「煙草、」 払ったつもりでも、ごまかせなかったらしい。 くん、と鼻を鳴らした長次は、心底、嫌そうに顔をしかめた。 ポケットに手を突っ込んで、入れたままだったジッポの冷たさを確かめる。 「ここでは吸ってないさ」 壁に貼られた、日に焼けて黄ばみ、端の方が破れている紙の『火気厳禁』の文字を見ながらそう答える。 「そういう問題じゃない」 身じろぐ音すら伝わりそうな静けさに、低く掠れた彼の声でもやけに響いた。 分が悪いのはこちらだと、返答せずにいると、長次は諭すことを諦めたのか、ため息をひとつ零して、山と積まれていた本に手を伸ばした。 カサッ、と乾いた紙の音を立てながら長次は本を開き、その視線は吸い寄せられるように下に向かった。 私と長次との間に、沈黙という名の帳が降ろされるのを感じた。 こちらの存在など意に介せずに、本に没頭する姿は、『あの頃』となんら変わりがない。 強いて違いを挙げるならば、頬の傷がないことぐらいだろうか。 『あの頃』も、長次はこうやって書物に目を通していて、私が垂れ流す戯言を聞いていた。 *** (あの頃……生まれ変わる前の) 私の持つそれは、夢と言うにはあまりにはっきりとしていた。 色も匂いも熱も味も、今まさにそこに存在しているかのようにリアルで、鮮やかだった。 幼い頃は誰もが持つ物だと当然のように思っており、それが違うと分かってからは、単なる恐怖でしかなかった。 知識を得る内に、それが『生まれ変わる前の記憶』ではないかと思うようになったが、確証を得ることのないまま、高校へと進学した。 そこで、文次郎を見かけた時は、息の根を止められたかと思った。 驚きと懐かしさと安堵と、胸をこみ上げてくるものの収集がつかなかった。 混乱する感情を、どのように選別し、どのような言葉にすればいいのか分からなかった。 全てがごちゃまぜになって、ただただ立ち尽くしていた私の横を、文次郎は顔色一つ変えず通り過ぎた。 ------------文次郎は何一つ、覚えていなかった。 いや、何一つ、というのは語弊がある。全くないというわけではないのだから。 けれど、ヤツと話していて文次郎は『あの頃』と形容できるほどの記憶を持ち合わせてはおらず、妙な違和感としての程度だと気付いた。 私と同じように『あの頃』を語れる長次曰く、「記憶は主観的なものだから個人差があるのだろう」と。 「雨が降ってきた」 「……あぁ」 「鬱陶しいな」 電気が付いているのにもかかわらず、部屋は随分と薄暗かった。 窓に垂れさがるカーテンは、光が少ないせいか、いつにもまして灰色っぽく、薄汚く見えた。 眼前を落ちて行く雨粒は小さいのに、アスファルトの上で小さく弾けた雨音は、地面に吸い込まれずに反響して耳をなぶる。 けれど、本に意識を奪われて「あぁ」と生返事をしたの長次の向こうで降り続ける雨は遠く、まるで自分が水の中にいるようだった。 (あの頃は、雨の日は静かだったというのに) 気がつけば、胸のずっと奥底に沈めたはずの『あの頃』が勝手に瞼裏に浮かんでくる。 *** 「あいつが海の中で死んだというのなら、私は燃え盛る焔の中で死んだのだろう」 ページを繰りかけていた長次の手が、ぴたり、と止まった。 ゆっくりと上げられた彼の視線はひどく物憂げで、それでいて、どことなく痛ましそうだった。 私を見つめる彼の唇が小さく開きかけて、けれど、空気が震えることはなく、ゆるやかな速度で沈黙が降り積もっていく。 「……昨日、あいつと会った時に言われた。『海で死んだのかもな』と」 私の言葉に長次は少し考え込むように視線を落とし、それから再度私の方を見やって「思い出したのか?」と訪ねてきた。 「さぁな」 首を傾げて、「あいつのことだから、下手な冗談でも言ったんだろう」と続ける。 ぱたり、と空気が閉じられる音が長次の手元から発せられた。 さっきまで読んでいた本を片隅に寄せ片付け、じっ、と深い色を湛えた眼差しで私を見つめていた。 「文次郎に話さないのか?」 「まさか。頭がおかしくなったと思われるのがオチだろう」 長次の提案を鼻で笑い、冗談として流してしまいたかった。 だが、それを許さない空気が長次から醸し出されていて、私は目を逸らすことができなかった。 私を絡め取る視線は殺気にも似た絶対さがあり、事訳の言葉がからからと干上がっていくのが分かった。 「わずかだが、文次郎には記憶がある」 「私が煙草の火を求めるように、ヤツが水に潜るとでも言うのだろう?」 「あぁ」と頷く長次にそれ以上言わせまいとして、「だか、だとして、何になる?」と叩きつけるように叫んだ。 「お前は、遠い昔に忍だった、そう文次郎に言って何になる。 お前は水練が得意で、よく池や海に潜っていたと。 お前が水に拘るのは、それが理由に違いないと。 それから、私とお前は恋仲だったと。だから、私はお前のことを、」 それでもなお言いたげな面持ちをしている長次をねじ伏せようと、勢いのまま言葉を迸らせる。 「仙蔵、」 ひやりと冷たい眼差しが私を咎めた。 「お前は過去に恋仲だったから、今も文次郎に固執してるのか?」 *** 沈黙ごと塞ぎ込むような雨音に、ノイズ割れした放送が混じった。 『中在家先生、中在家先生。お客様がお見えです。事務室にお戻りください』 機械に通された声はくぐもっていて、やけに乾いていた。 長次は一度だけスピーカを見遣ると、す、っと私の方を向き直った。 教本を片手に私の横を通り過ぎて行く長次をぼんやりと眺めることしかできなかった。 「立花、お前も教室に戻った方がいい。じきにチャイムが鳴る」 (私は『あの頃』の文次郎を今も思っているというのだろうか、) 残像の独り歩き
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