※ノルウェイの森にインスピ



かさかさと喉に引っかかるような空気がしんどくて、俺は目が覚めた。体中の水分を出し切ってしまったみたいだった。どろりとした血が底面に沈殿しているみたいで、少し身じろぎをしただけで、凝固しきれていない塊が動いたような感じがした。気だるい。

(あぁ、また泣いてしまったのか)

ひりひりと痛む肺腑、しょっぱさの残滓。眼球の底辺は熱が燻っている。頬に貼り付いてしまった髪を退けようとすれば、濡れて固まってしまったのか、房になってしまっていた。全てが干しきってしまって取り入れることのできない息が苦しい。

「起きたのか?」

その声に、自分がどこにいるのかを、ようやく思い出した。音を閉じこめるための穴が空いている天井、色褪せたタペストリー、変な方向に蔦を伸ばしている観葉植物。壁に立て掛けられたギター。三郎の部屋、だ。-----------------ぐるりと見回して、気が付いた。彼がいないことに。

「ハチは?」

煤けたような目を俺に向けていた三郎は、二、三度、瞬きを繰り返した。ふ、と彼の肩の力が抜けたかと思うと、ブラインドが閉められていた窓の方に視線を遣って、ぼそりと口にした。「帰っていったよ、ついさっき」と。ぱ、っと筋肉のスプリングが弾けた。三郎の言葉を聞いた途端、俺は飛び起きていた。全身がバネになったみたいだった。

(なのに、どうして……)

その次の一歩が、踏み出せなかった。ばさ、っと床に落ちた毛布が俺の足を絡め取った。けど、そのせいじゃない。蹴り飛ばしていくことぐらい、簡単だった。蹴り飛ばして、走って、追いかけていけばよかったのだ。それなのに、どうしてだか、俺の足は毛布に取られて動けなくなってしまった。

「行かないのか?」

扉側に顎をしゃくる三郎に俺は、ただ頷くことしかできなかった。三郎は、そうか、と呟くと、俺の傍までやって来た。じ、っと覗き込まれる。泣き出しそうな面持ちをしているのは三郎だろうか、それとも、彼の目に映し出された俺なんだろうか。その両方な気もしたし、違うような気もした。

「なぁ、兵助。お前は倖せになっていいんだぞ」

俺から視線を外した三郎は、床でぐちゃぐちゃになっている毛布を拾い上げた。絡まっていた温もりが取れる。自由だ。このまま駆けだして、ハチを追いかければいい。そう三郎の目は言ってくれているのに------------------立ち止まっているのは俺の意志なんだろうか。

「……三郎は?」

俺の問いかけに、三郎はそっと目を伏せた。透いた網膜を翳が閉じこめる。見えなくなった感情は捉えることができない。いつもそうだ。肝心の所を三郎は押し隠してしまう。そうやって誤魔化そうとする。いつも。けど、今日は違った。

「私は倖せになる資格なんて、ないさ」

三郎の向こうに、琥珀みたいに深い色合いの、ぴかりと磨かれたギターが見えた。もう聞こえないはずの、あのメロディが俺の頭の中をリフレインしている。あの旋律はいつだって哭いているようにしか聞こえなかった。風の音。------------あの人が愛した曲。ノルウェイの森。

「じゃぁ、同じだろ。俺も倖せになる資格はない」
「違う」

痛みを滲ませるように、ぐ、っと歪めた三郎は、けれど、はっきりと俺の言葉を遮った。見遣った俺に、やつはもう一度「違う」と躙るように吐き出した。己を責め立てるように「私とお前は違うよ」と続ける。震える全身に声が途切れる。握られた三郎の拳は、力で真っ赤になっていた。その手が不意に俺の手を掴んだ。

「……殴れよ」
「っ」

掌がびりびりと揺れる。叫ぶ三郎の頬に俺の手はあった。いや、三郎が俺の手を掴んで、彼の頬に当てているのだ。ぎゅ、っと拳を握れば、それでいい、とやつは頷いた。俺を睨みつけるような目は赤くなっていた。駆けつけたときも、葬式の時も、その後も、一度だって泣かなかったやつの、それが涙なのだ、と俺は知っていた。

「私は罪を犯したんだ」
「罪?」

三郎の頬に当たっている拳は俺のものじゃないみたいに凍り付いていた。なのに、馬鹿みたいに熱かった。触れたところから火傷してるんじゃないかってくらい、じくじくと痛んだ。真っ赤な目が訴える。殴れ、と。それでも動けない俺に、三郎が煽る。言葉を焚きつける。

「あの時、知っていた。あいつが死のうとしてるのを。それなのに、止めなかった」

(そうだ、あの時、もし三郎があの人を止めてくれたら)

ずっと考えていた。もしも。俺が嫌いな、仮定の話。もしあの日に雪が降っていなければ、もしあの日に俺が電話に気づいていれば、もし……。繰り返すいくつもの『もし』は、リフレインするあの曲と同じだ。もう来ることがない過去だからこそ、考えれるいくつもの可能性。けど、思わずにはいられない。もし、と。そうすれば、きっと俺は、まだあの人の隣で笑っていただろう。死に突き落とされるよりも、ずっとずっと冥く淋しい場所なんて、知らずにすんだ。------------------ハチと出逢うこともなかった。

「俺は、あいつを止めることができた。けど、しなかった……愛する人を失う痛みを知っていたのに。罪を犯せば罰が必要だ。倖せになる資格なんてない。そうだろ、兵助」

違うか、と問いかけられて、俺は頷くことができなかった。黙りこくった俺を見た三郎は「私を殴らないなら、さっさとハチを追いかけろ」と自嘲するように唇を歪めた。それから「お前は倖せになるべきだ」と手を振って、追い払う素振りを見せる。けれど、俺の足はどうやっても動こうとはしなかった。動けなかった。いや、動けるはずがなかった。

「罪を犯したのなら、倖せになる資格がないのは、俺も同じだ」

は、っと充血した三郎の目が見開き、一瞬、俺の手首を握る力が緩んだ。その瞬間を見逃さずに振り解く。勢いのままに落ちてきた拳は俺の体側を直撃し、ぶつかった反動でまた跳ね上がった。そうして重力で再び戻ってきたそれが、だらん、と垂れ下がる頃、三郎が嗤った。

「お前が何の罪を犯したって言うんだ?」

三郎はそうは言うけれど、俺にも数え切れないほどの罪があった。大きいのも、小さいのも。本当に数え切れないほどに。けど、一番の罪がある。あの人が、死を選ぶまで、俺は何一つ気づいていなかったのだ。あの人が死に疾らせたものを俺は気づけなかった。

(いや、今も理由を知らない)

なぜ、どうして。ぐるぐると巡り続ける感情。理由が分からない。もう聞くこともできない。二度と分かることはないその理由。あの人が死を選ぶまで、あの人がどれだけ苦しみ悩んでいたのか、俺は一切知らなかった。隣にいたはずなのに。それが最大の罪だった。---------------あの夜、ハチの手を取ってしまうまで。ハチと寝てしまうまで。

「……あの時、ハチの手を振り払うべきだった」
「兵助……」

ハチは俺に選択権をくれただけだった。「寝ないか?」そう問われて、手を伸ばしたのは俺の方だった。欲しかった。熱が。全部、全部、塗り込めてしまいたかった。記憶を。永久凍土みたいに、あの人とのことを氷漬けにしてもう二度と取り出せない所に、遠いところに遣ってしまいたかった。

(だから、俺はハチを利用したんだ)

そうとハチも分かっていたはずだ。なのに、ハチの手は、あまりに優しかった。まるで壊れ物を扱うかのような、そっと、俺に触れた。俺が凍り付かせようとしているものをゆるゆると溶かしてしまうような、そんな抱き方をした。それで俺はハチに頼んだのだ。「酷くしてくれ」と。ハチは少しだけ困ったように顔を歪め、それから俺を深く抱き寄せると深く穿った。全てを突き崩すような、嵐のようなセックス。体がバラバラになってしまえばいい、そう本気で思った。この熱に灼き尽くされてしまえばいい、と。

(なのに、それなのに、)

白が弾け飛ぶ瞬間、藻掻くように俺は手を振り回した。がっ、っと何かを引っかいた。それがハチの背中だと気づいたのは、全部の息が吐き出されたようにへしゃげた胸の中に青臭さとは別に僅かだが血の臭いが入り込んできてからだ。実感した。--------------あぁ、俺もハチのように生きてるんだ、って。

(それだけじゃない。生きたい、と願ってしまった)

ずっと考えていたことだった。あの人がいなくなってから、ずっと。あの人がいない世界なんて、生きている意味なんて、なかった。もう二度と知ることのできない理由を探し求めて生き彷徨うくらいなら、あの人に答えを聞きに逝きたかった。俺が生きていることが罪なのだ。さっさと罰を与えて欲しかった。与えられないなら、己が与えるだけだと思っていた。

(なのに、)

そっと「大丈夫だったか?」と俺の髪を撫でるハチの掌があまりに温かくて。あまりに優しくて。希ってしまった。-------------赦されたい、と。たとえ神様が赦してくれなくても、あの人に赦されなくても、それでもいい。俺は俺に赦されたい、生きたいと思う自分を赦してあげたい、そう願わずにはいられなかった。

(そんなこと、赦されるはずがないのに)

「いや、あの時じゃなくても、その後だって、何回だってチャンスはあったんだ。それなのに、放さなかった。放すことができなかった」

あの穏やかな声で名前を呼ばれるたびに。あの優しい眼差しで見られるたびに。あの温かな手で撫でられるたびに。惹かれていく自分がいた。何気ない日々の中で考えるのはハチのことばかりだった。今どこにいるのだろう、何をしてるのだろう、どんなことを考えているのだろう。あの人の声が、表情が、温もりが、分からなくなっていく。あの人が、どんどん塗り替えられていく。

(もしかしたら、ハチといれば俺は倖せになれるんじゃないかって思ってしまう)

けど、ふ、とした瞬間、あの曲がリフレインして、は、っと気づくのだ。あんなに怖かったのに、あの人の欠片が消えていくのを平然と受け入れている自分がいることに。そうして思い出す。あの人に、あの人を愛した曲に誓ったことを。もう二度と誰かを好きになったりしない、と。

(俺がグラグラ揺れているのを、ハチも、気づいていたはずだ)

ハチと体を重ねる時、ハチは泣きそうな顔をいつもしていた。甘い言葉を幾つも零して、俺の名を呼んで、そうして「倖せだ」と囁くのに-----------その表情は、ちっとも倖せそうじゃなかった。ぱらぱらと散ってくるのは汗じゃなくて、涙なんじゃないだろうか、そう思わずにはいられないほど、辛そうな面持ちをしていた。

「俺はハチを苦しめてしまう」

俺はハチに甘えて彼を引きずり込んでしまった。消えることのなく燃え続ける森。その中でも溶けることのない凍り付いた土。------------------ノルウェイの森に。ハチには相応しくない、陰鬱な場所に。俺が生きようとすればするほど、倖せを望もうとすればするほどハチを苦しめてしまう。

「俺といると、ハチは倖せになれないんだ」

そう吐き捨てると、それまで黙ってじっと俺の言葉に耳を傾けていた三郎が、ぼそりと呟いた。

「あいつのことは分かった。で、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前は、ハチといると倖せになれるのか?」

すすり泣くようなあのメロディが、また、俺の中で繰り返されていた。




10年後か5年前に会いたかった

title by opaque