「こんな、真夜中に歯磨き、ってことはなさそうだな」

壊れているチャイムはともかく、ノック1つなくずかずかと部屋に入ってきた男は、俺を一瞥するなり、そうやって皮肉めいた薄い唇を上げた。俺の手からは使い古しの歯磨きと、歯磨き粉の練りチューブがだらりと垂れ下がっている。三郎の登場がいきなりすぎて、隠すのも忘れてしまった。見られたんだ、仕方ない。あぁ、と相槌を打った俺の鼻孔を、すん、と歯磨き粉のミントの香りが通り抜けた。

「壁に空いた押しピンの跡を歯磨き粉で埋める、ってやつか」
「大学の寮の時もそうした」

部屋中を確かめるかのごとく回路しだした三郎に、俺も作業に戻る。カレンダーや壁時計、メモを止めておくコルクボードなどを押しピンを使って吊り下げていたのだが、それなりに重さもあったのか、ぽつ、ぽつと部屋の壁には穴があいてしまった。そんな穴を、歯磨き粉を練り込むことで隠してしまう。大学寮で学んだ唯一役に立つ知識だ。

(まぁ、管理人であるこいつにバレてるんだから、どうなるか分からないけど)

三郎はこのアパートの管理人だった。俺の真上の部屋の住人。俺たちは歳が同じだったためか、そんな大家と店子って関係には留まらなかった。友人じゃない。キスして、ハグして、タッチして-----------その先も。けど、少なくとも恋人、なんてヌガーのような甘ったるい関係でもなかった。セックスフレンド。その言葉が一番近い気もしたが、ぴたり、と当てはまらないのは、三郎とのことを考えるとやけに感傷的なってしまうのは、持て余した感情に最近気が付いたからだろう。

(って、何考えてるんだろうな、俺)

馬鹿馬鹿しい、と思考を追いやるために頭を被り振ると、いつの間にか視線が壁から俺の方に戻ってきたらしい三郎と目が合った。俺の行動を不審がるように「どうしたんだ?」と問われ「いや、なかなか、埋まらないからちょっと面倒になっただけだ」と誤魔化しておく。すると、三郎は小さく笑った。

「敷金を全額返してもらうために、か。せこいな」
「お前が、『綺麗にして返せ』って言ったんだろうが」

転勤が決まって、このアパートを出て行くと言ったとき、少しだけ期待した。三郎は引き留めてくれるんじゃないだろうか、と。けど、やつは、しばらく何の感情も灯さない目で俺の方を見つめ、それから「そうか」と言うだけだった。それだけ、と問い質したかったけど、俺の咽はへしゃげて、息を入れ替えするだけで精一杯だった。そのうちに、三郎は俺に背を向けてしまった。用件はそれだけだったのだが、俺の足はコンクリートに突っ込んで乾いてしまったかのように、床から離れなかった。どれくらい二人で沈黙を紡いだのだろうか、その糸を切ったのは三郎の方だった。「出ていくなら、家を綺麗にしてくれ」と。

(馬鹿だよな……分かっていたはずなのに)

ぽっかりと空いてしまった穴に過去を埋葬する。バラバラの方向に毛先が跳ね散っている歯ブラシを使って歯磨き粉をねじ込み、擦る。何度かやっているうちに、白い壁なのが幸いして、穴の跡は目立たなくなった。------------目立たなくなった、じゃない。まるで、最初からなかったみたいになってしまった。

「兵助、まだ、ここに穴、空いてる」
「俺じゃねぇよ、最初からだ」

ベッドが置いてあった上、窓枠から少し離れたところ。そこに、やや大きめの穴があった。他の穴は、遠くから見れば、真っ白な壁に塗り込められて分からないが、そこだけは、この位置からでも穴が空いているのが分かった。きっと、前の住人が、掛け時計か額か、とにかく釘を支えにして重たい物を掛けていたのだろう。俺が否定すると、三郎は首を横に軽く振った。

「違う、そっちじゃない。これだ」

三郎が指を差した先には、小さな小さな穴があった。言われなければ、じっとそこだけに注視しなければ、絶対に気づかないような、虚。

「ジェームスディーンだったっけ?」
「違う。ロックハドソンだ」

即座に否定する。三郎がその穴の存在を知っていたのは、何度もやつがこの部屋に入ったことがあって、この壁にポスターを貼ってあったのを知っているからだ。三郎とセックスをしていると、やつの肩越しにロックハドソンが見えて、何かシュールだった。そのポスターは今頃、ダストシュートの真下にあるボックスの中にあるはずだ。大学の時に気に入って買ったそれを、このアパートでもずっと飾っていたのだが、新居に持っていく気にはなれなかった。ロックハドソンに見下ろされる度に、三郎のことを思い出してしまうだろうから。

「全然、壁、焼けてねぇのな」

そこに近づくと、す、っと三郎が真っ白の壁を撫でた。それから「普通、ポスター焼け起こして、壁塗り替えるのに」と、ぼそり、と呟く。三郎の言うとおり、壁にはそんな痕跡は一つもなかった。境界すらない白に「日中、日が当たらないような場所を選んで貼ったから」と努力を告げると、何で、と円くした三郎の目が訊ねてきた。

「だって、お前と関わりたくなかったし」
「何だそれ?」
「あぁ。すげぇ、むちゃくちゃな管理人だと思ってたからな。だから、出ていくときに文句言われて面倒なことにならないように、って、」
「なんだそれ」

小さく肩を震わせて笑う三郎を、俺は目に灼きつけ、そっと瞼を閉じた。眩い光で感光してしまわないように。想いがあふれ出ないように。こんな風に三郎を好きになるとは、思ってもいなかった。第一印象は、それくらい、最悪だったのだ。



***

(くそっ)

この場所に引っ越してきて、仕事が始まって10日。初めて、日付が変わる前に帰ることができた。だが、気分良くいられたのも、シャワーを浴びるまでだった。一日の疲れを流そうとお湯のコックを捻ったまではよかったのだが、何も考えずにシャワー口の下に立った俺は、ひっ、っと悲鳴を呑んだ。冷たい。

(まじかよ)

大げさでも何でもなく体をガタガタと震わせて待ったが、ボイラーの調子が悪いのか、ちっとも水温が上がらなかった。最初に頭ごと突っ込んだために髪から滴ってくる水が冷たい。バタバタとタイルを叩く水流に手を出し入れしていたが、結局、大して変わることはなかった。自分の真上に管理人が住んでいるのは知っていたが、こんな格好じゃ文句を言いに行くこともできない。水でしかないシャワーに舌打ち一つ零し、覚悟を決めてその中に飛び込んだ。

(くそ、明日、絶対、文句を言いに行ってやる)

全身、鳥肌と化した体をバスタオルで包み込み、さっさと寝間着に着替える。髪を乾かして、ドライアーで暖を取れば、ようやく思考が追いついてきた。引っ越してきて以来、まだ一度も管理人とは顔を合わせていなかったのだが、すでに、俺の不満はかなり溜まっていた。トイレの水の流れが悪くなったり、急に暖房が暑くなりすぎたりハチャメチャだった。それでも我慢できたのは、ほとんどこの部屋にいなかったからだ。というよりも、文句を言いに行く時間がなく、手紙をドアの隙間から差し込むだけだったのだ。

(ったく、どんだけズボラな管理人なんだよ)

だが、一向に、改善されることはなかった。どうせ融通の利かないおっさんか口うるさいおばさんだろう、と見当を付けていたが、さすがに今回ばかりは黙っているわけにもいかない。いくら春とはいえ、夜になれば、まだぐっと気温が下がる日もある。帰ってきてシャワーも浴びることができないだなんて、想像するだけで苦痛だった。

(はぁ……とりあえず、もう、寝よう)

また、明日から闘いが始まる。完全に乾ききった髪に、俺は冷たくなったバスタオルを椅子に投げ棄て、電気を消してさっさとベッドに潜り込んだ。

***

だが、なかなか、寝れなかった。新しい環境で緊張が極限にまで張り詰めていた俺は目が冴えて冴えて仕方なかった。体は泥沼のように疲れているのに休めない。ここに住みだして何に驚いたかと言えば、その喧噪だった。薄い壁一枚隔てたアパート、と家賃の安さで選んだときに不動産屋はそう言っていたが、本当に何でも筒抜けだ。テレビの音、オーディオの重低音、赤ん坊の泣き声、走り回る子どもの足音、それこそ、セックスの時の声だって。天井近くにあるダスト一つで繋がっているせいなのか、それとも、本当に壁が薄いのかは定かじゃない。

(もう、いい加減にしてくれ……)

神経が高ぶっているのか、ささいな物音にも、妙に敏感になってしまう。右隣でドラマの笑い声が響けば、左上で子どもの泣き声が聞こえる。別のところからは夫婦の諍う罵声。窓の向こうからは、通りを走り抜けていく救急車のサイレン。苛立ちに寝返りを打てば打つほど、ますます思考がはっきりしてきてしまって、普段なら意識もしない靴音までも、やけにはっきりと捉えてしまっていた。

(とにかく寝ないと)

どれくらいベッドの上でのたうち回っていたのかは定かじゃないが、このままじゃいつもと変わらない時間になってしまう。寒さも相まって首元まで被っていた毛布と布団を更に引き上げ、その中に潜り込む。少しだけ、音が遠くなったような気がした。柔らかな温もりに、ゆっくりと瞼が降りてくる。----------------ふわふわと闇が揺れて、眠りの淵に

「っ」

落ちることはできなかった。寝る寸前、最後の最後で俺の思考が激しく縦揺れた。ごうぅんごぅぅん。激しい機械音に、ばち、っと瞼が弾けた。聞き覚えがあるそれに、完全に眠気が飛んでいってしまった。くそ、っと毒づき、布団を蹴り上げ、ベッドから飛び降りる。怒りのままに壁のスイッチを叩きつければ、ぱ、っと灯った電灯の下に日付が変わったばかりの時計が照らし出された。

「誰だよ、こんな時間に洗濯機を回してるヤツ」

薄い壁から伝わってくるのは、洗濯機の音だった。おそらく脱水か何かをしているんだろうが、どう考えても非常識な時間過ぎる。ここが24時間眠らない街だということを差し引いても、だ。いったい、どこから聞こえてくるのだろうか、と左右の壁に耳をそばだてる。が、どうも、両隣じゃない。念のため、耳を壁に押し当てるが、違う。下でもない。

(となると……)

俺はその格好のまま部屋を飛び出した。コンクリートが剥き出しの階段を三段抜かしで駆け上がり、目指した扉の先。ノッカーを思いっきりぶつけたのは、管理人が住んでいる部屋だった。だが、返事がない。洗濯機が回る音ははっきり聞こえているのだ、誰かいるはずだ。ますます苛立ちが募って、ノッカーをひたすら叩き続ける。と、ようやく

「へいへーい、ちょっと、待って」

と陽気な声が返ってきた。------------------鼻歌交じりに出てきた男、それが、三郎だった。

***

「そりゃ悪かったな。洗わないと、明日着るものがねぇんだ」
「そんなの、俺に関係ないだろ」
「だが、そんなこと気にしてたら、ここじゃ暮らしていけねぇぞ。この街じゃ救急車やパトカーのサイレンが子守唄って聞いたことないか?」
「それと洗濯機を真夜中に回すのは別だろうが」

俺の文句を一通り聞いた男はアルコールを含んだ溜息を一つ吐くと「詫びにコーヒーくらい淹れてやる」と強引に誘い込んだ。コーヒーを飲んだら余計寝れなくなるだろうが、と、思いつつ、きちんと話を付けておかなければ、という想いでいっぱいだった。正直なところ、こんな若い男が管理人なんてロクなことがない。きちんと確約を取らないと来週いっぱい冷たいシャワーで過ごすことになりそうだ、と確信し、俺は男の部屋に踏み込んだ。

「天国への扉」

ゆったりと響く掠れた声の心地よさに、つい、俺は言葉を発していた。

「へぇ、お前もディランが好きなのか?」

あぁ、と頷き掛け、つい流されそうになる「そうじゃなくて」と抗議の声を発しようとしたが、彼は目を細め「いいよな」と呟いた。その表情があまりに倖せそうに見えて-------------俺はどうしてだか言葉を呑み込んでしまった。そうしているうちに男は「飲み物淹れてくるから、適当に座ってれば」と、奥に引っ込んでしまった。俺と同じ間取りなら、そこには狭苦しいキッチンがあるはずだ。俺は勧められたままに、ソファに腰を下ろした。硬くもなく柔らかくもないそれは、自然と俺に馴染んだ。

(何か不思議だな……)

俺と同じアパートに住んでいるはずなのに、別の場所にいるかのようだった。洗練されたダークブラウンの家具が仄暗い照明に沈んでいる。テーブルの上には飲みかけのグラス。ブランデーだろうか。他人の部屋だというのに、妙に落ち着く。ゆったりとした音楽。外で響き渡っているサイレンも、どっかの部屋から聞こえてくるトイレの水音も、赤ん坊の泣き声も、全てが  の声に溶け込んで、優しいメロディを奏でているようだった。まるで子守唄を聞いているようだった。

「ん」

とぷん、と甘い乳白色の湯気がそこにあった。差し出されたカップに入っていたのは、さっき男がいっていたコーヒーじゃなく、ホットミルクだった。ガキ扱いされている、と抗議に片眉を上げれば、彼は「寝れねぇんだろ」と小さく笑った。目差しに勧められて飲んでみる。だが、甘ったるい。

「そのブランデーは?」
「お前、我が儘だな」
「お前じゃない。兵助だ。それに俺は我が儘じゃない」

俺の視線の先にあるグラスを見て彼は少し呆れたように肩をすくめた。それでも取りに行って俺がいるソファへと戻ってきた。てっきり、渡してくれるのかと思いきや、男はグラスを傾けて、数滴だけホットミルクにブランデーを落とした。ぽとり。とろりとした芳醇さが馨る。目だけで抗議すれば、ふ、と眼前が翳った。

「じゃぁ、寝かせてやるよ」

そうして、気が付けば俺は男の心音を、世界で一番優しい子守唄を耳に、眠っていた。



***

最悪の第一印象。--------------------けど、おそらく、その時に俺は恋に落ちたんだ。

「タクシーは?」
「30分前に予約した」
「じゃぁ、あと15分てとこだな」

全部の穴を埋め終えた俺は、使い古しの歯ブラシと歯磨き粉のチューブを残して置いたタイムズ紙に包んだ。出ていく際にダストシュートに棄てていけばいい。ほとんど荷物の入っていないボストンバックから、ふ、と思い立って紙を取り出し、「ん、これ」とヤツに渡した。三郎が今夜ここに来なければ、ドアの隙間に差し込もうと想っていたメモだ。

「何?」
「敷金の返金、ここの口座のところ振り込んで置いてくれ」
「家賃のところに入れようかと思ってた」
「家賃に使っていた銀行口座、解約したんだ。もう、この街に戻ってこないだろうし」
「そうか」

俺たちの間を漂うミントの匂いが、この部屋にはやけに不釣り合いだった。いつも漂うのは、ヤツの香水と汗と埃と体臭と。とにかく、生々しくて、少なくともこんな爽やかな香りがしたことは一度だってなかった。

「なぁ、寝ないか?」

三郎が、そう言うと思っていた。今夜、この部屋に姿を現した瞬間から。けど、俺は「ベッドもないところで?」とせせら笑った。今更だろ、と目だけで言う。それでも三郎は「別に、場所なんて構いやしないだろ」と引き留めてきて。このまま、手を伸ばしたら、もしかしたら。そう迷った。けど、

「……いや、止めておく。もう、タクシー来るし」

俺がそう断ると「そう」と今度こそ、三郎は引き下がった。俺たちの間に沈黙が腰を据えた。だが、静けさはなかった。テレビの歓声、オーディオの重低音、赤ん坊の泣き声、走り回る足音、パトカーのサイレン。--------------------俺たちの子守唄が聞こえる。

「穴があれば、埋めればいい」

唐突に、三郎が呟いた。

「……何それ、お前のセックスの格言?」
「まさか、人生の名言さ」

びっ。紙が切り裂ける音が、子守唄に混じった。ヤツの手には、二つになった俺のメモ。

「三郎?」
「落ち着いたら、敷金、取りに来いよ」
「……どういうことだ?」
「来なかったら、私が届けに行く」

ひらひら、と手放されたメモが三郎の足下に落ちていくのを、目で追っていると、温もりが、すぐ傍にあった。抱きしめられている、そう分かったけれど、どうすればいいのか分からなかった。混乱に見回した俺の目に、穴一つない真っ白の壁が飛び込んできた。-------------最初から、何もなかった。今から、始まるのだ。

「会いに行く」

そっと顔を三郎の胸に埋める。俺の耳は、世界で一番優しい子守唄を聞いていた。



ブロードウェイの子守唄