※無配に加筆したもの。Route66設定。



「サブロー、何読んでるんだ?」

指さしのジェスチャーを含めた片言の英語が上から降ってきた。顔を上げれば今日親しくなったばかりのドイツから来た奴だ。バックパッカー向けの宿のいいところは、こうやって世界中の誰かと友だちになれることだろう。共通言語が多少怪しくても、お互い様なわけで、必要なのは言語力というよりも表現力だろうか。興味津々と覗き込む彼に、私はその文庫本を掲げて見せた。もちろん、日本語を読めるはずもなくて。

「何て書いてあるんだ?」

表題に書かれた漢字を目線でなぞりながら彼は尋ねてきた。元は有名な洋書だ。洋書というか児童文学か。私が「八十日間世界一周」とタイトルを英語で告げると、あぁ、と彼は理解したように頷いた。それから昔に一度だけ読んだことがある、と続けた。まだ何かを言い継ぎ足そうとしていた彼は、不意に目を揺らせ、苦笑いを浮かべた。

「今どき、80秒間で世界一周ができるんだってさ」
「80秒間で?」

まさか、という揶揄を込めて語尾を上げれば彼は「ほら、ネット上の話しさ。何かそういう動画があるらしい」と、薄い笑みにさらに口の端を引き上げた。クリック一つで世界中の光景を見遣ることができる世の中なのだ。世界一周なんて、画面上ではずいぶんと容易いものなのだろう。

「ネットで80秒、なぁ……私たちみたいに、こうやって世界を旅するヤツはいなくなるかもな」

冗談交じりに口にしただけだというのに、「そんなことはない」と鋭い声が飛んだ。さっきまで温厚な面立ちをしていた彼は、やたらと厳しい表情をしていた。下がった眉に切り結ばれた唇、血が上ったためか赤らんだ膚、断絶する眉間の皺。あまりの変容ぶりに「悪かった」と告げれば、彼は低く唸った。

「実際に旅をしてみないと分からないことが、たくさんあっただろ。旅を通じて出会うことのできた人や光景もたくさんあるし、色々と感じたこともあったはずだ。映像だけでは決して知ることのなかった世界があったはずだ。違うか?」

違わない、と俺は短くそれだけを告げた。彼の言うとおりだった。旅に出て、たくさんの人と巡り逢って、様々な光景と遭遇してきた。そうして、いつも感じたのだ。-----------------雷蔵に逢いたい、と。今、私の隣に雷蔵がいればいいのに、と。

(誰と出会ったって、どこにいったって、雷蔵が足りない)

私が黙り込んでしまったのを気圧されたと勘違いしたのか、彼は「悪い。急に怒鳴って」と頭を下げてきた。違うのだ、と否定してもよかったが、そうすると雷蔵の話に言及しなければならない気がして、私は「いや」と、どうとでも取れる言い回しを口にした。-----------私は、ずっと雷蔵の存在を隠していた。



***

「なぁ、サブローはどうして旅をしているんだ?」

立ち替わり入れ替わり、滔々と流れる川のように人々が流入し、そして出ていく宿で、それでも人々が繋がっていくのは宿に談話室があるからだろう。そこでは、毎晩のように誰かの歓迎パーティーがあり誰かのお別れ会があった。何かと理由を付けては酒を飲み、片言の英語と身振り手振りで、語り笑い合う。通りすがりの、二度と道が重ならないであろう、という関係だからこそ本音をぶつけることもできた。--------けれど、どうしても、その理由だけは話すことができなかった。どうして、旅をしているのか、という理由を。

「どうしてって言ってもなぁ……」

いったい何度目だろうか、この問いかけをされるのは。まず聞かれることは名前と出身地。大抵は私の名前を正確に言うことはできず「サブロー」と呼ばれる。私が私でなくなるようなそんな気持ちに少しだけなる。淋しさとも安堵とも違う感情の名前を付けることはできない。ただ、『鉢屋三郎』と『ハチヤサブロー』の差はあるような気がするのだ。雷蔵が私の名前を呼ぶときとは、決定的に違う何かが。それはともかくとして、やがて親しくなる頃に必ず聞かれた。どうして旅をしているのか、と。

「ほら、何か理由くらいあるだろ?」
「理由なぁ……見識を広げるため?」

わざと首を傾げれば、すぐさま一緒に談話室で話していたほかの連中からブーイングが飛ぶ。

「うわ、何、その優等生的な回答」
「だよなーおもしろくない」
「はぁ? お前ら、私をなんだと思ってるんだ」

ヤジを混ぜっ返すのも、いつもの一連のやり取り。こうやって誤魔化すのも、ずいぶんと上手くなったものだ。何度も何度も聞かれてきたからだろう。最初は、取り繕うことができず、かといって、本当のことを口にできるほどの強靭さはなくて、固まることしかできなかった。だが、今はこうやって相手に応じることができる。

「本当のこと言えってサブロー」
「本当も何も、事実だから」

嘘ではない。見識を広げたい、というのは、ずっと思っていたことだ。いつか世界を放浪したいと幼い頃からずっと憧れていたのだから。魂に烙かれているみたいに焦がれていたのだ。外の世界に。ただ、それが旅に出た理由の全てじゃなかった。------------私は、雷蔵から逃げ出したのだから。



***

そう。この宿でウマが合って親しくなった彼ですら、雷蔵のことをひた隠しにしていた。その事に対する後ろめたさに浸食されていると、それまで私に向けられていた視線の行き先が変わった。やや下方になったせいか、彼の薄い色素の睫が柔らかな影を肌に落とす。注がれた眼差しは、本一点に集まっていた。

「その本さ、日本から持ってきたのか?」

私は読み途中だった頁に挟んでいた指の代わりに栞を差し込んで、それから「あぁ」と頷いた。ひょい、と現れた裏表紙には、幼い、たどたどしい文字で『不わ雷ぞう』と漢字とひらがなとが並んでいる。小学生のうちは、何でも記名するように言われるが、まさか朝読書の時間に読む本まで名前を書くことは想定してなかったのだろう、親ではなく雷蔵が記名したためにまだ習っていない漢字はひらがなになっていた。

(まぁ、これは、勝手に借りてきたから、あくまでも予想だが)

「これって、漢字だろう」

雷蔵の名前を見たドイツから来た彼が自慢げに口を綻ばせた。彼が元とする言葉とも英語とも違う独特の形状はやはり目を引くらしい。ただ、日本語とは分かったものの、何が書いてあるか、その文字がどんなことを意味しているのかまでは分からなかったらしくて、まるで一筆書きのように漢字を指で辿りながら彼は問いかけてきた。

「何て書いてあるんだ?」

私は、ためらった。そこに書いてある文字を読むのは簡単だ。けれど、自分の脆弱さゆえに離れた大切な人の名を、何の感慨も持たずに呼ぶことなどできるわけない。-----------------ずっと呼びたくて、けれども、呼べずにいる彼の名前を。

「なぁ、サブロー」

口を閉ざしてしまった私を、けれども彼はしつこくせっついて、頑として絡め取った視線を私から放そうとはしなかった。ヤツの粘り強さはこの数日で十分に実感している。そこで、彼に私は「これに書いてあるのはな、」と一つだけ確かな言葉を告げた。

「愛してる」

一つ一つの音に命の息吹が込められ、それが花咲くような響きだった。自分で発したくせに、その言葉が奏でる優しさに私は驚くと共に痛感する。彼の名前ですら、こんなにも愛おしいのだと。私の口元に意識を注いでいた彼は、やがて、今にも壊れそうなものが掌にあるときのような、そんな面持ちで呟いた。

「アイシテル?」

私を真似た片言のそれは疑問系だったから、私は言いなおした。断定口調で。

「愛してる」

納得したのか彼はひたすらにその「アイシテル」という言葉を繰り返した。幼子が初めて言語を獲得したときのように目を輝かせてそればかりを口にしている。アイシテルアイシテルアイシテル……。異国の呪文のようだった。そのフレーズを私も唱えたら、目の前に雷蔵が現れるんじゃないか、ってくらいに、美しい言葉だと思った。

「なぁ、サブロー。この話ってさ、途中で出会った人を妻にするんだったっけ?」
「あぁ、確かそうだった」

昔、一度だけ雷蔵に借りて読んだときは、そんな結末だったと思う。莫大な財産を持っていた男が賭けのために世界を一周していく冒険活劇だったけれども、その途中で出会った人と最終的に結ばれるのだという、綺麗すぎるほど美しい話しでもあったのだ。

「そう思うと、主人公は倖せだよな。財産を使い果たしてでも、旅をした価値があったわけだ。世界で一番大切な人と旅で巡り会えたのだから」

羨ましそうな口調の彼を私が「何、お前、運命の人でも探しているわけ?」と、からかえば、緩んでいた面持ちが一気に引き締まり、真剣な色が目に宿った。そのあまりの真っ直ぐさゆえに、私は直視できなくて逃げるように手元の本を見つめる。ゆっくりと彼が語りかけてきた言葉が、俺を穿った。

「俺を倖せにしてくれるヤツがいるなら、他に何もいらないだろ」

ふ、と、本の向こうに雷蔵の声を聞いたような気がした。名前を呼ばれた気がした。「三郎」と。



旅行記に挟んだドッグイヤー