「悪ぃな。待たせてしまって」 鳶色のダウンジャケットに夜の海みたいな紺色のマフラー。はっきりとした色合いの装いは、冬のような陰影を感じる。けど、マフラーを向かいのイスに掛けた瞬間、春の匂いがした、気がした。柔らかくて少しだけ甘くて何かが始まるような、春の匂いが。 「ううん。今来たとこ」 本当はずいぶん待っていて、ちょうどおかわりの二杯目が来たところなんだけど、それは口にしなかった。言えば、きっと三郎が気にしてしまうだろうから。僕の手元には、ふわり、と淡い湯気がカップの上に昇っているはちみつレモン。淹れたばかりだ、というのが目に見て取れる。 (ちょうど来たところでよかった) タイミングの良さに感謝しつつ、僕はカップに手をつけた。じわり、と温もりに指先を緩ませていると「ならよかった」と安堵したように彼は表情を崩すと、着込んでいたダウンジャケットを脱ぎだした。カレンダーの上では春が来たというのに、どうも今年は、なかなか冬離れができないみたいで。三月に入って何度も雪が降ったし、未だに分厚いダウンやコートが手放せない。 (まぁ、そのうち、すぐに春が来るんだろうけどな---------あぁ、そうか。三郎と一緒に過ごす、最後の春か) いつまでも寒いのは多少寒さに強い僕でさえも嫌で。早く温かくならないかな、なんて思っていたけれど。いざ、春を思い起こした時に、離ればなれになってしまうことを今更に突きつけられるのは、たぶん、逃げているからだ。三郎と道が分かれることに。 「こっちこそ、ごめんね」 僕がそう謝ると、彼は「何で雷蔵が謝るんだ?」と小さく笑った。その笑みに含んでいる色から本当は「何で」という部分を三郎は知っているのだろう、と察する。 (何で、か……) 答えは単純。一言だけ。勉強の邪魔をしてしまったから。 三郎が急に勉強しだしたのはこの冬のことだった。ある日、突然、この喫茶店に呼び出されると『やりたいことが見つかったんだ』と目を輝かせた三郎が待っていた。その様子がそれまでとはあまりに違って、正直、戸惑った。-------------いつも彼は、どこか遠くにいたから。 僕の三郎のイメージは、まるでガラスの檻のように見えない何かで堅牢された世界の外側で自由に佇んでいる、ひとりで生きている、そんな感じだった。僕たちの棲まう枠で決められた世界にはまり込むことを何よりも嫌っていた。僕は逆で。小さい頃から、『みんなと同じ』とか『いつもと同じ』ということに安心を覚えた。枠にさえはまっていれば、護られるような気がしていた。 彼が僕に教えてくれた夢を叶えるためにこれからすることとして彼が挙げたのは、あれほど毛嫌いしていた『枠にはまる』ということで。三郎が、僕たちの世界に戻ってくることがどうしても信じられなくて。話を聞いたときは、真冬だというのに、一瞬、四月一日なんじゃないだろうか、って穿ちみたくらいだ。でも、それは冗談でも嘘でも何でもなくて。その『やりたいこと』に突き進む三郎は本気だった。 (三郎の生き方が羨ましかったから、本当にびっくりしたよね) 自由の中で生きる三郎の生き様が誇りでもあり、そして、一抹の淋しさもあった。ぽつん、と気が付けば灯っている一番星みたいに、ふ、とした瞬間に気づく淋しさは、きっと、僕は三郎みたいに生きれない、と知っているからだろう。----------そうして、心のどこかで、三郎と僕は一緒には生きれない、そんな昏い考えをしている自分がいた。 (だから、喜ぶべきことなんだろうな……同じ世界で生きていくことができるかもしれないのだから) そう喜ぶべきことなのだ。彼が生きている世界は自分とは違うから、一緒には生きられない、そう思い込んでいただけに、こうやって一緒に生きていくことができるかもしれない、という希望が差し込んだのには喜ぶべきことなんだろう。たとえ、僕と会う時間が減ったとしても。ひとり、という世界の向こう側から彼を引き戻したのが僕じゃなかったとしても……。 (あぁ、何考えてるんだろう) 溶けきれなくてべったりとカップの底にへばりついたはちみつレモンの残骸みたいに、一度、ネガティブな方向に沈殿していくと、その思考から離れられなくなって、ずぶずぶと、呑み込まれ溺れていきそうになる。今もそうで。どんどんと落ち込んでいった、その瞬間、 「気にすることないさ、私も雷蔵に会いたかったから」 凜、と声が響いた。僕をすくいあげたのは、三郎のさらりとした一言だった。たぶん、何気なく三郎は口にしたんだろう。けど、その言葉がどれだけ僕を救ってくれたのか、メニューを見ることもなく、さっと手を挙げて店員を呼んだ三郎はきっと知らない。 「いらっしゃいませ」 三郎の合図に気づいた店員は、すぐさま、銀色のお盆を片手に、にこやかな笑みを浮かべながら近づいて来た。新たなおしぼりと水を彼の前に置くと、伝票をエプロンのポケットから取り出した。ご注文を、という雰囲気になる。 「あ、コーヒーをホットで一つ。あ、雷蔵は、まだいいか?」 「うん、今あるので平気」 振り向きざまに聞いてくる彼に、目の前にあるカップを包み込んだ。耐熱ガラスでできたカップは、ほのかに黄色が透けた所と湯気で煙って見えない所の二層になっていた。彼が店に入ってきた時にちょうど運ばれてきたばかりで、カップを包む指先から温もりがしみこんでくる。 「コーヒー、ホット、おひとつで」 「あ、はい」 復唱した店員は軽く一礼すると、僕たちの元を離れていった。久しぶりすぎて、何を話せばいいのか分からなかった。下手なことを喋って気まずい空気になったら、と思うと怖くて。何か無難な話題を、と会話の糸口を一瞬、探したのは、僕だけだろうか。 「雷蔵は、ハツミツレモン、好きだな」 店員が去った後に僅かに空隙を感じたような気もしたけれど、けれど、けど、すぐに三郎が話しかけてくれて、石化した唇は魔法が解けたようで。すぐに、するすると、言葉が出てきた。 「冬場はね。温かいし、喉の調子がよい気がするんだよね」 「そっか」 せっかく、三郎が話しかけてくれたんだ。沈黙から脱却するチャンスだ、と、以前もしたことのあるような他愛のない会話を紡ごうとしたけれど、その先の言葉が見つからなくて、僕ははちみつレモンを口にした。舌の先を尖っていない柔らかなレモンの酸味が転がっていく。その後に、じんわりとした甘さが胸の奥に広がった。 (いや、会話の糸口が見つからないんじゃない、な) 本当は言いたいことがあった。 (三郎は、覚えているだろうか) 僕がハニーレモンを好むのは、喉にいいから、それだけじゃない。その柔らかな色合いの中に、三郎との温かな思い出が大切に大切に閉じこめられているのだ。--------------優しい温度のそれは、三郎に似ている。だから好きなのだ、って。 (けど、言えない) それを言ったら、三郎を雁字搦めにしてしまいそうだった。重たい、って三郎に思われたくない。僕自身、束縛なんてしたくない。三郎には背後を気にしてもらいたくない。もし、その言葉を告げたら枠の中に三郎を縛り付けてしまいそうで。強引に別の言葉を引き出して、押し込む。 「そういえば、昨日ね……」 コーヒーがくるのを待ちながら、他愛のないおしゃべりをする。テレビのこと、この前買い物に行った時に見たもの、家族の話。くるくると、移り変わる話題にも、三郎は楽しそうに相槌を打ってくれる。学校のことも話したけど、無意識にも意識的にも、進路の話題を避ける。 「そういえば、最近、勉強は、どう?」 けど、いつまでも、そうしているわけにもいかない。はちみつレモンを一口飲んで、僕からそのことを話題にのぼらした。早く、三郎のコーヒーこないかなぁ、話が中断しないかなぁ、と心の中では勝手なことを希いながら。 「まぁまぁ、だな。この前さ模試があったんだが、かなりいいところだったな」 彼の話を、カップをもてあそびながら聞く。カップを回すと渦ができて、底に澱んでいるレモンの皮が浮かび上がる。口をカップに近づけると、柑橘のすっきりとした香りが湯気で立ち昇ってきた。 「そうなの? よかったね!」 「まぁ、まだぜんぜん足りねぇけどな」 「でも、すごいよね。半年でそれだけ伸びるんだし」 そんな言葉を紡ぐ唇は、かすれて痛くて、白々しさを覚えた。 (なんで、僕は素直に三郎を応援できないんだろう) 理由なんて分かってる。分かりすぎるくらい、分かっている。ずっと見ないふりして、ここまでやってきてしまったことも、また。------そのことを思う度に、搾り取られた心がひどく軋む。 「おまたせしました」 にこやかな声を響いた。話題が途切れて、ほ、っとしながら、僕は店員が三郎の前にコーヒーを置くのを見遣った。黒彩の水面は揺れて映りこんだ景色が歪んで見える。とろり、とした芳醇な匂いが広がった。 「けど、まだまだ、足りないな」 「足りないって、あんなにがんばってるのに?」 前だったら、出たらすぐにコーヒーに口を付けていた。けど、三郎は、目の前に置かれたカップに手も付けず、勉強のことを話し続けている。周囲の話し声が、波紋みたいに重なり合ってぶつかり合って融和されていく。僕たちの会話もそれに埋もれていってしまうような気がした。自分の声が、自分のじゃないみたい。三郎の声が、遠い。 「まぁ、やりたいことだからあきらめる気はないけど」 目の輝きが違う。僕と話していても、僕を通り越している。ずっとずっと遠いところを見据えている眼差し。ぽつり、と淋しさが胸に灯った。それは夜明けに消えていく星みたいなものだった。確かに存在はしているんだけど、明るいときは隠されていて。こうやって、ふと冥んだ瞬間に、顔を覗かせる。 (三郎が夢なんてもたなければよかったのに) 思っちゃいけない、と分っていても、押し殺すことができない。カップの底の埋もれたレモンの皮みたいに、ふと濁ってしまった折には、必ず浮かび上がる感情。けど、そんなこと微塵も思っていないよ、そんな感情知らないよ、と表面上は隠して、三郎と話している。そんな自分が、僕は嫌いだ。コーヒーと対極的なはちみつレモンの鮮やかさが、目に染みた。 「けど、まぁ、3月が楽し、」 ふぁぁぁ猫の鳴き声みたいなあくびで、彼の言葉が途切れた。上体が大きく揺れて、三郎の髪が、冬の柔らかい日差しに透けた。レモンみたいな明るい金と、蜂蜜みたいな艶やかな部分が、キラキラ、光って混ざり合う。 「あんまり、無理しないでよ」 「無理しないと間に合わないからな」 「じゃぁ、無理はいいけど、無茶はしちゃだめ」 「どう違うんだ? 一緒じゃ、…ないか」 また出かけたあくびをかみ殺そうとしたのか、彼は口をもごもごさせた。彼が発した言葉は、ふわふわと定まることなく溶けていく。骨ばった指が、睫毛に残った涙を拭いとった。 「ごめんね」 再びの謝罪に、こっちの意図を分かっていながら彼は「どうしたんだ? 唐突に」とすっとぼけた。さっきは流したところだったけど、彼がまた欠伸をいくつか飲もうとしたのが見て取れて、今度はきちんと想いを言葉にした。 「今日、呼び出しちゃって。あんまり寝てないんじゃないの?」 「いや。何か、今日は、すげぇ温かいからな」 そう言いながらも、あくびを連発する彼に胸が痛くなる。 奥が彼を無理をさせているのは明白だった。言いようのない感情に、ぐっと唇を噛み締めた。ぴりっと口の端に痛みが走った。 「そうだね、っ、」 「雷蔵、どうした?」 「あー、唇噛んだかも。ちょっと、リップ塗ってくるね」 席を離れる口実ができて、ちょっとほっとしながら、僕は逃げるように立ち上がった。傍らに置いてあった鞄をぎゅっと握りしめて、足早に化粧室へ向かう。ドアに身を押し込める瞬間、彼の方へと視線を投げた。机に残されたはつみつレモンの湯気は、いつの間にか、消えていた。 はにぃれもん
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