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三郎を思うとき、いつも、はちみつレモンを飲んだ時の気分になる。温かくて、甘くって---------ほんの少しだけ、酸っぱい。たぶん、初めてお互いのことを知り合った日の印象が強いからなんだろうけど。

「風邪か?」

喉に張り付いているかさつきを追い出そうと、道端で咳き込んでいると、そんな声がかかった。何か聞いたことのある声だなぁ、と思いつつ顔を上げると、見知った顔があった。綺麗に整えられた両眉が潜まって、眉間に深い亀裂が走っている。

(隣のクラスの鉢屋くん、だよね?)

知ってはいるけれど、話したことはない。それでも、ぱっと名字が出てきたのは、彼が有名人だからだ。それなりの進学校でもあるこの学校は全体的に暗い。元々の制服の色合いの問題じゃないだろう。たとえば、髪の色なんかも染めている人なんて学年に数人で。その数人の中にいるのが鉢屋くんだった。派手な格好をしている彼は目立っていた。それだけじゃない。鉢屋くんはいつもひとりでいて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。------------まるで、そこだけで世界が完結しているようだった。普段だったら、何となく、僕も避けてしまうところだったのかも知れない。けれど、鈍い頭痛が押し寄せてきて、それ以外のことを考えることができなかった。

「かなぁ?」
「かなぁ、って、すげぇ辛そうだけど」
「うーん」

喉の辺りがトゲトゲと痛み、嫌な熱を帯びているのが分かった。何かを話すたびに、言葉が痰と絡んで気持ち悪くて。彼と会話しつつも、頭がぼんやりとしている。寒気がさっきから止まらない。

「ちょっと待ってろ」

そう言うなり、学生鞄を僕に押し付けて。車の流れを縫うようにして避け、道路の反対側へと渡った。飛び石を渡るかのように軽やかな彼の身のこなしは、僕の目をひきつけた。目の奥が熱くて、眼前の景色はやけに鮮やかな色彩が躍動していた。

「ん、これ」

冷えた指先に温もりが灯る。ゆるゆると溶けていく凍え。呆然としていた僕は、ペットボトルが握らされていた。黄色いラベルには、やけにポップな字体で『はちみつレモン』と書かれている。これ、と僕が問いかけると、彼はどことなく照れたように目尻の裾を赤らめつつ、笑った。

「風邪には、はちみつレモンがいいって聞いたから」
「ありがとう。……あ、お金お金」

 財布を捜そうと鞄を開けようとする手を、止められた。

「早く治るといいな」

その時の彼の笑顔は、胸に刻んで大事に取っておきたい、そう思わせるものだった。温かくて、優しくて。それ以来、はちみつレモンは、彼の、彼の笑顔の象徴となった。僕にとって、はちみつレモンは元気の源だった。---------------付き合う前も、付き合いだしてからも。

***

鏡にうつる自分は、バカみたいに泣き出しそうな顔をしていた。ポーチの中からリップクリームを取り出し傷口を塗りこめる。唇に触れたメンソールは、空気で痺れた。このまま、戻らずに、店を出てしまおうか、なんて逃げようとする自分を叱咤し、零れ落ちそうな温かい記憶を抱え込みながら、僕は化粧室から出た。
席に戻り、口から出かけた「ごめん、お待たせ」という言葉を飲み込む。彼は、こくりこくり、と舟をこいでいたから。音を立てないでイスを引いて、滑り込むように座る。

(やっぱり、無茶してるんだなぁ)

あんなに毛嫌いしていた世界に戻ってきたのは、全部、夢のため。それなのに、こうやって、僕との時間を作ってくれる。メールや電話をすれば、必ず返してくれる。淋しさに駆られてつい「会いたい」って言えば、来てくれる。僕のわがままに、いつも付き合ってくれる。それなのに、僕は、僕は--------。

「応援すら、できない、なんてね」

三郎は体を小さくして腕で顔を支えて、とても窮屈そうな体勢だった。けど、睫毛が光に滲んでいて、頬はかすかに赤味が差していて。とても穏やかな眠りだった。その寝顔に「ごめん、ね」と零せば、ぽつり、と淋しさが灯る。ぽつり、ぽつり、と哀しさが灯る。ぽつり、ぽつり、ぽつり、と不甲斐なさが灯る。

(僕は、三郎がくれる幸せを、ちゃんと返せてるのかな)

冷めてしまったはちみつレモンを流し込む。残ったレモンの皮を噛み締めると、苦味が舌を刺した。ドロドロに底に滞ったハチミツは砂糖の塊みたいに、喉を通らない。へばりついてる。目の奥がじんじんと痺れて熱くなって、目の前の三郎の輪郭が溶け出して、僕は泣いた。

「ごめん、ね」

ふと、居眠りした時にケットを肩にかけられたような温かさが僕を包み込んだ。ガラス張りの店内は、外から柔らかい自然の光が降り注いでいた。空は冬のような固い透明感はなく、ぼんやりとした青と白が曖昧に溶け込んでいた。冬の間、灰色の雲に押し込められて眠っていた太陽は、薄雲を突き破る力を取り戻していた。---------------もう春なんだ、と知らされる。
涙を拭って手を小さく挙げて、「すみません、」と店員を呼ぶ。なくなったカップを軽く掲げて、同じものを、と小声で告げた。伝票に追加を記入した店員は、すっかりと冷たくなった私のカップをお盆に載せた。---------------三郎が目を醒ましたら、「さよなら」を言おう。新しい季節を、歩き出すために。その方が、三郎にとってもいいはずだ。

(僕のことを気にせずゆっくり勉強もできるだろうし)

別れを決めて、僕は彼の目覚めを待った。三杯目のはちみつレモンが半分くらいになった頃、ふぁぁ、とひときわ大きな欠伸をした三郎が、閉ざしていた瞼を開けた。一瞬、どこにいるのか分からなかったのだろう、ば、っと上体を上げた三郎は体ごと大きく回旋し、辺りを窺った。何度か素通りした僕と目が合うと「悪ぃ、寝てたな」と焦ったように、また辺りをきょろきょろと見回した彼に、僕はさよならを切り出した。

「三郎、別れよう」

 急に言い出したら驚くだろう、そう踏んでいたのに、彼はしんと静まりかえった目差しを僕に向けた。それから、ゆっくりと「そうだよな、なかなか会えないし、会ってもこんなんじゃな」と呟いた。くしゃり、と歪んだ面持ち。ぎゅ、っと潜んだ眉。痛みに耐えるように噛みしめた唇。今にも泣き出しそうな表情。こんな表情をさせるつもりはなかった。-------------ただ、倖せになってほしくて、言っただけなのに。ざらり、とした苦みが蘇る。

「私のせいで、ずいぶんと辛い思いをさせてしまったな」

すまない、と、三郎が謝った。そうして気づかされる。はちみつレモンみたいな優しくて温かさに、最後まで甘えようとしていることに。

(このままじゃ、駄目だ)

三郎にもらったたくさんの倖せを返そう、そう思ったのに。なのに、三郎を最後の最後まで辛い思いをさせてしまう。三郎のせいじゃない、僕自身の脆弱さだ、そう伝えたくて、「違う」そう叫んでいた。

「違うんだ……三郎が夢に向かって頑張ってるのに、なのに、それを応援できない自分が嫌で……あと、三郎を変えたのが自分じゃないのも悔しくて……ごめん、何言ってるか、よく分からないね。けど、三郎は悪くない。僕のわがままなんだ……ごめん、いつもわがままばっかり言っててごめんね。最後の最後までわがままを言って、本当にごめん、ね……いつも、わがままを聞いてくれて、本当にありがとう。でも、これで最後だから。最後のわがままだから」

 三郎の顔が見ていられなくて、僕は手元にある冷め切ったはちみつレモンを見遣った。すっかりさめきったそれは、透いた表面は陽射しのような温かみがあって、どろりとした残滓が底に残っているのが、中がはっきりと見えて分かった。僕にできることは、彼が別れを承諾するのを、僕のわがままが聞き通るのを待つ、ただ、それだけだった。

「あのさ、雷蔵。雷蔵のわがままは、分かった」
「うん」
「私のわがままも聞いてくれるか?」

うん、と僕は頭を縦に振った。今までたくさんの倖せをくれた三郎のためにできることがあるなら、三郎の倖せのためなら、どんなことだってやれる。----------だって、三郎のことが好きだから。好きな人には、笑っていてほしいし、倖せになってほしい。それが、僕の最後のわがままだった。

「雷蔵と一緒にいたい。それが、私のわがままだ」

僕の指先をはちみつレモンとは違った温かさが包み込んだ。



はにぃれもん