この時期になれば陽が沈むのは早い。けど、それを僕はいつ夜が始まったのかを知ることもなかった。ずっと頭を悩ませていた報告書の画面から、ふ、と視線を剥がせば、もう既にブラインドに閉じられていて、天井に埋め込まれた蛍光灯からは昼間と変わらぬ明るさの光が室内を照らしていた。外から中の様子が見えない様に、と、夕方になると下ろすブラインドを見れば今は夜なのだ、と頭では分かるものの、その目隠しのせいでこちらもまた外の暗さが見えないために、あまり実感がない。

(というか、今、何時なんだろう?)

ちら、っと見える同僚の顔ぶれから、終電を心配するような時間じゃないことは確かなのだけれど、あとどれくらい仕事を片付けることができるか気になって、僕は時計に目を遣った。パソコンを使う時に少しでも楽なように、と外して傍らに置いてあったそれは、まだ短針の傾きがようやく天頂に上がっていくところで。

(そう、まだ、だ)

大学を卒業して採用されたばっかりの頃は『もう』と形容することが多かったその時間。『こんな時間になってしまった』という焦りと『こんな時間まで働かなければならない』って二通りの意味で、「もうこんな時間?」とよく口にしたものだ。けれど、夏を越えて仕事に慣れてくるようになって、『まだ』と思えるくらいに、仕事は忙しかった。

(まぁ、楽しいからいいけどね)

自分で選んだ道だ。残業もそんなに苦じゃない。というか、今は一つ一つ覚えた仕事をこなすので精いっぱいで、省り見る余裕も何もない。それでも同僚や上司にも恵まれているし、仕事そのものもやりがいがあって、毎日が楽しくて、多少の大変さも相殺されてしまう。ただ、やっぱり、毎日午前様に近い生活を送っていると、当然、先に体の方が悲鳴を上げるわけで。

(少し、休憩しようかなー)

首を横に軽く傾けただけで、ばきっ、と骨が鳴った。元の位置に戻しただけで、じわっと血流が流れ出す感覚。ぐるぐると腕を回しただけじゃ足りなくて。指先から掌を使ってゆっくりともみほぐす。肩の鎖骨辺りから首筋、耳の後ろへと徐々に部位を変えながら押していけば、その分だけそこが温かくなったような気がした。最後にこめかみに指で力を加える。パソコンのモニターを長時間見ていたせいだろう。目を瞑っても、白っぽい影が瞼裏でざわざわと揺れた。

(もうちょっと頑張る前に、コーヒーでも飲もうかな)

ほんのちょっとだけだけど楽になった体にやる気も戻ってきて、臨戦態勢に入る前に、と僕は椅子から立ち上がった。同じ階にある給湯室のコーヒーメーカーにでも淹れに行こうか、そう考えて机上のカップに手を伸ばし、けど、そのすぐに思いとどまった。夕刻までは、誰かしらが淹れ汲みしているけれど、その後は放置状態で。ずっと温められてて、きっと煮詰まって匂いも何もかも飛んじゃって、つん、とした酸っぱいコーヒーしか残ってないだろう。

(ちょっと面倒だけど、外のコンビニにでも行こうかな)

ついでに夜食でも買ってこようかな、と椅子に掛けてあったコートを掴み、近隣の同僚に声を掛ければ、歓びの返事が返ってきた。



***

(えーっと、肉まんが2つとビッグサイズのカップ麺、ミックスサンド、あと缶コーヒーが3本とココアが1本)

あれよあれよと増えた注文を頭の中で繰り返す。メモを取ろうかとも思ったけれど面倒の方が勝って覚える方を選んだ。もし忘れてしまったら誰かに携帯で電話すればいいや、と内ポケットの重みを確認し、部屋を出た。下に降りるためにエレベーターに向かったものの、節電のためなのだろう、三台ある内一機しか動いてなかった。エレベーターホールの周囲も照明が絞られ、淡い橙の光が足元を照らしているだけだ。

(廊下でこんだけ寒いってことは、外はもっと寒いんだろうなー)

暖房が働いていないせいもあるのだろうけど、人気がないせいか視覚的に寒々しく見える。早く買って戻ってこよう、と逆三角のボタンを押せば、ぽーん、と、反応を示すチャイムが誰もいない暗がりに響いた。普段はこうやってエレベーターを待つ時間の長さくらいでしか、あまり意識することがないけれど、僕が働いている部署は随分と空に近いところにあるのだ。動き出した箱の機械音を耳に、ぼんやりとしながら、しばし、到着を待つ。と、不意に、ポケットの振動が胸を打った。マナーモードにしてあったけれど、この長さはメールじゃなく、電話だ。

(追加の注文かな?)

休憩ムードが漂った職場の雰囲気から察するにそんな電話じゃないだろうか、そう推測して、僕は誰から掛ってきたのか確かめることもなく、ポケットから取り出して折り畳みを開いて直接耳に当てた。そのまま「もしもし」と会話を始めようとして、けど、次の瞬間、感情が宙を越えた。

「あぁ、雷蔵」

三郎だった。思わぬ相手に声が口より手前で戻ってくる。三郎から電話が掛って来ることは、それほど珍しいことじゃない。けど、いつだって僕が休みである週末ばかりで、こうやって週の半ばに三郎から連絡が来ることはなくって。どうしたんだろう、と、驚きに危惧が混じる。そんな僕のことなど露知らず、三郎は「もう家かい?」といつもと変わらない声音で尋ねてきて、咽喉のしこりとなっていた不安が溶け消える。

「ううん。まだ仕事場」
「そうなのか?」
「うん。まだ10時すぎだからね」

そりゃ終業時刻はとっくに過ぎてはいるけど、普段からすればまだまだ宵の口ってところだ。実際、同じフロアで働く同僚たちの顔にも、疲れているとはいえそれなりに余裕があったことを思い出しながら答えれば、三郎の声が曇った。

「それ、まだ、って言うのか?」
「うん、まだじゃない?」

何か言いたげな空気が沈黙の隙間を縫って届く。その言葉の正体を僕は知っている。それこそ、働き始めて最初の三ヶ月くらい、さんざん僕と三郎との間で交わされた会話--------というか、喧嘩。忙しいのはお互いさまだと頭では理解しているのに、つい、タイミングが合わないと、「偶には早く帰って電話くらい出てくれればいいのに」って喧嘩になってしまって。(それだから、電話も平日には掛ってこないのだ)とにかく、言い争いの種になると分かっているからだろう。

「……そうか、なら悪かったな。忙しい時に連絡してしまって」

って彼が続けた言葉の前には、言いたいことを呑みこんだ分だけの間があった。悪いな、って思うけど、その三郎の優しさに甘えておく。------多分、そのことも三郎は知ってるだろうけど。

「いいよ、ちょうど休憩しようと思ってたから。三郎は?」

僕の問いに、繋がっていたラインに笑いが入り混じった。悪びれもなく「私も自主休憩中」と答える三郎に「何それ」と若干、呆れめいた言葉を零す。けれど、別にそれで落ち込むとか傷つくとかいったこともないようで、「まぁ、気にするな」とあっさり流されてしまった。

「ところでさ、雷蔵。今から外に出れるかい?」
「外に? 今から外のコンビニに行くつもりだったけど、」

語尾に、ポーン、とエレベーターの到着音が重なった。開いた扉の奥から不意に現われた明るさに、思わず目を細める。携帯を耳に当てたまま中に乗り、1というボタンを押そうとした僕の指を三郎の台詞が引きとめた。

「あーできれば、屋上とか上がれない?」

自分が押そうとしていたそれとは真反対の階が彼の口から飛び出してきて、意味が分からなかった。伸ばした指をいったん引っ込め、「屋上? 上がれなくはないだろうけど、何でまた?」と尋ねた。女子社員が春や秋は屋上で弁当を広げているのを知っているから、立ち入り禁止でないことは知っている。

(けど、こんな時間に大丈夫かな?)

こんな夜も遅くに屋上に行くだなんて、怪しい人でしかない。そう考えると乗り気になれなかった。せめて訳だけでも聞かせてくれればいいのに、三郎は「いいからさ」と言うばかりで理由を教えてくれようとはしなくって。だから、ますます屋上の階を押すことができずにいる僕を、硬いアナウンスが急かす。「ご利用の階のボタンを押してください」と。

「いいから。雷蔵に見せたいものがあるんだ」

その言葉に、僕は屋上へと繋がる最上階のボタンを押した。下に行くつもりで呼んだために混乱した機械は暫くその場で留まり、けれども、やがて扉が閉じると同時に機能しだした。繋がったままのラインに向かって、「見せたいものって?」って尋ねるけれど、彼はそっと笑うだけで。

「三郎のケチ」
「直にすぐ分かるから」
「だったら、今、教えてくれたっていいのに」
「えー内緒」

そんなことを繰り返すうちに、エレベーターは目的の階へと到着してしまった。やっぱり、下に降りるよりも上に上がる方が早い。普段、あまり来ることのない階のせいか、庫内の光が扉から漏れ出て廊下を照らすだけでドキドキする。僕はここの人間なんだから悪いことをしているわけじゃないのに、話し声からバレたらなぁ、と一度三郎からの電話を切ろうかと思った。けど、切ってしまえばそれはそれで、心細くて。まだ人のいる気配に、そっと足音を忍ばせると同時に受話口を押さえながら、僕は屋上へと繋がる非常階段へと向かった。

(まさか、いきなり警報が鳴りだすとかじゃないよね)

当然施錠されているそれに緊張はピークを達していた。漏れ聞こえてしまうんじゃないか、ってくらい、速い鼓動を指先にまで感じながら、そっと、開ける。かちゃ。やけに大きく響いた気がした。重たい扉を引いて非常階段に出れば、濃とした闇が僕を出迎え、ようやく、押さえていた通話口からもう片方の手を離した。もっと寒いかと思ったけど、思ったより温かいようで穏やかな夜だった。

「外、出たよ。屋上っていうよりも、まだ非常階段だけど」
「晴れてる?」

三郎の問いに僕は辺りを見回してみる。まだ目の前には階段があって視界が拓けていないために、よくは分からない。けど、少なくとも身には雨は当たってないし、上を見上げれば雲はなさそうで、優しい黒が広がっている。とりあえず「晴れてる、と思う」と答えながら階段を上がり、ようやく慣れてきた目で闇夜の中、屋上を目指す。

「けど、それがどうしたの?」
「よかった。なら、見れるな」
「だからさ、見せたいものって何?」

しつこく質問を重ねる僕に、彼はそっと笑った。闇が、揺れる。

「じゃぁ、ヒントな。願い事、決めておいてくれ」





闇よりも優しい夜。

title by 星が水没