「いつも、何読んでるんですか?」

慣れない言葉遣いに喉で引っかかりそうになりつつ、俺はマグカップを彼のテーブルに置きながら訊ねた。黒が揺れた。淹れたてのコーヒーじゃなく、彼の双眸の黒が。すぐに読めるようにだろう、指を栞代わりに閉じかけられた本の表紙に刻まれているのは、俺の知らねぇ言語で。綴りからして英語じゃないのは分かったが、それ以上はどこの言葉なのかさっぱりだった。

(けど、いつも、こんな感じの字面だもんな)

自慢じゃねぇが英語ですら碌に読めねぇ俺からすればある種の勘でしかなかったが、彼が携えてくる本はいつも同じ国の言葉で書かれているような気がしたのだ。どこの国の話を読んでいるのだろう、というのが気になって訊ねたのだが、

「あ……いつも長居してすみません」

彼は申し訳なさそうに目を伏せた。俺のバイト先であるこのカフェは図書館に併設しているために、多くの客は本を片手に来ることが多い。そのために、ある程度の長居は黙認しているのだが、一応、『長時間の席の確保はご遠慮下さい』というお願いの文も掲示しているわけで。その中で、俺のバイト時間の半分はその姿を目にする(まぁ、だから、気になって話しかけたのだが)くらいに彼はよくこの店にいるものだから、俺に注意された、と彼は勘違いしたのだろう、そう謝られた。頬に落ちた影。そんな表情をさせたいわけじゃねぇ、と慌てて手を振って否定する。

「そういう意味じゃなくて、単に何読んでるんだろうなーって思ってただけなんで。こっちこそ、なんか、変なこと聞いちまって、すんません」
「居心地がよくて落ち着いて読めるから、つい。すみません」
「や、本当に、居心地がいいって言ってもらえるのは、すげぇ嬉しいんで。なんで、謝らないでください」

すると、ふ、っと安堵したように唇を緩めた彼は、それから静かに笑った。

「いつも美味しいコーヒーをありがとうございます」

***

「兵助」

俺が呼びかけると潜まっていた眉によってできていた皺がぐにゃりと溶けた。真向けられていた視線が本から上がり「竹谷」と応じた兵助は、元々付いていた栞紐を真ん中に挟み、ぱたり、と本を閉じた。話しかけると、指先ではなく栞紐が使うようになったのは、俺の変な敬語がなくなって、彼の名前を知った頃からだ。カップを置くときにする一言二言のやり取りだけだった会話が少しずつ長くなり、いつしか、読書を中断して話に応じてくれるようになっていた。

「今日はずいぶん温かいな」
「だな。まぁ、まだホットの方が出るけど」

空いている席の背もたれに掛けられていたコートは分厚い真冬ものから薄手のものに変わっていた。そうなのか、と感心したように頷いた兵助は、ゆったりと取られた肘掛けに読みかけの本を完全に閉ざして置いた。相変わらず俺の知らねぇ言語が表紙に綴られている。

(いや、知らねぇ、というのは語弊があるな)

これがフランス語だ、ってことは知ってるのだから。会話を重ねる内に、俺はたくさんのことを知った。彼の名前が兵助だってこととか、俺と同じ19歳だってこととか、この図書館は受験勉強時代によく通ったとか、元々本が好きなのだが最近読んでいるのはフランス文学ばかりで、しかも原書で読んでいるのだとか-------------それから、どうしてフランス文学ばかりを読んでいるのか、とか。

(最後のは言葉の端々から俺が推測したことだけど……けど、合ってるだろうな)

兵助の大切なやつは、今、フランスにいる。だから、彼はフランス文学ばかりを読んでいるのだ。-------------本を読めば、その世界で恋人に会えるのだろう。いつも愛しそうに、そして、辛そうに本を読んでいる兵助を俺はずっと見てきた。

「ん?」
「どうした?」

大学が春休みになって、一日でも多く兵助に会いたくて、俺は毎日のようにバイトを入れた。俺の予想はビンゴで。兵助の方も休みらしく、ほぼ毎日カフェに来ていた。併設の図書館でフランス語で書かれた本を借りてくる兵助と会うのが日課になりつつあった。そうやって顔を付き合わせるようになって驚いたことの一つが、その読書スピードだった。いつも違う本を携えている。けど、カフェにいる時に、ページをすげぇ速さで捲っているとか、そんな印象はない。

(家でも、ずっと読んでるんだろうな……)

このカフェだけでなく、きっと、起きている間中、ずっと彼はフランス語で書かれた本を読んでいるのだろう。そうじゃなきゃ、毎日、新しい本を借りれるはずがねぇ。電話一つ、もしかしたらメール一つすら寄越してねぇ恋人からの連絡を待ちながら、本を片手に眠れぬ夜を過ごしてるんだろう。その光景を、大切な人がいる国の話をひとりで読みながら夜を越えている兵助を想像する度に、古くなったコーヒーを飲み下した気分になる。

(俺なら、あんな表情を、辛い思いを、絶対ぇさせねぇのにな)

兵助の恋人がどんなヤツか俺は全く知らねぇ。-----------けど、少なくとも、兵助から笑顔を奪ってるのはそいつなんだろう。その証拠が、毎日変わる、フランス語の本だった。だが、今日はこの前と同じような色合いの本だった。それが引っかかって、訊ねる。

「それってさー、昨日と同じ本?」
「いや、新しいやつ。何で?」

ちらりと視線を本に落とした兵助は怪訝そうな面持ちを浮かべてすぐに俺を見遣った。兵助いつも見ているから字面の感じだけは覚えたけれど、実際、フランス語が読めるようになった訳じゃねぇ。タイトルを見たところで、前と同じ本なのか、それとも、別の物なのかはわからなかった。せいぜい本の装丁で判断しているだけで、「昨日も、そんな表紙の色の読んでたなって思って。あと、サイズとか、そんなんじゃなかったっけ?」と聞けば、あぁ、と兵助は理解したように頷いた。

「今、文学全集、読んでるからな。表紙とか大きさは一緒なんだ」
「なるほどね。面白い?」
「有名どころを集めたやつだから、それなりにな。まぁ、一回、読んだことあるものばっかりだけど」
「読んだことあるのに、また読むのか?」

正直、本嫌いな俺からすれば、一回読めば、もう十分だ。内容が大幅に変わるわけでもねぇのに、もう一回読み直すっていう兵助の行動が理解できずに疑問を挙げた。すると、ふ、と彼に落ちていた翳りが色濃くなった。

「あと、残ってるのは、文学全集だけだからな」
「……そっか……」

今更ながらに気づく。いつか終わりがくることに。こうやって毎日、図書館に通っていれば、すぐに読む本なんて尽きてしまうということに。いくらこの辺りの図書館の中では一番蔵書が充実しているとはいえ、原書というものはあまり扱われていない。ましてや英語じゃなくフランス語となれば、その数にも限りがある。

(読む本がなくなったら、そりゃ、ここには来ねぇよな。普通)

落ち着いて本が読める、という理由で兵助はこのカフェに来ているのだ。元来の目的である本がなくなれば、ここに来る理由なんてねぇ。いつしか、こうやって兵助と話すのが当たり前になってたけど、それは泡沫よりも儚い幻影だったのだ、と思い知らされる。この風景から兵助がいなくなる。それが今日なのか、明日なのか、一週間後なのか、それすら俺は知らなかった。

(……つうか、何一つ、知らねぇじゃん)

たくさん会話を重ねて、すげぇ親しくなった気でいたけれど、俺が知っているのは僅かなことだけだった。彼の名前が兵助だってこととか、俺と同じ19歳だってこととか、この図書館は受験勉強時代によく通ったとか、元々本が好きなのだが最近読んでいるのはフランス文学ばかりで、しかも原書で読んでいるのだとか。それから、どうしてフランス文学ばかりを読んでいるのか、とか。-------------けど、それだけだ。それ以外のことを、何も知らねぇ。

「それ、何?」

沈み込んでいきそうになる思考を、兵助の言葉が掬い上げた。

「あぁ、えっと、これ、新作なんだけどよ、飲んでくれねぇか?」
「いいのか?」
「おぅ。んで、感想聞かせてくれると助かるんだけど」
「何か、色がピンクっぽいな」
「あー、桜がモチーフだからな」

フレーバー系の駄目だっけ、と訊ねれば「いや、平気だ」と兵助は首を横に振った。ふわふわと上に盛られたミルクの泡は兵助が指摘した通りほんのりと薄紅に色づいている。来週から店で出す予定の桜フレーバーのラテだった。何でもいいから話しのタネに、と季節商品の試飲を願い出たのがきっかけで親しくはなったのだ。

「ん、ありがとな」

手を伸ばしてきた兵助に俺は直接カップを渡した。普通の客だったら絶対にしない行為。そうまでしても兵助と触れたかった。ここにいるのは恋人じゃなくて、俺なんだ、って、少しでも気づいてもらいたくて。馬鹿みたいだ、って自分でも分かってるけど、けど、僅かでも可能性があるなら、その可能性に賭けたかった。けど、

「そっか、桜か。もうそんな季節なんだな……あっちでも、桜って咲くのかな」

ぽつん、と呟いた彼は目を細めて淡いピンクに染まったマグカップを見つめていた。けど、彼が見ているのは、きっと俺が淹れたラテではなく、憧憬だろう。もしくは思い出。ずっと遠い場所にいる恋人との、思い出。煮立ってしまったコーヒーを飲んでしまったかのような苦みが喉を下って、俺は唇を噛みしめた。兵助に辛そうな表情をさせるのが遠くにいる恋人ならば、倖せな微笑みを浮かべさせるのもまた異国の地にいる恋人なのだろう。

(何で、あんな表情をさせるのが、俺じゃねぇんだろうな)

頬を桜色に染めて愛おしそうに微笑む兵助の倖せを、俺はどうしても祈れなかった。




また春を愛せる人になりたい

title by カカリア