※11月オンリーの無配に加筆修正



(うー、生きかえるー)

湯に浸からないよう足を浴槽の縁に引っ掛けつつ、残りの身を風呂の中に沈めるのは体勢的にかなりきついものがある。俺のアパートの浴槽が、たまたま、狭く浅いやつで、そこに腰かけを沈めて、なんとか辛うじて姿勢を保つことができたが、そうとうに辛い。この入浴の心地よさに勝るものはない。今なら、この国に生まれてきてよかったーってどこぞのCMにでも使われそうなフレーズを叫べるくらいだ。夏場だったらシャワーで済ますこともざらだというのに、たった一日だけ風呂に入らなかっただけで、体中が気持ち悪いと感じるのは、心から思うからだろう。生きててよかった、と。

(こんなに実感するなんて思いもしなかったよなぁ。さすがに事故った瞬間は、やばい、って思ったからなぁ)

しみじみと感じるのは、己の血のめぐりの温かさだ。走馬灯が過る、だなんて、ドラマか何かの世界かと思ってた。けど、違った。何とかしてバイクで走ってたら、急に猫が飛び出してきて。猫を避けようと車体を傾けた時には、もう、すぐそこまで壁が迫ってきていて。そこから、全てがゆっくりとコマ送りの世界になって。もう駄目だ、目を瞑った瞬間、確かに俺は見た。そして叫んだ---------兵助、と。

(まぁ、結構なスピードも出ていたから、それだけで済んだのは不幸中の幸いってやつだろうな)

結局、バイクはそのままおしゃかとなったものの、俺は足の指の骨をぽきっとやってしまっただけで済んだ。一応、頭を打ってるから、ってことで、一日だけ検査入院したけれど、他に特に異常も見つからなくて、さっさと退院の運びとなったわけだった。慣れない松葉杖も使いだせば、何とかなりそうで。俺って天才、なんてポージングを決めたものの、やっぱり、しばらくは日常生活に支障をきたしそうだった。

(まぁ、生きたら、それだけで十分だけどな)

最期になるかも、と襲われた恐怖は、ぎゅっと心臓に焼き付いていて。何をしたって、生きている、と実感を噛みしめてしまう。歩いていたって、飯を食っていたって、こうやって、風呂に入っていたって。だからだろう。普段は烏の行水だのなんだの、と揶揄される俺だが、今日だけはじっくりと風呂に浸かりたい気分だった。血が巡っていく感覚に、じんわりと感動する。ただ、ほわほわとした白っぽい湯気が、湯に浸からないように、と持ちあげた足を包んだビニル袋に纏わりつきだして。温度差のせいなのか、中が曇ってくるのが分かった。多少、濡れてもいいんだろうけど、そろそろ、無理やり上げていた足も辛くなってきて(何より、体勢が間抜けすぎる)名残を惜しみつつ、俺は腕にぐっと力を入れ、何とか持ち上げた。固定してある足は、浴室の床に着けても別段、痛むことはない。ただ、滑らないように(これでこけたら、マジ笑い話にしかならねぇ)気を付けながら、浴槽の縁を片手で支えつつ、もう片手で沈めてあった腰かけを引き上げる。

(どうやって洗うかだよなー)

ざぱぁぁ、と腰かけから滴るお湯を見ながら、後の手順について何にも考えていなかったことに気が付いた。タクシーで帰宅して、体に病院独特の匂いが染みついている気がして、とにもかくにも、まず風呂、ってして、とりあえず包帯とかが濡れないように、と足をビニル袋で包んだまではよかったが、その後、どうやって体や頭を洗うのかまでは考えていなかった。

(いや、一応、考えてはいたけどなぁ……)

と、不意に、脱衣所とつながっている扉が、開け放たれた。

「へ? え、ちょ、お前、急に」

そこにいるのは、兵助だった。突然の登場にパニックのあまり、言葉がどれも中途半端になっちまう。たしかに、どう考えたって片足で日常生活を送るには不便で、恋人である兵助をこのアパートに呼び出していて。風呂もひとりじゃ無理だから、頭なんかは洗うのを手伝ってもらうつもりでいた。ただ、「頭を洗う準備ができたら呼ぶから」と言ってあったはずで。何の言葉もなくいきなりバスルームに現れるとは思ってもいなくて。前触れもなにもない、あまりの急なこと過ぎて、呆然と兵助を見つめることしかできなかった。

(うぇ、なんで、兵助?)

呼び出したのは自分だったが、つい、そんな思いが胸を過る。パーカーの袖をまくりながら浴室へと入ってきた兵助の脚は、すでに裸足で裾はまくられていた。三歩も待たずして俺の背後に兵助が立った。ぴちゃん。背中で冷たさが爆ぜた。湯気が飽和し、天井ではびこって溜まった水が落ちたのだろう。は、っと、自分が真っ裸だったことに気付いて、慌てて腰回りをタオルで隠した。そんな俺に冷たい一瞥が投げられる。

「何恥ずかしがってるんだよ」

やべぇ、相当怒ってる。不機嫌オーラ全開の兵助に「いや、だって」と言ったものの、続きが出てこねぇ。そんな俺を「普段、俺が電気を消してくれって言う気持ちが分かっただろ」と兵助は睨みつけた。言葉面だけ見れば、夜の色情事を含んだ可愛らしい言葉なんだろうけど、そんな気配、微塵の欠片もねぇ。これで、もし、足が折れてなかったら、この場から脱兎のごとく逃げ出すであろう迫力に、俺は圧倒された。

(まじ、やべぇ。かなり怒ってる)

「ほら、頭洗うぞ。体、屈めろよ」

ねじ伏せるような眼差しに、俺は恐怖を覚えつつ、そのまま上半身を軽く折った。



***

わしゃわしゃわしゃ。兵助の後輩であるタカ丸さんが目を光らせられているくらい痛んでいる髪のことを、普段、気にすることはねぇ。痛むだのなんだの、って言われるが、正直、手入れは面倒だから、なすがままだ。だが、さすがに、そんな俺でも気になるくらいに、俺の頭を洗う兵助の力はきつかった。ぐ、っと頭を掴まれ引っ張られている感じに「痛ぇ」と叫びたいのは山々だった。

(けど、そんなことしようものなら、速攻で兵助にこの場に放置されるだろな)

予感じゃなく、確定事項なのが空しい。冬の風呂場に髪を途中まで洗われた男が、しかもすっぱだかで一人残される一人残される--------なんて、シュールにも程がある。だが、今の怒り狂いようだと、それが現実味を帯びていて、俺はぐっと、堪えた。

(にしても、何、そんなに怒ってるんだろうな?)

確かに、夜になって急に呼び出したのは悪いと思ってる。けど、自分ひとりじゃどうにもならないからであって。兵助に「今後は急に呼び出さない」とでも約束したら機嫌を直してくれるんだろうか、なんて考えが落ちるけど、それを口にできるような雰囲気とは程遠かった。

(ちょっと、今は黙った方が得策なんだろうな)

基本的に俺と喧嘩したり、怒ったりすねたりする時は、無口になってだんまりを決め込む兵助だが、いつも以上に、纏っている空気感が重たい。自分が悪いってのは明白なんだが、急に呼び出したこと以外に兵助の機嫌を損ねた理由が分からねぇから、謝るに謝れない。

(ってか、今、口開いたら、泡を食いそうだ)

ぽたぽたと浴室の床に落ちていく白。勢いよく泡立てられたために、そのまま跳ねとばされてしまったのだろう。俯いている自分の視界にどんどんと積っていくそれは、時々、俺の頬にも当たった。俺の髪を洗う手つきは段々と乱暴になっていく。さすがに、耐えきれなくて、

「ちょ」

そう咎めた瞬間------------------ざばっぁ。目の前が真っ白になる。飛沫で見えない。上から急にお湯が落ちてきていた。準備も何もしてねぇ俺は目を瞑る間もなくて。

「ってぇ」

慌てて目を手にやるも、時すでに遅し。そのまま洗い流されたシャンプーが目の中に入った。ぎゅ、っと瞑れば、逆効果だったようで。却って、泡の侵入を許してしまう。眼球を突き刺すような痛み。滲みる。あまりの痛さに今回ばかりは「何、怒ってるんだよ」と、目を瞑ったまま、首だけぐるりと兵助がいるであろう背後に回し、抗議の声を上げた。するとお湯の代わりに落ちてきたのはどなり声だった。

「怒ってるに決まってるだろ。急に電話が掛かってきて『事故に遭った』って言ったっきり、まる一日連絡が取れなくなるし。それでようやく連絡してきたと思ったら『風呂に入るのに手伝ってくれ』って」

そこで一度途切れる。まだ、じんじんと熱に痺れる瞼を開ければ、ずいずいと、排水溝へと引き込まれていく白。頼りない水音が浴室内から消えていく。泡が流されていく中、ぽそり、と兵助の消えそうな声がバスルームに響いた。

「死んだかと思って、心配したんだぞ。この馬鹿」




ばすたいむ叙事詩