※無配に加筆したものです。



「なぁ、なぁ、兵助。星を見に行かねぇか?」

そう問われ、頷いた俺が連れて行かれた先は、プラネタリウムだった。子ども三百円。バス代を合わせれば五百二十円。てっきり、夜に家を抜け出してどこかに見に行くのかと思っていた俺は拍子抜けしたけれど、けれど、小学生の俺にとっては、まるで小旅行というか大冒険のようなものだったのだ。

「何、そんなこっそり隠れてるんだ?」

待ち合わせも何も隣に住んでいるのだから、何となく聞こえてくる音でだいたいの気配を掴むことができる。どたばたと階段を登ったり降りたりする響きを壁伝いに感じて、俺は玄関を出た。あと三分といったところだろうか。隣家の門扉がはめ込まれた石柱に体を隠すようにしてハチが出てくるのを待っていると、きっかり三分後、不思議そうな面持ちでハチが俺を見つけた。

「だって、校区外だし……」

四月当初に必ず教師から言われる『校区に子どもだけでは出てはいけません』という学校のきまりを思い出して告げると、「兵助は真面目だなぁ」とハチは皓い歯を見せた。こちらを馬鹿にするような、揶揄するような笑いじゃなかったけど、その後の「俺なんか、もう、3回も言ってるぜ。三郎たちとさぁ」という自慢げな言い回しに、カチンときた。

「先生に言ってやる」
「わ、それはなし! 前に見つかって、めっちゃ怒られたんだからな。あの時は『初めてだから』ってトイレ掃除の罰だけで済んだんだし、二回目はないって言われてるし」
「冗談だって。というか、今回のを言ったら、俺もばれるじゃないか」

慌てたように手をぶんぶんと振り回しているハチに、そう告げれば「あぁ、そうか」と安堵したように腕の動きを収め、胸前のシャツを彼は握りしめた。それから「他のもバレたら三郎に怒られる」と漏らすハチに、つきり、と胸が小さく痛んだ。

(……なんで、痛いんだろう)

今までに経験したことのない痛みは、心臓の裏側の、どうにもこうにもできないような場所に覚えた。もしかして何か悪い病気なんじゃないだろうか、と、こっそりパソコンで調べてみたけれど、当てはまるような結果は得ることができなかった。

(ただ、感じるのは、ハチといる時ばかりだ。ああやって、ハチが楽しそうに他のヤツの名前を語る時)

生まれた時からずっと重なっていたと思っていた道が初めて別れたのが、この四月だった。幼稚園から一緒だったというのに、六年生になって、初めて違うクラスになった。最初は「休み時間は遊ぼうな」と言っていたハチも『三郎』や『雷蔵』といった新しい友人と過ごすことの方が多くなった。俺自身も勘ちゃんという親友ができたから人のことを言う資格などないのかもしれない。けど、ハチが「悪ぃ、明日は三郎たちと遊ぶんだ」と言われてしまえば、中々、その輪に入っていけずにいた。

(幼なじみじゃなければよかったんだろうか?)

いつだって会って遊ぶことができる、ってポジションだから、ハチと約束した事なんて今までは一度もなかった。いつも一緒に帰ってきて、そのまま、どっちかの部屋に行ったり遊んだりするのが当たり前だった。--------けど、当たり前なんて、どこにもなかった。今じゃ、こうやって「遊びに行こう」と決めなければ、一緒にいることができない。約束しなければ、努力しなきゃいけない関係にいつの間にかなっていた。そうして悟った。ずっと重なっていたと思っていた道は、本当は平行だったのだ、と。一度だってその『幼なじみ』という距離が一度だって重なったことはないのだ、と。

***

「何買ったんだ、兵助」
「ん、星座早見」

学校で購入希望出さなかったけど、やっぱり欲しくなったから、と鞄に入り切らなくて手で持っていたミュージアムショップの紙袋を撫でた。ハチの眼差しが興味に溢れていて、俺は袋から星座早見を取り出した。がさり、と音を立つけれど、辺りの大人がこちらを気に留めることはない。すっかりとくたびれたサラリーマンやOLで埋もれたバスの車内は人によって立林されていて、俺たちの視界にはスーツや鞄しか映らない。混雑しきっているのを見ると、最初に座ることができて幸運だった。

「これがわし座で、こっちがこと座?」
「そう。それに何座を加えれば夏の大三角形になるか覚えている?」

夏休み前の理科で習ったことをハチに尋ねると、しばらく、ハチは頭を抱えて唸っていた。俺が盤面で三角を結び「正解は、はくちょう座」と告げると、ハチは「そんなん習ったっけ?」と頭を傾けた。いくら何でもそれは習ってるだろう、と指摘すると「俺のクラスは習ってねぇって」と唇を尖らせる。

「けど、今日のプラネタリウムでも言ってただろ」
「あー、そうだった、な」

気まずそうに言葉を濁らしたハチはそれから、蒼い円形の中で煌めく星に指を置いた。はくちょう座を見遣りながら「俺の目でも見えねぇんだよなぁ」と呟く。1.5ある、と視力検査の度に自慢してくる彼としては、今日のプラネタリウムのプログラムには衝撃を受けたらしい。---------見えない星があるのだ、と。

(まぁ、人間の目で見えるのは って習ったのは突っ込まないでやろう)

そうと知っていた俺も『二重星』という話は初耳だった。二つのバラバラの星が地球から見るとその距離の近さに、一つの星に見えることがあるのだという。---------距離が近いといっても、宇宙規模で考えれば、であって本当の距離は気が遠くなるほど離れているのだけれど。

「望遠鏡でなら見れるらしいけど」
「望遠鏡かー。欲しいけど、ぜってぇ高いよな」
「まぁな……けど、いつか、この目で本物を見たいな」
「あぁ、なら見に行こうぜ」

約束な、と柔らかい笑みを浮かべたハチに俺も「約束だ」と告げ、夜の始まりのような蒼い盤面に輝く二重星を見遣った。いつか、本当の星をこの目で見るのだ、と。ハチと二人で、夜空にこの星を探すのだ、と。



***

あれから六年。高校三年生になった俺はまたハチに誘われた。「星を見に行かねぇか?」と。努力しなければ、約束しなければならない関係は、今も変わらない。むしろ、もっと退行しているのかもしれない。成長し、時が経つにつれて、果たされない約束が増えたから。だから、もう、あの約束は忘れられたんだ、とそう思いこんだだけに、ハチに「ほら、昔、約束しただろ。二重星を見ようって」と言われた時には驚いた。

「今回は、本当に星なんだな」

俺がぼそりと呟くと、借りてきた望遠鏡をいそいそと覗き込んでいたハチは「えー?」と、俺に目をくれることもなく答えた。何でもない、という声まで凍り付きそうな真夜中。睫が自然と瞬いては乾風に浚われる目を潤そうとする。昼の名残など消え去ったコンクリートは俺とハチ以外には誰もいない。今回も小旅行ではなかったけれど、やっぱり今回も大冒険だった。

(よくもまぁ学校に侵入できたものだ)

見つかったらどうするんだ、という言葉は、ハチの「なら、一緒に処分を受けようぜ」なんていう笑顔の前にあっさりと屈した。結局、高校まで同じ道を選んできたものの、以前よりもずっとずっと一緒にいる時間が短かったから、素直に嬉しかったのだ。こうやってハチの傍にいられることが。

(ずっと、こうやって一緒にいることができたらいいのにな)

ふ、と淋しさを握りしめる指先が冷たくて、温もりを探していた手は、けれど「お、雲が切れて、見えてきたぞ」と振り向かれたことにより、彼のすぐ傍で宙を掴んだ。凍り付いた空気にじんじんと痺れる。

「あれって、はくちょう座の二重星だよな」
「んなこと言われても、俺は見えねぇって」

見上げた空に撒かれた星は澄み切った空の中で幽かな音を立てているんじゃないかってくらいに瞬いていた。ハチに誘われた日からずっと探したけれど、結局見つからなかった星座早見。けれど、あの日見た盤面の星の記憶を手がかりに、はくちょう座がないか目を凝らす。特徴的な明るい星と形にこれだろうか、とハチに確かめようとすると、

「望遠鏡で見ればバラバラなのがよく分かるなぁ」

楽しそうに望遠鏡に心を奪われている何気ないハチの言葉に、ぐるぐる巻きにしたマフラーの毛糸がちくりちくりと俺の喉を塞いだ。----------バラバラ。決して重なることのない、別々の星。それが二重星。あの日、プラネタリウムで聞いた言葉が今になって甦る。

(来年、俺たちは、遠いどこか別の場所で星空を見上げているのだろう)

だろう、というのは、ハチの行き先を聞いていないからだ。怖くて聞けなかった。そして、俺自身も言っていない。家を出ることを、ハチの隣から離れることを。果たされた約束を喜ぶよりも先に淋しさがぽっかりと俺の心を巣食う。

(もう、どうやったって、重なることはないんだ)

あの年に気づいた俺と彼との距離は、この十八年間、一度だって一定以上に近づいたことがない。色んな奴に「お前ら、本当に仲がいいよな」って言われるけれど、けれど、この距離は確かに存在して、重なることはないのだ。まるで、この白鳥座の二重星みたいに、一つに見えて、決して一つになることはない。そう思ったら、駄目だった。

「な、兵助も見てみろよ、……って兵助? どうしたんだ?」

覗き込んでいた接眼レンズから顔を上げたハチから焦った声が飛んでくる。望遠鏡で見ているわけでもないのに一つの星が二重に滲んで見えた。気が付けば泣いていた。泣き顔を見られたくなくて俯いた俺をあやすように俺の背を撫でる、その手の温かさが痛くて、ぐっと唇を噛み、顎を上げる。-----------ずっと好きだった。本当は、ずっと、一緒にいたい。けど、

「あ、流れ星」

ハチの声。目を灼く鮮やかな光。ひゅん、と、祈る間もなく落ちていった流星に俺は希った。どうかこの距離を埋める勇気がでますように、と。




離角34.6