「っ」

もどしそうな苦しさに俺は足を止めた。間髪入れず、げほ、ごほ、と咳が喉を押し割って出てくる。バラバラと投げ出され重力のままに太股を叩いた手を膝に当て、腕で支えて屈み込むのを耐える。路面がぐにゃり、と歪むのを感じて俺は目を瞑った。何とか酸素を取り入れようとする肺腑は、けれど、大きく引き攣って。落ち着け、とゆっくり、息を吸い込んだ。ようやく意識がクリアになって、俺は曲げていた上体を上げた。はぁ、と空気が抜け出る。

(何だったんだ、あれ)

いきなり見知らぬ男に手を掴まれたかと思うと「裸になってくれないか?」なんて、意味不明なことを言われて、何がなんだか分からなかった。分からなかったが『裸』って言葉に咄嗟に反応してここまで逃げてきたのだが、必死に走ったせいか、まだ心臓がすごい速さでもんどり打っている。

(酔っぱらってたのだろうか?)

普通の感覚として、初対面の人間に裸になってくれ、と言うなんてあり得ないだろう。初対面じゃなくても、そんな台詞口にする場合なんて限られている。だから、考えられるとしたら、男がちょっとおかしいか、もしくは酔っぱらっているか、罰ゲームか、くらいしか思いつかないの。だが、

(すごく、切羽詰まってた感じだったよな)

男の真剣な目差しは俺が考えついた可能性のどれにも当てはまらないような気がした。酔っていたとかふざけていたとか、そんなんじゃなくて、もっと緊迫した状況に置かれているような、そんな面持ち。真っ直ぐに切り結んできた彼の目が、ぐっ、と俺の心を掴んで放そうとしない。

(あんなに一生懸命なら頼みを聞いてやってもよかった……って、何、考えてるんだ)

頼みを聞く、ってことは、つまり裸になるわけで。誰かに頭の中を覗き込まれたわけでもないのに、かっ、と熱が首から這い上がってくる。冷たい空気に当てれば、ちょっとはマシになるだろう。そう思って、ふるふると頭を振って「落ち着け、落ち着け自分」と言い聞かせる。殴ったのは悪かったと思うけど、どう考えたって、いきなり「裸になってくれ」だなんて非常識も甚だしい。そう相手の方に非がある---------------なのに、彼の腹に入ってしまった拳が、ひりひりと、痛んだ。

「っ」

どうして、と巡る思考を打ち破ったのは、ポケットに入れてあった携帯のバイブレーションだった。ブブッ、と短い振動を繰り返すのはメールの証拠だった。割と無頓着な部類に入る俺は普段であれば、どうせ迷惑メールか何かだろう、とその場で開くことは滅多とない。だが、今は違った。気持ちを切り替えたかった。コートのポケットに手を入れ、引き上げる。外気の気温差で温かく感じるのか、ゆるとした熱が篭もっているような気のする携帯を手にすれば、メール受信のアイコンが灯っていた。

(誰だ?)

誤作動防止キーを外して指先を滑らせれば、ぱ、っと受信メールが展開された。鉢屋三郎。そこに現れたのは、このバイトの仲介役になっている友人だった。俺がメールを読まないと知っているがために、こいつがメールを寄越す時はたいていどうでもいい内容の時だけだ。重要なことは電話してくる。

(どうするかな)

おそらく、このまま無視しても特に問題はないだろう。だが、ここまで開いたのだ。あとボタンを一押しするだけの労力を裂くべきか、相手が相手だけに悩む。まぁ、どのみちくだらないことしか書いてないだろう。だったら、その馬鹿馬鹿しい内容を読んで、まぁ、笑って、それでさっきのことを忘れられたら儲けものだな、くらいの気持ちで俺はパネルを一つ叩いた。と、画面に現れたのは、雪原だった。いや、違う。

『悪い』

黒ごまのような小さな文字が、ちょこん、とそこにあった。

「え?」

意味が全く分からなかった。たった、二文字。他にも何か書かれているだろう、とスクロールしようとパネルの上方で指を滑らすが、動かなかった。反応が悪かったのだろうか、ともう一度、今度は画面上に人差し指を押しつけるようにしていじったが、さっきと変わらない。何度見返しても、その二文字が変化することはなかった。当然だ。横にバーがない。つまり、本当にこの二文字だけなのだ。三郎が俺に寄越したのは。

「はぁ?」

三郎が何をしたいのかが、さっぱりだった。三郎に謝られるようなことを最近された覚えがない。だが、こうやってメールを送ってきたということは、また何かやらかしたんだろうか。それ以外の考えが浮かばなかった一方で、こうやって正直に三郎に謝られる事なんて今までに一度もなかっただけに、その不気味さを半端なく感じていた。

『何がごめんなんだ?』

さ、っと返信ボタンから文章を作成して、送りつける。味気ない『送信完了』の文字を見てから電話すればよかった、と思い直した。俺と違い、まめな性格をしている三郎のことだ。ついさっきメールしてきたということは、つまり、今は携帯を弄っているような余裕があるというわけで。普通であれば一分も経たないうちに返信してくる。だが、

(来ないし)

滅多とないが三郎とメールのやり取りになったとき、途切れるのは俺が返信しないからだ。三郎はどんなことがあっても返してくる。それがない、というのが気になって仕方ない。電話を掛けた方が確実だろうか、と迷いつつもう少し待つことにする。一向に変化のない待受画面で、ただ一つ、ぱっ、と均衡が崩れた。

「やばっ。もうこんな時間か」

デジタルの数字は、指定された時刻まで残り僅かな数を刻んでいた。待ち合わせまで余裕を持って家から出てきたはずが、変なトラブルに巻き込まれて、すっかり時間を食われてしまっていたのだ。このメールの真意について三郎に問い詰めるのは夜にしよう、と今、電話するのは諦めポケットにしまう。

(……というか、ここ、どこだ?)

無我夢中であの場を逃げるように離れてきたために、今、自分がどこにいるのか全く分からなかった。誰かいないだろうか、そう辺りを見渡す。だが、かさ、っと朽ち果てた葉が木枯らしに巻かれるだけで、人影はない。だが、案内標識らしきものが、ぱ、っと視界に入って、俺はその看板に足早に近づいた。ペンキか何かが剥げかけていたが、それでも右に向けた矢印の隣にD棟という文字を読み取ることができた。

(急がないと遅刻だな)

それに従い、俺は足を速めた。

***

「えっと、ここか……」

D301。ドアの上方に刻まれている部屋番号を確かめ、手元にあるメモもう一度見直す。ここで間違いないはずだ。ポケットから携帯を取り出して見れば、時刻は待ち合わせの3分前。間に合ったか、と安堵に体の力が抜ける。急いできたせいか、息がまだ体の中で上下していて、温かい。だからだろうか、それとは対称的に、廊下はかなりひんやりとしていて冷たかった。

(もう来てるんだろうか?)

光が差し込みにくいのか、ずっと続いている廊下は夕闇に呑み込まれつつあった。薄暗く、見通しが悪いけれど、この通路に人のいるような気配はない。それくらい静まりかえっていた。それは、この部屋の中も同様で。頑なに閉ざされたドアの向こうに意識を集中させても、人の温もりを感じられない。

(どうする……?)

誰もいないんだろうか、そう不安になりメモを見遣る。だが、何回見てもD301という三郎の右上がりの綴りはそこにあって。約束の時間も間違ってないはずだ。となると、相手が遅刻しているか、それともこの部屋の中で待っているか、のどちらかだろう。相手が来てないのであれば別にこのドアの前にいてもいいのだろう。

(けど、中に入っていたとかだったら、ややこしいよな)

美大、と三郎から話を聞いたときに、まぁ俺の頭に浮かんだのは『気むずかしい芸術家』というイメージだった。自分の知り合いに美術を志しているような人物がおらず、全くの想像でしかないのは事実だったが、どうしても、偏屈だとか頑固という印象が拭い去れない。相手の気を損ねて、この話がフイになってしまうのは惜しかった。

(結構、わりよかったもんな)

三郎から伝え聞いた先方の提示してきた条件は破格のものだった。拘束時間はそれなりにあったが、他のバイトに間に合うような時間帯には終わる。その兼ね合いがちょうどよくて俺はやつの斡旋を受けたのだが、正直、本当に座っているだけでこれほどの金額をもらうものだとすると、逆に生活は大丈夫なんだろうか、と心配になった。

(まぁ、俺には関係ないけど)

どうせお金持ちのボンボンなんだろうな、なんて思う。これだけの額を払い出せるだなんて、日頃、授業料一つにしても四苦八苦している自分からすれば信じられなかった。だが、それ以上の感情は抱かなかった。-----------------己の境遇に恨み辛みを言うのは少しだけ飽きたから。以前は、親の金で遊びまくる同級生に嫉みを持っていたが、大学で色々なやつと知り合って、俺みたいに自分でなんとかしてかなければいけないというやつもそれなりにいることも分かった。

(それに、そんなことを妬んでいる暇があったら、バイトした方がよっぽど建設的だ)

そんなことを考えつつ、携帯を取り出す。ディスプレイの数字はちょうど待ち合わせの時刻に変わっていた。他に点灯するアイコンはなし。三郎からはメールの返信も電話も掛かってきてないということだ。どちらにしろ、今から、その美大生と会うのだから話をしている間はないだろう。美大、という言葉から、気むずかしい、というイメージが頭を食った。一瞬だけ、携帯の電源を落とすか迷い、そこまでする必要はないだろう、とすぐ決断を下す。す、っと瞬き一つ分もなく、時計の数字が変化した。

(一回、ノックしてみるか……)

中にいなかったらいなかったで待てばいい、そう思いながら、俺は指の背でドアを叩いた。静寂に浸りきった廊下に、その音はやたらと大きく響いた。ような気がした。だが、中からの反応はない。ノックの残響が溶ければ、漂っているのは静けさだけだった。

(やっぱり、いないんだろうか?)

指先を握り、もう一度だけ、背の部分をドアに叩きつける。コンコン。さっきよりも、はっきりと鳴るよう、一回目と二回目とで間を取った。だが、あっという間に響きは霧散する。そして三度落ちるは静謐さ。部屋や時間を三郎が間違えて聞いてきたんじゃないだろうか、と不安が募り出す。本当に誰もいないのだろうか、と俺はドアノブに指を添えた。皮膚を剥がすような冷たさ。それを押し込めるようにして、ぎゅっと握りながらノブを回す。

(あ、開いてる)

かちゃ、っと金属音と振動が触れている部分から伝わってきた。どうやら鍵は掛かってないようだった。そのまま、ぐっと前に力を押し込める。やたらと重たい扉に、できたのは僅かな隙間だった。そのまま一気にドアを押し出してしまってもよかったのだろうが、どうしても自分が他校生であり部外者であるという意識がそれを邪魔させた。ドアと枠との間に足を挟み込んでドアが戻ってこないようにしながら、隙間から覗くことにする。

(やっぱり、誰もいないのか?)

あっという間に塗り込められた夕闇に部屋は薄暗さを漂わせていた。顔ごと動かすのは幅から見ても厳しいので、視線だけを右から順に左へと送っていく。物の隈が薄暗さに溶け込みだしていて、中の様子ははっきりとは見えない。白っぽいものがぼんやりと翳に呑み込まれるのを待っているようだった。

(ん?)

ふ、と部屋のやや中央寄りに来たときに、俺の目が人の気配を見留めた。タワーのような台に何かが置かれている。裏側でよくは分からないが、キャンパス、とかいうやつのような気がした。その台の奥から何かが床に投げ出されている。暗さではっきりとはしないが、人間の足だろうか。

(何だいるんじゃないか)

あまりの静かさに誰もいないのか、と思ったが、どうやら違ったらしい。ほ、っと安堵しつつも、目の前にいる人物がいったい何をしているのか微動だにしない影に、さっきとは別の懸念が生じる。息一つさえ感じられない空間が故に声を掛けてもいいのだろうか、と。

(けど、いつまでもこうしているわけにいかないよな)

小走りで来たために上がっていた体温は、冷え切った廊下にいたことにより、急激に落下してしまった。篭もっていた熱がはげ落ち、ぞわり、と背筋に寒気が走る。このまま、ここにいると風邪を引きそうだった。絵に熱中しているのかどうかは分からないが、向こうが気づかない以上、こっちから入っていくしかない。意を決して、声を掛けようとした瞬間、

「くそっ」

ざっ。静寂を何かが切り裂いた。何の音なのかは分からなかった。目の前の影が急に経って、その絵に腕を振り下ろす。ざっ。男はまた腕を振り上げ、そしてめいっぱい力を込めて腕を落下させた。殴りつけているようにも、突き立てているようにも、切り裂いているようにも見えた。その勢いに、殺しているようにすら、感じた。ざっ、ざっ、ざっ。その影は繰り返し繰り返し、絵に向かって腕を振り上げては下ろすことを続けている。ざっ、ざっ、ざっ。その音は、絵の悲鳴のようだった。------------哭いているように、聞こえた。

(なっ)

眼前でいったい何が繰り広げられているのか、さっぱり分からなかった。振り上げた男の手が、きら、と光を反射させた。まるでナイフを握っているかのようだった。鬼気迫る空気に、ぞわり、と身の毛がよだつ。逃げ出したい。そう思うのに、俺の足は床に接着されたみたいに動けなかった。視線を逸らしたいのに、目の前に広がる光景を放そうとしない。ざっ。ひときわ大きく、空気が切り裂けた。その瞬間、ぱ、っと男が握っていた鈍色の光が手から離れて散った。かん。床に叩きつけられたそれが甲高い音を滑らせて、こっちへとやってきた。拾おうとしたのだろう、隠れていた男の影が絵から出てきた。

(あ、)

絵だけに真向けられていた男の厳しい視線がこっちに向き---------------そして、俺を捉えた。

「へ?」

俺を見留めた彼は絵をなぎ倒さんばかりの勢いでドアの元へとやって来ていて、俺は逃げることも忘れていた。さっきまでの射殺すような目差しは幻だったかのような、嬉しさを弾けさせた笑みで「もしかして、モデルの?」と問われ、勢いのままで、つい頷いてしまった。

「え? まじで? っしゃ!」

そこにいるのは紛れもなくさっきの男---------俺に「裸になってくれないか?」と言ったやつだった。



なんでそこで


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※ツイッターではれこさんとなつめさんと盛り上がったお話です。素敵な萌えをありがとうございます^▽^