※Route66シリーズ



昨夜は嵐のような雨だった。まるで船酔いをしてしまうんじゃないか、ってくらい風に強く揺らされて。僕の住んでいる古いアパートも心配だったけど、それ以上に大丈夫かな、って思ったのは彼の家だった。元々、屋根が傷んでいて普通の雨でさえ雨漏りをするのだ。瓦の一枚や二枚、飛んでいってないだろうか、と思いながらごぉごぉと揺れる闇の中で眠りに就いた。目を覚ませば、すっかりと雨は上がっていて、昨日のことは嘘のようにぴかりと磨かれた青空が広がっていた。枝から引き離された葉はびっしりと地面に貼り付けられているのを見て、僕はやっぱり三郎の家に行くことにした。

(床が腐っちゃうと大変だし……)

こうやって何か口実がないと三郎の家に行けなくなったのは、その家主がいないからだ。まだ一緒にいた頃、「好きなときに来ればいいよ」と彼は古めかしい装飾の鍵をくれた。特注の鍵だから合い鍵を造るのが大変だった、と笑う彼に僕はどうしてだか泣きたくなった。たぶん、倖せすぎて、涙が出そうになったのだと思う。

(けど、今は違う)

もともと開けるのにコツがいった鍵は、なかなか外れてはくれなかった。どっしりとした構えの玄関戸には、縦格子の合間に磨りガラスがはめ込まれている。その色合いは暗く、三郎の不在を示していた。それでも中に入ろうと、もう一度、ちょっとその木枠を浮かせないと鍵穴と合致しないのだ、と言っていたことを思いだして、ぐっと左の掌底に力を込めて押し上げやってみる。けれど、ちっとも、回らない。最初に触れた時に、ぱち、っと爆ぜた静電気も今や収まって、しっとりと僕の手の中に鍵が馴染んだ頃になっても、扉はなかなか言うことを聞いてくれなかった。

(あの頃みたいに、しょっちゅう開けてるわけじゃないからなぁ、勘が鈍っちゃったんだろうか)

合い鍵をもらってから、僕は毎日のようにこの家に入り浸っていた。別段、何か約束をしていなくても、当たり前のように僕の左手はこの重たい扉を押し上げていた。けど、今はこうやって、家の手入れをしておくために、という大義名分がなければ、もしくは何かに突き動かされなければ、なかなかこの家に来ることができなかった。

(別に、前と何にも変わらないのにな……)
あの頃と何がどう違うのか、って問われると、正直なところ分からなかった。あの頃だって三郎はよく旅に出ていて家を空けることはざらだったから、三郎がいないと分かっていてこの家を訪ねることもよくあった。それと今の状況は変わらないはずなのに。なのに、僕はそれをしなくなった。いや、できなくなった。----------春に、三郎が南の国に行ってしまってから。

「寒いなぁ……さっさと中に入ろう」

いくら陽の中だとはいえ、この時期だ。歩いてきたために温まっていたこの体も、なかなか開かないためにすっかりと冷えてきてしまった。焦りに鍵を握る手の中だけは熱いけれど。早く入りたい、という思いがようやく通じ、がちっ、と凹凸が合う音が響いた。ぐっ、とさらに持ち上げるようにして扉を開ける。

(やっと開いたやー)

すっかり冷たくなった体を抱え、さっさと中に入ろうと思いながら、僕は鍵を抜いた。彼がこの家を出て行くとき僕は鍵を返さなかった。別れの日はバイトに行かなきゃいけなくてバタバタしてたけど、決して返し損ねたわけじゃない。返さなかったのだ。「帰ってくる」とも、「待ってて」とも言われなかった。だから僕も「帰ってこい」とも「待ってる」とも言わなかった。

(けど、本当は「帰ってこい」とか「待ってる」って言いたかったのだと思う)

だから、鍵を返せなかったのだろう。

「はぁ……」

余計なことを考えて突っ立ってないで、さっさと中に入ろう、と思って足を浮かせたけれど、何て言って入ればいいのか分からなくて、僕はその場に足裏を戻した。「ただいま」でないことは確かなんだけれど「おじゃまします」は他人行儀すぎる気がして。結局、迷った末に、無言のまま扉をくぐった。閉めるのは開けるときほど力はいらない。片手で押し戻せば、中に入ればちょっとは温かいかと思ったけれど、外と変わらないような気がした。はぁ、と零れた息が、くるり、と白い像を作る。まるで幻のようだ。もしくは幽霊。化けてでも出て欲しい人は、ここにはいない。

(……死んでいる、ってことはないと思うけど)

夏に帰る、と連絡をもらってから、三郎の連絡は途絶えている。帰ってくる、と言ったのに、三郎は帰ってこなかった。その国でストライキが起こって飛行機が飛ばなかったのだという。そのことを僕は彼の親代わりである伝子さんから教えられた。慌ててネットでニュースを検索してみれば、ほんの10秒も経たないうちに、それが嘘じゃないことを知った。けど、わずか三行の記事では、三郎の身に危険が迫っているのかそうじゃないのかは判別できなかった。分かったのは、三郎が帰ってこない、ということだけだ。ただ、どのみち、彼が僕の元に戻ってくるというつもりじゃなかったのは、その後に伝子さんが続けた一言だった。

「代わりに後期も休学届けを出しておいて、って頼まれたから、今日、出してきたのよ」

帰ってきたとしても、あくまで一時帰国のつもりだったのだろう。それでも、会いたかった、と思うのは、面と向かって三郎と話をしたかったからだ。逃げない、と覚悟を決めることができたわけじゃない。けれど、あの晩、三郎からの電話を受けた瞬間、思ったのだ。ちゃんと話そう、って。------------------これまでのことを、そして、これからのことを。

(なのに、ちっとも、帰ってこないし……)

諦めることができればこれほど楽なことはない、そう思いつつも、僕は鞄の内ポケット、ちゃんとファスナーがあって落とさないところに鍵をしまった。



***

(うぅ、寒い……)

あの後、結局、意味もなく僕はあの寒い三郎の家で一日を過ごした。南側の部屋はまだ陽が差し込んできて温かそうだったけど、一通り、家の中外に異変がないかを見て(いつも通りの箇所が雨漏りして濡れているだけだった)、その後はその日当たりのいい部屋ではなく電話が置かれている部屋で僕は待った。-----------もちろん、電話が鳴ることなんてなかったけれども。そうして、あっという間に日は落ちて、物の境界が薄闇に滲む頃、ようやく僕は腰を上げた。

(もう帰ってこないつもりなんだろうか……)

上手く凹凸が合わない鍵を何とか回して鍵をはめ、それを鞄に厳重にしまおうとして。かしゃり。凍り付いた指先から滑り落ちた。哀しい予感。でも、もう、そろそろ覚悟を決めなければいけないのかもしれない。伝子さんから教えてもらったことが本当ならば。もともと半年だけ放浪するつもりで出していた休学届けが延長された、ということは、つまりは、あと半年は彼は戻ってこないだろう。

(そのまま、もう、戻ってこないのかもしれない)

大学に何年、籍を置いておけるのかはしらないけれど、でも、次は休学届けが退学届けに変わるかもしれない。帰ってくるという保証はどこにもない。いつまで待ったって帰ってこないかもしれない。「帰ってくる」とも「待ってて」とも言わなかった。もしかしたら、こうやって待つことすら無駄なのかもしれない。------------そうと分かっているのに、また僕は地面に落ちた鍵を拾い上げて、鞄の内ポケット、決してなくさないようにと大事にしまった。

(バカだなぁ)

自分を嗤いながら、すっかりと暮れた街まで出ていこうと足を踏み出す。葉の赤と黄と路面の黒の斑は、一秒とて同じ紋様を刻むことはなかった。この時期だけの、自然が創り出す色彩。朝はまだ濡れていて、アスファルトにつやつやと貼り付いたまま錦を織っていたけれど、今や完全に乾ききって、吹きさらす風にぐるぐると巻かれている。まるで自分の尻尾とじゃれ合う子犬のようだった。



***

しばらく歩いて街に出れば、すっかりとイルミネーションに飾られた木立が僕を出迎えた。その光にも負けない輝きを放つカップルを見ても、一年前は何とも思わなかったのに、今は左隣の空間が淋しい。街路樹の枝の隅々まで走る電飾をぼんやりと見ていると、ふわり、と枯れた空気に薔薇の匂いが混じった。

「あら、雷蔵じゃない」

この香りを纏っている人を、僕はたったひとりしか知らない。世界で一番、この香水が似合うのもまたこの人だと。振りかえれば「やっぱり」と綺麗に紅が引かれ整えられた唇が動き、そして片目をきゅっと瞑られる。ウインクだ。


「伝子さん」
「久しぶりねぇ、雷蔵。元気にしてた?」
「まぁ、それなりに」

僕らの年代ではなかなか目に掛かることの少ない、全身をファーで覆い尽くした格好はまさしく夜の世界に生きる彼女(一応男なのだが、彼女、と呼ばないと怒るため、彼女ということにしておく)はこのイルミネーションよりも周りのカップルよりも、誰よりも輝きを放っていて圧倒的な存在感をほこっていた。

「今から、お仕事ですか?」

その出で立ちから推測して訊ねれば、伝子さんは大きく縁取った目を緩ませて「そうなのよー」と答えた。それから、「雷蔵くんは? どこか出かけてたの? それとも、今から?」と聞き返してきて。しまったなぁ、と思う。三郎の家に行っていました、って言わなきゃいけないから。もちろん、偽るという手段がないわけじゃないけれど、このばちっとした目に嘘を吐くことはできないような気がした。

「……三郎の家に」

ぽそ、と呟けば、さっきまで爛々としていた目差しが曇った。一気に暗くなる。それこそ、イルミネーションの光が落ちてしまったかのように。それまで黄金比のような美しい形を保っていた唇は歪んでしまっていた。ぎゅっと眉を寄せて伝子は僕を見たまま、ゆっくりと息を吐き出すかのように問いかけてきた。

「……そう……まだ連絡ないの? あの馬鹿から」

血の繋がりはないのだ、と知っているけれど、『あの馬鹿』と口にする伝子さんの声音から滲むのはまるで息子を案じ叱るようなもので。心から心配しているのが伝わってきた。だからこそ、三郎も伝子さんを頼りにしているのだろう、そう分かって。何となく、伝子さんを見てるのが辛くなって、僕は足下に視線を落とした。

「うん……ってか、伝子さんの所に連絡がないのなら、僕の元に来るはずがないよ」

ぐるぐる回る落ち葉。僕を嘲笑っているのかのようだ。行き先の失った感情が、いつまでも僕の胸だけにこびりついているのかもしれない。もうとっくに三郎は僕のことなんてどうだってよくなってしまったのかもしれない。---------だから、伝子さんにはちゃんと「帰れなくなった」って言ったのに、僕にはもう一度連絡を取ろうとしなかったのかもしれない。

(三郎にとって僕は、もう声すら聞きたくない存在なのかもしれないな……)

「そんなことない」

不意に、鋭い声が飛んだ。びっくりして顔を上げれば、ぱ、っと世界が輝いた。電飾の光の色がちょうど変わった瞬間だった。伝子さんは、さっきと変わらず、まっすぐに僕を見据えていた。命のありとあらゆるものが燃えているような、灯火のような靭い光がその目には宿っていた。

「そんなことないわよ。だって、帰るならあなたの所だもの」





やさしいひと