「兵助」

集中講義が終わった学生棟からはだ漏れてくる解放感に乗って、俺も外へと出た。暖房のせいで火照っていた顔を撫でる風が冷たくて、思わず首を竦め立ち止っていると、背後から声を掛けられた。

「あれ、三郎、来てたのか?」

90分という拘束に耐えた学生たちのお喋りがあちらこちらで花咲いている合間を縫って三郎が俺の方にやってきた。周りは誰も授業の内容なんて話していない。バイトの愚痴だったり遊ぶ予定だったり。入学当初は、何となく生きている人の群れに、こんなものなのか、と軽くショックを受けたが、今となってはいたって普通の光景だった。かくいう俺も、同じようなもので。

「おぅ。一番後ろにな」
「また遅刻かよ」

呆れを通り越して投げやりに言えば「ま、単位さえもらえば、いいだろ」と口笛を軽く三郎は吹きだした。三年来の友人ともなれば大体先が読めれるようになるもので「ノートは貸さないからな」と釘をさしておく。と、軽やかだったメロディが詰まった。

「マジで? 兵助のノートが頼りだったんだけど」
「1ページ100円な」
「お前、それ、がめつくねぇ」

ぎゃぁぎゃぁ騒ぐ三郎に「金が必要だからな」と答えておく。親しくない友人だったらそれで気まずくなるところだが、よく分かってるのだろう、「まぁ、確かに兵助のノートは1ページ200円で売れると思うけどな」と三郎は笑った。誰が売るか、って混ぜっ返していると、あ、と三郎が話題を止めた。

「そういや、兵助さ、前に『バイト探してる』って言ってたよな」
「あぁ。できれば短期の方がありがたいけど。長期はそのまま続けるつもりだし」
「あ、なら丁度いいな。いいバイト紹介してやろうか」

唇の端を軽く上げた三郎の笑みに、あまり真っ当なバイトじゃないのは察しが付いたけど、この際、なりふり構っていられない。前期に必要な学費が足りないのだ。春休み中になんとかしとかねぇと、と焦っていただけに、三郎の申し出はありがたかった。

(家に期待するわけにいかないしな)

家の経済状況を考えて仕送りはもらわず寮に入って、奨学金でなんとかやり繰りしているが、それでも教材費やその他もろもろはバイトを目一杯してなんとか、ってところだ。春からはゼミなんかが忙しくてまともにバイトできないだろう。今のうちに貯めておかないと、足が出てしまう。

「どんなバイトなんだ?」
「んー、モデル」
「モデル?」

さすがに予想できなかった職種に声が裏返った。だがそんな俺を気にすることなく三郎は淡々と「そ、絵のモデル。座ってるだけでいいらしい」と続ける。どっからまたそんなバイト情報を仕入れたてきたのか気になって尋ねれば、至極簡単なことだった。

「俺のバイト先に美大のヤツがいてさ、そいつの友達が探してるんだと。春休みの間だけっぽいし、どうだ? 結構、もらえるらしい」

指でお金のマークを作った三郎に、そんなに割がいいんなら三郎がすればいいのに、と思い「だったら、なんでお前がしないんだ」と疑問を呈する。すると「あー」と一つ唸り声を上げて頭をがしがしと掻くと「じっと座ってるの、苦手だからな」と言ってきた。三郎の回答に思わず笑っていると、やつはちょっと複雑そうな面持ちをこちらに向けた。

「で、どうする? 本当にやるなら、連絡しとくけど」
「あー、うん」

モデル、というか、美大というのに少しだけ興味が湧いた。普段、接することのない世界だったし、たぶん、これから先もそんな芸術家みたいなヤツと関わることもないだろうし。それくらいの軽い気持ちで俺は「連絡しておいてくれるか?」と三郎に頼んだ。

「了解。詳細決まったら、また連絡する」



***

(で、どういけばいいんだ……?)

美大って響きだけで、妙に洒落気を感じてしまうのは、俺の偏見何だろうけど、普段入ることのないキャンパスだけに、妙に緊張してしまう。挙動不審な姿を、こっちの大学も春休み期間中らしく周りにはほとんど人がいない。挙動不審な姿を見られなくてよかった、と思うべきなのか、それとも、道を聞く相手がいなくてアンラッキーだと思うべきなのか、分からなかった。

(全然、分からないんだが)

三郎が寄こしたメモを何度も見直し、目の前の案内図と見比べる。紙によれば約束場所はD301号室となっているが、あまりにキャンパスが広くて建物も雑多に会って、何がなんだか分からなかった。メモと案内板とで何度か視線を行き来させ、だいたいの道筋の見当を付け、あとはその近くで人に頼るしかないな、と、とりあえず歩き出す。

(寒ぃな……)

何もしてなくても、目の前に広がる淡い白。冷たさと温かさが絡まったそれは、まるで羊毛のようにやわやわと揺れ、そうしてあっという間に溶けていってしまう。葉を落としてしまった木立がステンドグラスみたいに空の蒼を切り抜いていた。普段見ない光景を、ぼけっと眺めながら歩いていると、

「なぁ、」

ぐ、っと、腕を掴まれ、引っ張られた。

(え…?)

驚いてそっちに顔を向ければ、そこには全然知らない男がいて、俺の腕を握っていた。真剣な眼差しが突き刺さって、声を出そうにも、喉に穴が空いてしまったかのように、空気が漏れる音しか出てこない。隣には彼の友人らしき人物がいて、そっちに視線で助けを求めたけれど、そいつもまた口を大きく開けて驚いているようだった。

(……何なんだ……?)

見知らぬ地でいきなり知らない男から腕を拘束されて、俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。それでも腕を振り払わなかったのは、顔前にいる男の目に切迫感に溢れていたからだ。腕だけじゃない。その真摯な眼差しが、俺を捉えて離さなかった。男の唇がゆっくりと解ける。何を言うのだろう、と俺は意識の全てをそこに集めた。

「あのさ、裸になってくれないか?」


***

「馬鹿じゃねぇの、ハチ」

ひぃひぃ、と腹を抱えて笑う勘右衛門に「うるせぇ」と拳を食らわせようとして、

「って」

腹が痛んだ。さっきの彼に食らったところだ。この分だと青あざができてるかもしれねぇな、と、服の上からさする。結構な力だった。男だから当たり前といえば当たり前だったんだが、彼の拳は見事に鳩尾に入って、悶絶して俺はその場しゃがみ込んでしまったのだ。

「お前、ひっ、いくらな、んでも『裸になっ、てくれ、ないか』は、ない、ひっ、だろ」

笑いがまだ収まらないのか、完全に喉を引きつらせながら勘右衛門に、そう突っ込まれてたが、アホなこと言ったって自分が一番分かってるだけに「うっせぇ」としか出てこない。けど、さっきは、その言葉しか出てこなかったのだ。

「あー行っちまったか」

何とか痛みが引いていって、ようやく辺りを見回すことができるようになったけど、さっきの彼はもうどこにもいなかった。どこからか飛んできた落ち葉が、かさり、と風に巻かれているだけで。幻だったんじゃねぇか、って思ったけど、いざ立とうとして感じた腹部の痛みは紛れもなく現実で。

「何、一目ぼれ?」

そうやってからかってきた勘右衛門に、む、っとなりながら「恋愛なんてしてる暇なんかねぇだろ」と答える。すると、やつは呆れたような表情を浮かべつつ、「まー恋愛によって作品がよくなるって例もあるけどね」とぬかしてきたもんだから「悪くなる例もあるだろ」と答えておく。ごたごたとした面倒事はもうご免だった。はぁ、とわざとらしい溜息と共に「本当に芸術馬鹿だよな」なんて言葉をもらった。

(何とでも言えっての……そんなどころじゃねぇんだから)

ずっと絵を描くことが好きで好きでやってきたけれど、それだけじゃ通用しない、ということを痛感して三年。実力かそれとも多少のコネか。そのどちらか、あるいは両方を持ち合わせなければ成功しない世界なんだということは嫌という程、分かってる。そして、そのどちらも持っていねぇことも。すでに親父からは「遊んでいるのも大学までだからな」と釘を刺されていて、後がなかった。

「で、さっきのは、何? モデルのお誘いだったんだろ?」
「あぁ。今度のコンクールに出そう、って思ってたイメージとぴったりだったんだよ」
「あー、お前、モデルに悩んでたもんなぁ」

春休み明けにある大きな絵画展、それに絞ってずっと筆をとってきたのだが、どうしても気にいらなかった。決められた題材の中で、自分のイメージする絵が描けない。それで、モデルを勤めていたヤツに断りを入れたのが年末。モデルのせいにするな、と言われればそれまでかもしれねぇが、どうしてもデッサンの地点で納得がいってなかったのだ。

「あぁ。クソッ! まじ、ぴったりだったんだけどな。もう近くにいねぇよな……」
「さっさと逃げていったって。あれじゃただの変態だろ」

こうやって落ちついて考えれば、勘右衛門の言う通りなんだろうから、一応「……だよな」と、発言が普通じゃねぇってことは認めたけど、けど、あの時は、その言葉しか出てこなかったのだ。彼を見かけた瞬間、俺の全てが彼に持っていかれた。描きたい。本当に電流が流れたみたいに、全身が痺れた。彼以外にいない、そう思った。だから、モデルになってもらいたい、その一心で必死だったのだ。

「あー、もう一度会えねぇかな」
「そんなこと言ったって、どこの誰だか分からないからね。諦めなよ。ってか、モデル、今日、新しい人来るんだろ? ほら、俺が頼んだ」
「あー、そうだった。けどなぁ……さっきのやつがぴったりすぎて、断るかも」
「んな余裕あるのかよ」
「ねぇけど」

色んなところに顔が広い勘右衛門にモデルを引きうけてくれる奴がいないか、探してもらっていて。ちょうどテスト明けに「一人やってもいいってやつがいるけど」って連絡が来たのだ。作品提出まで、今から一ヶ月と少ししかねぇ。今でさえギリギリなのに、断るなんてありえない話なんだろう。

「ま、そいつがイメージ通りだといいな」
「……そうだな」

俺バイトだから行くな、と、手をひらひらさせて去る勘右衛門に「おぉ」と手を振って応え、俺もそいつとの待ち合わせ場所であるデッサン室に足を向ける。普段はアパートで作業をすることが多いのだが、先方の指定で分かりやすいところ、となってその場所にしたのだ。ぼやぼやとしていたせいか、もう待ち合わせ時刻を過ぎている。早く行かねぇと、と思ってるのに、足はちっとも急げなかった。自然と目がさっきの彼を探してしまう。

(もう一度会えねぇかなぁ……)

さっきの彼が、俺の中にしっかりと刻み込まれてしまっていて、離れなかった。



忘れまた出会いたい


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※ツイッターではれこさんとなつめさんと盛り上がったお話です。素敵な萌えをありがとうございます^▽^