……結婚式か……あ、そう言えば……」

何かを思い出したように、雷蔵は言葉を漏らした。それは、独り言というには大きくて。私は、彼に「そういえば?」と視線を送った。雷蔵は慌てて手を振りながら「ん、あっ、何でもない」と断っていたが、私が「んだよ、気になるだろ」と押せば、彼は観念したように一度、息をついた。それから、ゆっくりと何かに刻みつけるかのように口にする。

「……あのさ、誓いの言葉ってわかる?」

ドラマのワンシーンが、頭をもたげ「ああ、あれだろ?『病める時も健やかなる時も』ってやつだろ?」と答える。きちんと一言一句聞いている訳じゃないから分からないが確かそんな感じのことを言っているような気がして口にすれば「うん、それそれ」と雷蔵は肯いた。

「うん。でね、それの最後が『死が二人を別つまで、これを敬い、これを愛し……』って感じなんだよね」

「それが、どうかしたのか?」
「何か、変じゃない?」
「そうか?」

何がおかしいのか分からず疑問を呈せば、すっと雷蔵の視線が、落ちる。蹴ったのだろう、彼の足元の石が跳ね飛んだ。昏い面持ちは、私が否定したせいでというよりも、もっと別の理由のような気がして。私は彼の手を、そっと、包み込むように握りしめた。

「うん。だって、『死が別つ』って、死んだら終わりってことでしょ?」
「普通、そうだろ?」
「……僕は、そうは思わないけどな」
「じゃぁ、雷蔵ならなんて言うんだ?」

ぎゅっ、と雷蔵の方から手を握りしめていた。

「『たとえ死が二人を別つとしても』かな? それだったら、何か、永遠の愛を誓う感じがするし」

 ぎゅ、っと胸が軋んだ。彼の口から『死』という言葉が出たことが怖くて怖くて堪らなかった。彼がどういう意図でそう言ったのかが分からなくて、俺にできることは、ただただ、繋いだ温もりがどこかに行ってしまわぬよう、ぎゅっと握りしめておくことだけだった。どうしたって叶わぬ祈りを希うことしか。

(死が二人を別つ瞬間なんて、来なければいいのに)

と。ばふっ。何かが腕に飛び込んできた。わけも分からず、それをしっかり受け止めていて。きゃぁー、と幾重にも響き渡った甲高く、そして楽しそうな叫び声に私は我に返り「えっ!?」と絶句した。無理もないだろう。気が付けば、真っ白に輝くブーケが、私の手の中に納まっていたのだから。いわゆる、ブーケトスをしていたのだろう。新婦の方が驚きの表情を浮かべたまま、ゆっくり、私達の方へと歩み寄ってきた。慌てて「すいません、これ」とブーケを返そうとした私を、新婦さんは押しとどめた。

「大切な人にでも、あげて」

たまたまなのかは分からないけれど、新婦さんは雷蔵の方を見てにっこりと笑った。

「あの時言ったこと、まだ有効だからな」

笑顔の輪の中に戻っていく新婦さんを見遣りながら、私は雷蔵の手を握りしめながらブーケを手渡した。私の言葉に「え?」っと疑問を呈する彼に、そりゃまぁ覚えてないよな、と苦笑いを零す。もっと、ずっと、幼い頃の思い出だ。まだ、雷蔵が元気だった頃、どこかの草原でした約束。

「ほら、しろつめ草と四つ葉のクローバーで指輪を作って『結婚しよう』って約束しただろ」

 今でもそうだが、雷蔵とずっとずっと一緒にいたくて。夕方になると「バイバイ」ってするのが嫌で。どうしたらいいか、小さな子どもなりに私たちは一生懸命に考えて。その時に雷蔵に「けっこんしたら、ずっといっしょにいられるんだって」と教えてもらった。じゃぁ「けっこんしきしようか」なんて単純に言ったはいいが、結婚って響きは知っていたけれど、どうすればいいか分からなくて。

「けっこんしきって、なにするんだ?」
「なんかねー、ゆびわをわたすんだって。あ、左のくすりゆびにはめるんだったかな。それで、『ずっといっしょにいようね』ってやくそくするんだって」

 なるほど、と思っている私の耳に「けっこんしきしたいけど、ゆびわがないもんなぁ」と残念そうな声が聞こえてきた。ゆびわ、ゆびわ……周りを見たけれど、もちろん、草原の中にそんなものは落ちていない。雷蔵が「せっかく、三郎とずっといっしょにいれるかもしれないのになぁ」とぽつんと言った。

(ゆびわ、ゆびわ……あ、そうだ!)

いいこと思いついた、と私は「雷蔵、ちょっと目をつむってて」と頼んだ。不思議そうに「なんで?」と聞いてくる雷蔵に「いいからいいから」と彼の手を取り、目を覆うようにする。目を手で隠しながらも不安そうにキョロキョロする雷蔵に「私が『もういいよ』って言うまで、そうしてて」と伝え、彼が自分で目を閉ざしたのを確かめると私は彼に背を向け、手近にあったしろつめ草とクローバーを摘んで。それを編み込むようにして、指輪を作ったのだ。もう目を開けてもいいかい、と聞いてきた雷蔵の左の薬指にそれをはめて伝えたのだ。「けっこんしてください。ずっとずっといっしょにいてください」と。返事はもちろん「うん」というものだったのだが、

(なんてこと、覚えてないよな)

もうずっとずっと昔の話だ。自分だって、こうやってブーケを渡されたから、ふ、と思い出したくらいなのだ。雷蔵が覚えてなくても不思議じゃない。そんな気持ちで「もう忘れたよなー」と軽く口にした瞬間、

「忘れてなんかない。忘れるはずなんかないよ」

 きっぱりと言い切った声は、けれども震え---------------そして、濡れていた。雷蔵は泣いていた。 さすがにびっくりしてしまって、「ら、雷蔵?」と慌てて声を掛ければ「覚えてるよ……すごく嬉しかったもの」と泣き声が返ってきた。それから「三郎の方こそ、覚えているなんて思ってもなかった」と続けられる。どういうことだろうかと思っていると「その約束したの、さっきのマンションの所だって知ってた?」と雷蔵が理由を説明してくれた。そうだったのか、と私は首を横に振った。潤んだ眼でその方角を見遣った彼は「ずっと怖かったんだ」と呟いた。

「街がどんどん変わっていって、思い出の場所もなくなって……三郎もいなくなって」
「雷蔵……ごめん」
「ううん。いいんだ。だって、三郎がこうやって約束を覚えてくれたから」
「……あの時の約束、まだ有効だからな」

 私の言葉に雷蔵はふわりと笑って------------けれどその表情を再び昏くさせた。私を見遣りながら「でも、本当にいいの?」と呟く。意味が分からずに「何が?」と問えば、さっきの泣き顔とは違う、もっと苦しげな面持ちを雷蔵は浮かべた。

「だって、僕は病気で、いつ、何が起こるかも分からなくて……そんな僕と結婚したところで、不幸になるだけだよ。僕は、三郎を倖せにできない……」

 哀しくて哀しくて--------そして愛しくて、私は彼を抱き寄せた。

「私は雷蔵が一緒にいてくれたら、それだけで倖せだ」

 こうやって抱きしめることができるだけで、それだけで十分だった。それでもなお、「でも……」と言い募る雷蔵をぎゅっと抱きしめる。病気をして以来、ずっと彼は闘ってきたのだろう。いつ、何が起こるかも分からないという恐怖と。死んでしまうかもしれない、という恐怖と。

「さっき、雷蔵が言ってただろ。『死が二人を別つとしても』って」
「うん」
「私たちは生きているから、いつかその日が来るだろうけど、でも、雷蔵が先なのか私が先なのかは誰にも分からないと思うんだ。……もしかしたら、私が明日事故で死んでしまうかもしれない」
「やめてよ、そんなこと言うの」
「ごめん……けど、だからこそ、今というこの瞬間を、この想いを大切にしたいと思うんだ」
「想いって?」

 首を傾げた彼に、そっと、キスを降らせる。

「ずっと、ずっと一緒にいよう……たとえ、死が私たちを別つとしても、私は雷蔵を愛してるよ」

***

 そ、っと彼の指にはめた指輪はクローバーがモチーフになっている。愛しそうに指輪を撫でるときの光のような微笑みを私はこれからずっと忘れないだろう。それこそ、死を迎えた瞬間、思い出すのはこの時の雷蔵の綺麗な綺麗な笑みのような気がした。

「やっと、本物を渡すことができたな」
「三郎……ありがとう」

I, Saburo take you, Raizo , as my wedded partner,
to have and to hold from this day forward,
for better, for worse, for richer, for poor,
in sickness and health, to love and to cherish,

「私は、雷蔵を永遠に愛することを誓います」

--------------------------------------------- even death do us part.



I Love You