鼓膜を破った振動がアラームのそれと繋がった頃、頭の痛みは最高潮に達していた。こめかみを捩じ切ろうとする脈動に、叩き割る勢いで携帯に手を振りおろす。だが、しばらくすれば、また、頭痛に同調するような音ががなりだつ。東の窓から差し込む太陽の光が、ひどく眩しい。昨日の朝、開けていったままのカーテンが視界の隅で私を嘲笑っているようだった。チカリチカリ、と瞼裏が黄色い光が揺れた。完全なる二日酔いだった。だいたい昨日の晩の、いや今朝方のことか。とにかく、呑んだ時の最後の方の記憶が全くない。

(むしろ、よくこの家に帰ってこれたよな……)

見慣れた風景にさすがに他人の家ではなさそうだ、と働かない頭で考え、水、とベッドから這い出して立った。すると、胃が、ぐるんぐるん、天地がひっくり返ったみたいに回って、ぐ、っと息を吸い込む。ひたり、と、まだ温まりきってない空気が転覆しそうな体内を宥める。とりあえず波立ったものが収まったのを感じて、キッチンへと一歩を踏み出した。まとまりきらない頭でしなければならないことのリストを挙げつつ、のろのろと歩みを進める。

(はぁ。とりあえずバイト先に辞めること言って、あ、あと大学にも休学届を出さないとな。それより、)

雷蔵。彼の柔らかで汚れの知らないまっさらな笑みが脳裏をよぎる。いつ、伝えようか、そんな迷いと共に。けれど、壊れそうな頭の軋みと意識よりもずっとずっと深いところにそれを押しこめた。今はまだ彼のことを考えるのは止めておこう、と自分に言い聞かせつつキッチンのドアを引き開けて--------ちょっと驚いてしまった。すん、と胸いっぱいに広がる薔薇の香水。伝子さん、だ。この時間は誰もいないはずのキッチンに伝子さんがいた。伝子さんは大きなダイニングテーブルのくせに二つしかない椅子に座っていた。ぽつん、と天板に置かれたウィスキーグラスには、まだ微かに琥珀が残っていて。陽の光に、黄金色の翳を落としていた。そのグラスの前で、伝子さんは右手で頬づえをついて、左手の指の間でまだ火の点いていない安っぽい煙草を転がしていた。そして、随分と、厳しい目を携えて遠くを見ていた。

(こんな表情すると、男みたいに見えるな……なんて口にしたら殴られるだろうけど)

ふ、とそんな感想を持つ。正確に言えば生物学上、伝子さんは男なのだから、男みたい、というのは可笑しな話なのかもしれないけれど、一応、伝子さん本人が言うには、性別は男だけれど、見た目は女で(時々髭を剃り忘れているが)、恋愛対象は、今は男の人だそうで、一応女として生きていきたいらしく、男らしいなんて言ったら鉄拳ものだった。確かに、仕草や表情だけ見ればアカデミー女優も真っ青だろう。けれど、私にとっては伝子さんは伝子さんだった。物心ついた頃から伝子さんは伝子さん以外の何者でもなくて。性別は伝子さん、というくらいに感じているから、今の伝子さんの表情は男みたいに見える、というのはあながち間違いでもない、と思う。そんな伝子さんと私は『家族』だった。血は繋がっていないけれど。けれど、血の繋がりだけが家族とは違うのだ、そう教えてくれた、私の大切な大切な『家族』だった。

(いつか、雷蔵ともそうなれればよかったのにな……)

叶わぬ『家族』の風景を瞼裏に浮かべれば、ひそ、とそこが濡れた。



***

「あら、三郎」

ドアの前でぼんやりと突っ立っていた私に気づいたらしく声を上げた伝子さんはこちらを向いていた。その眼差しは、すでに緩んでいて、さっきまでの厳しい色は微塵も残されていなかった。きちんと造られた美しい弧を描いた唇が「随分、早いのね」とからかいめいた言葉を紡ぐ。ダイニングに掛けられた時計を見遣れば、普段の自分の生活を考えれば確かにまだ夜明けと所だろうか。1コマ目の授業が入ってでもない限り、決して起きるような時間ではなかった。

「珍しいわね」
「伝子さんこそ。もう、とっくに寝てるかと思ってた」

夜の仕事をしている伝子さんは、夜更かし気味の自分が眠りの底にたどり着いたくらいに帰ってきて、シャワーを浴びて寝る生活をしていた。のそのそ私が起き出す頃に聞こえるのは、高鼾ばかりで。ゆっくりと顔を合わせることができるのは、伝子さんの仕事が休みの日だけだった。------それは、私が伝子さんの家を出る前からそうだった。そして、この家から離れても、終電を逃せば繁華街に近い伝子さんの家に転がり込むことが時々あったけれど、たいてい、店じまいをしてから帰ってくる伝子さんとはすれ違いばかりで。

(こうやって朝から会うとか、何か不思議な感じがするよな)

伝子さんの趣味で取りつけられた花柄が編み込まれたレースのカーテンから差し込む日の光の中で、伝子さんだけが、浮いて見えた。帰宅用にきちんと整えられたメイクを落としていないのだろう、夜の蝶のままの伝子さんは、この場にあまりに似合わなかった。

「まぁ、色々あってね。もうちょっとしたら、シャワーを浴びて寝るわ」

ぼそり、と呟いた伝子さんの少し疲れたような肌に、年齢を変に感じてしまう。けれど、そんなこと言ったら、それこそ殴られるだけじゃ済まなそうだから口が裂けても言わないが。ただ、歳月だけを感じていた。

「三郎は、今日は授業?」
「いや。けど、ちょっと、行くところがある」
「そうなの。あ、でも、今、朝ごはん作るから食べていきなさいよ」

そうやって椅子から立ち上がる伝子さんは、朝の光の中であまりに綺麗で。本当は結構、時間がギリギリだったのだが、私は断るタイミングを逸してしまった。


***

伝子さんの代わりに座った椅子から、鼻歌交じりでキッチンに立つ伝子さんの背中をぼんやりと見つめる。カップスープだけでいい、と言ったのだけれど、久しぶりにこうやって顔を合わせたのが嬉しいらしく「もうちょっと朝食らしいものを作るわ」とはりきっていた。これで脛毛でもなかったら、本当にどっかの母親みたいだ、とエプロンまで着けた伝子さんの後姿に思う。

(まぁ、実際、自分の母親の顔なんて知らないんだけど、な)

伝子さんがテーブルに残したままの煙草とライターを手にして、けれど、結局、火を付けるのは止めてしまった。そのまま灰皿にこすりつけるようにして潰す。意味は特にない。まだ汚れていないフィルターがやけに目立った。

(意味なんてないのに、な)

やかんに水を入れコンロで沸かし始めた後に、冷蔵庫から取り出した卵を片手に伝子さんは「目玉焼きでいいかしら?」と俺の方を振り向いた。私が「半熟なら」と我儘を口にする前に伝子さんは「半熟で」と付け足した。この家で暮らしていた頃のことをちゃんと覚えてくれているのだ、と思うと、ちょっと泣きたくなった。物心ついた頃から伝子さんのことを知っていたけど、実際に一緒に暮らしたのは高校の3年間、しかも朝食を共にしたのは数えるほどだけだというのに。

「……あ、そうそう。今日、こっちに帰ってこれる?」
「帰ってこれるけど?」
「なら、7時ぐらいに帰っていらっしゃい。今日、私もお店休みだから、久しぶりに三郎と一緒に食べたいわ」

柔らかい眼差しを私に向けた伝子さんは、それからフライパンを片手にコンロに立った。広い背中。そこに向かって「……あのさ、」と話しかける。私に対して戻ってきた伝子さんの「なに?」という言葉は背中越しだったけれど、ちゃんと聞いてもらっているという安心感があって。

「伝子さんも、失恋したことって、ある?」

つい、そう聞いていた。聞いてしまってから、しまった、と目を伏せる。勢いよく跳ねる、サラダ油。じゅ、と小気味いい音が耳を浸していく。健康と美容のことを考えてか、脂肪がつきにくいというそれをバックミュージックに、頭の中で、想像する。目玉焼きの縁が、ちりちり、巻き上がって。少しずつ少しずつ、狐色とは違う色に焦げていくのを。

-----------------まるで、恋の終わりのように。


「なに、突然。失恋でもした?」

思考を読まれたのか、と焦って顔を上げれば、ふふ、とその形のいい唇が笑いを刻んだ。

「……そりゃ、私だって失恋の一つや二つ、あるわよ」
「どんな風に?」
「どんな風にって、そうね……そういえば、あなたのお父さんにも失恋したわね」

火にかけていたケトルが激しく鳴いて、お湯が沸いたことを主張していた。その最中で突然なされた衝撃の告白に、私はただただ驚きに目を見張ることしかできなかった。伝子さんと父親が親友だったのは知っているけれど、まさか、そんな展開があっただなんて。そんな私の驚きを余所に、コンロからやかんを下ろしつつカラリとした調子で、伝子さんは淡々と続けた。

「あの頃は、失恋するたびに世界が終わったって感じがしてたけど」

でも、と一呼吸、置いて。

「今じゃ、それもいい思い出よね」

カチャカチャ、金属と陶器が擦れ合う音だけが存在していて。やがて「はい、三郎」と手渡されたのは、この家に残していった自分用のカップだった。そこに注がれた、淡いクリーム色の液体はとても優しい香りを漂わせていて。ほわり、と白い湯気が柔らかな朝の光に消えていく。凍りついた指を、ゆっくり温めていく。

「雷蔵くんと何があったのかは知らないけど、あんまり、飲みすぎないようにね」
「……ありがと、伝子さん」

ほどけたのは、冷たい指先だけじゃなかった。ぽつり、とカップスープに溶け込んだ涙。凍てついた心も溶け出していた。




かっぷすぅぷの優しさ