何が、どうってわけじゃないんだけど、何だか上手くいかない日って、あるもので。

「はぁ」

もう数え切れないくらい吐き出した溜息を、僕はまた零した。目の前のガラス窓が二酸化炭素にうっすらと白く曇る。こうやって呼気を出せば出すほど息が詰まっていくような気がした。もちろん、そんなことあるはずもないのだけど、からからに乾燥した喉に篭る熱にいい加減、息苦しくなってくる。

(いつになったら、動くんだろう)

事故による停車と遅延を繰り返す、変化のないアナウンスが頭上を通り抜けていく。天井にある蛍光灯が反射して窓ガラスに僅かに映り込んでいる自分は、疲れ切ったように眉が下がっていた。遅々として動きのない様子に蓄積していく疲労を抱えているのは、僕だけじゃない。周りの乗客も、泥沼に体を捉えられたみたいな、疲れと苛立ちと諦めに塗れた面持ちだった。

(せめて、携帯が取れればなぁ。誰か講義に出てる友だちに連絡するのに)

身動きが全く取れないわけじゃないけどこの状態で動けば周りの顰蹙を買うのは目に見えていた。背中の方に回ってしまった鞄に入ってるであろう携帯電話を想い浮かべて、また、溜息を零しそうになる。溜息を吐いた分だけ幸せが逃げる、というのが本当なら、今日だけでいったいどれだけの幸せを逃がしているのだろう。

(本当に、今日は、ついてないや)

朝から、三郎と喧嘩するし、定期忘れてくるし、電車が遅延するし、おまけに連絡もできないし。弱り目に祟り目。泣きっ面に蜂。窓ガラスに映った、ますます深まる眉間の皺を見つめながら、何度目になるのか数えるのも忘れてしまった溜息を、また零した。

(はぁ、さすがに今日ばかりは占いを信じてしまいそうだ)

ちっとも済まなさそうな声で『ごめんなさい、今日の最下位は……』と告げられた己の運勢が脳裏を過った。どちらかといえば、いい時は信じるし悪い時は当たらない、そういうスタンスだから自分から占いを見るタイプじゃない。テレビとかで流れていても「ふーん」と聞き流す方だった。けれど、こうも立て続けに運が悪いと、耳を通り抜けていったはずのアナウンサーの声が蘇ってくる。

(何て言ってたっけ? 確かラッキーアイテムは傘で、ラッキーパーソンは双子座の人だっけ? と、双子座って三郎か)

途端に、三郎の呆気に取られた、驚きに満ちた面持ちがぽんと浮かんだ。朝、見たそれが、ぐるぐるぐるぐる、回り出す。追い出そうとしても、追い出せないのは罪悪感を感じているからだろうか。三郎と喧嘩した、っていうよりも、僕が一方的に怒っているだけなんだから。きゅ、と締め付けられる胸の痛みを無視するように、でも、と自分に言い聞かせる。

(でも、元々は、三郎が悪いんだからね)

ふん、と朝の事を思い出して苛立ちをぶつければ、また、眼前の窓ガラスが外の景色を白く塗り替えた。



***

(……ん?)

ちかちかと瞼の裏で閃く光の向こう側でやたらとテンションの高い声が跳んでいて、それが僕の聴覚へと働きかけた。刺激にうっすらと目を開ければ、膜を張ったかのようにぼんやりと光る白い世界が広がっている。包み込む温かいまどろみに、もう朝か、とは思いつつも、そのまま引きずり込まれていきそうだった。

「らいぞー」

まったりと蕩けてしまいそうな眠気の中で、三郎の声が聞こえる。

「ひゃに」

自分では「何?」と言ったつもりだったけど、実際、口から洩れた欠伸と重なってしまったて、言葉にならなかった。けど、そんなこと、どうでもいいや。もうひと眠りしたい。先週の休みに雨が降ってて干せなかったせいか、ちょっと重たい気がする布団でさえ、今は心地よくて。「何って、起きろよ」と上から降ってくる三郎の声を振り払うように、柔らかな暗がりの中へと潜り込む。

「雷蔵、起きろって」
「もうちょっと……」
「起きろー」

布団から僕を引き剥がそうとする三郎との攻防は「私は起こしたからな、知らないぞ」という呆れた声で終わりを告げた。それまで掴んでいた布団を根負けした彼が放したのだろう、引力のままに落下してきた温かな重みに顔をぎゅっと埋め、再び、眠りに落ちていこうとする僕の耳を、彼のあからさまな溜息が擦り抜けた。

「もうすぐ8時だぞ」

ぱちり、と意識が弾けた。ばね仕掛けの人形みたいに飛び起きた僕に「やっと起きた」と三郎がへばったような面持ちを向ける。けれど、今は、それどころじゃなかった。のんびりと「ホント、雷蔵って寝起きが悪いよなぁ」と立ち上がろうとする彼の服の裾を掴んで、慌てて詰めよる。

「8時っ!?」
「あぁ。……ほら」

そう顎をしゃくった彼の視線の先、ベッドが置いてある部屋の続きにあるリビングから、ハイテンションな声が聞こえてきた。さっき、眠りの狭間で聞こえてきたのは、テレビの音それだったのだろう。弾むような声は「今日の運勢カウントダウン!」と高らかに8時前であることを告げていた。

「うそ、もう8時なの?」
「あぁ」
「三郎の馬鹿、起こしてって言っただろ」
「何回も何回も起こしたけどさ、雷蔵、疲れてたのか全然起きてこないし」

疲れさせたのは誰だよ、って胸の中だけで叫ぶ。余計なことで諍っている暇でさえない。改めて携帯を見なくたって、朝の顔ぴったりの爽やかな声がさくさくと順位を追って運勢が語られているのを聞けば8時前であるのは明らかだったけど、僕はベッドの枕元に転がっていた折りたたみの携帯を開いた。がぎっ、と勢いに嫌な音を立てたけど、気にしてられない。何回瞬いて見直したって、8時は8時だった。

(あー、こんなんだったら、アラームは掛けておくべきだった)

元々、目覚めが悪いというか寝汚い自覚はあるから、いつもなら絶対に起床予定一時間前にアラームを設定して(しかも全部登録して、当然スムーズ昨日も使って)枕元に充電器と共にセットして寝ている。そうまでしないと起きることができない。そう分かっていたのに、昨晩はできなかった。

(というか、そんな余裕がなかった、っていうのが正しいんだろうけど)

もつれ合う熱に浮かされた欲は絡み取られ、あっけなく陥落してしまえば、果てた体にはとうていアラームをセットする気力もなかった。もう深夜と言い表しても十分な時間だというのに受け入れればどうなるかなんて目に見えていた。先に仕掛けてきたのは三郎の方とはいえ、己にも非があるのは分かっていた。とはいえ、渋った自分を「明日、ちゃんと起こしてやるから」とい三郎が口車に乗せたのだから、彼に文句の一つや二つも言いたくなる。

(って、のんびり考えている場合じゃないや)

再び灯りそうになる熱を振り切って、とにかく出かけないと、とベッドから飛び起き、床に昨夜のまま抜け殻となっていたビンテージ物のジーンズをかき集め、片足立ちで穿く。焦っているせいか、なかなか、足が通り抜けない。ぐちゃぐちゃになって萎んだ裾につま先が引っかかる。イライラと力業で押し出していると、のんびりとした三郎の声が届いた。

「雷蔵、ご飯は?」
「いい」
「朝食抜くと、体に悪いぞ」
「いい。食べてる暇ない」

見て分からないのか、って叫び出す心を何とか宥めて声にはしなかったけれど、苛立ちは最高潮に達していた。ふつふつと血管が煮立つ音が聞こえてくる。もし温度計なんかで計ろうものなら、きっと、液溜の赤い染料が急上昇しているに違いない。それくらい、血が頭に上っていた。どうにかしていつもの自分に戻そうと、クローゼットの中の棚に突っ込んであった衣類のうち、一番上に置いてあったティーシャツを頭からかぶった。

「けど、」

まだ言い募ろうとする彼に、怒りの沸点を超えた僕は怒鳴りつけていた。

「誰のせいで遅刻しそうになってると思ってるんだよっ、」

言い切った途端、はき出した空気が喉奥にせり戻ってきて、息切れした。言ってしまった。勢いについ瞑った目を開けてみれば、驚きに動きを止めた三郎がいて。呆然とした表情の彼の向こうで、小鳥の囀りみたいな甲高い声が、今日の最下位を発表していた。

『ごめんなさい、今日の最下位は魚座のあなたです』

続いてどんな一日だとかフォローの言葉だとか、慣れた口調でスラスラと原稿を読んでいるであろうアナウンサーの声だけが時を流していく。僕と三郎は、そこから取り残されてしまったみたいに立ちつくしていた。三郎の面持ちに、しまった、という気持ちが芽生えたけれど、どうすればいいのか分からない。そうこうしているうちに、占いを終えてメインキャスターを始めとした一同が「また明日」と終わりのあいさつをし、8時台の番組の開始を知らせる曲が流れてきた。

「あ、行かないと」

まだ固まっている三郎を置いて、僕はその場から逃げるようにして家を飛び出した。



***

結局、その後も散々だった。慌ててたものだから定期を忘れ、結局いつもの時間の電車には乗れず、一本後の電車は遅延し、遅れに遅れた電車で、当然、授業には間に合わなくて。他にも電車の遅延のせいで講義に出られなかったメンバーと出席重視の教授と掛け合ったけれど、それも適わず(まぁ、僕はまだ休んだことがなかったからよかったけど)、そこで時間を取られてしまったせいで、購買のパンは売り切れで。昼食のあてが外れた僕はしかたなく学食へと向かった。いつもの迷い癖が予想通り発動してしまって、自己嫌悪。その後も思い出すのも疲れるくらい、色々あって。----------もう、それこそ、どこぞの先輩の不運が伝染ったんじゃないか、ってくらい、ついてない一日だった。

「はぁ、もう、最悪だ」

大仰になるため息のせいで独り言も自然と口を吐いた。隣に座っていたサラリーマンが、ぎょ、っと僕の方に視線を浴びせたのが分かったけれど、取り繕う気力もない。いつもと同じ時間帯だというのに、いつもよりもずっと暗い車内。つり革と広告が揺れる天井の蛍光灯は煌々と点いている分、外の曇天さが際だって見える。最後の最後に、雨。運が悪いのもここまでくると、逆に笑えてくる。

(けど、夕立っぽいし、駅前の本屋かどっかで時間を潰していこうかなぁ)

降り出した当初は白くかすむほどの豪雨だったけれど、今、列車が切り裂く雨模様には勢いが失われているし、雨粒が斜めに走り去る窓から見える進行方向の西の空はだいぶ明るくなってきていて、そのうち止むだろう。占いはラッキーアイテムが傘って言っていたけど、朝の慌ただしさでそんなもの持ってくる余裕も当然なく、あいにく鞄に折りたたみ傘も入ってるない。けれど、いずれ雨が上がってしまうのならコンビニでビニル傘を買うのは少しもったいない気がした。本屋が入っているビルまでは多少、濡れてしまうかもしれないけれど、そうした方が懸命かもしれない。

(これで風邪引いた、とかだと笑い話にもならないしなぁ。それに、家に帰りづらい、し)

だんだんと見慣れた風景が近づいてくるにつれて、胸に圧し掛かっていた憂鬱さの重みが増していく。僕が怒るのはいつものことだったけれど、たいてい悪いことをするのも謝るのは三郎の方だった。悪戯をしたり余計なことを言ったり、迷惑を掛けられたり。だから、三郎を許すことには慣れていた。けれど、今回は、三郎が全面的に悪い訳じゃない。どんな顔をして三郎の元に帰ればいいのか分からなかった。

(嫌だな……)

家に帰るのを先延ばしにしたところで、解決策が見いだせる訳じゃないのは分かっていたけれど、どうしても直帰する気になれない。うんうんと唸っていると、いつの間にか最寄り駅に到着する旨のアナウンスが車内に響いていた。帰り支度に身じろく乗客に合わせ、僕も鞄の内ポケットにしまった切符を取り出す。(なくさないように、とファスナー付きの所に念入りにしまったものだ) 緩やかになっていく景色が完全に止まったのを確認して、僕も立ち上がった。湿り気に濃度が高くなった人々のにおいと共に扉口から車外へと吐き出された僕は、そのまま混雑したホームを人の流れに乗ったまま改札へと向かう。いつもなら、定期を押しつけるだけですむ機械に切符を押し込むのは、ちょっと手間取ったけれど、なんとか流れを止めることなく外に出ることができた。

(あれ? もう上がってる?)

駅舎から一歩踏み出せば、桃色ともオレンジ色とも取れない柔らかい光のグラデーションが雲を薄めていて。ロータリーのくぼみにできた水たまりは、ぴかり、と鏡みたいに磨かれて、雨粒による波紋一つ無く整っている。客待ちのタクシーのワイパーは動いている様子もなく。屋根が途切れた場所に出れば、雨は止んでいるのを体感できた。

(どうしよう……)

いつもこの電車で帰ってくることを三郎は知ってるし、遅くなるときは連絡を必ず入れるようにしている。運悪く降ってきた雨も利用できれば儲けものだ、とさっきまでは思っていた。雨が降っていて雨宿りしてたから本に夢中になって帰るのが遅くなった、って言い訳に使おうと考えてたから。

(けど、これじゃダメだよね。やっぱり、ついてないなぁ)

こうなると直接帰るしか選択肢がなくて、けれど、帰ってどうやって三郎に謝ればいいのか分からなくて。三郎が怒っていたら、とか、許してもらえなかったら、とか嫌な考えばかりが頭を占める。自然と垂れる首と不安を抱えながら、とぼとぼと帰宅の途につこうとしたその時、

「雷蔵!」

暗澹とした気持ちを切り開くような凛然とした声が響き渡った。は、っと顔を上げれば、視線の先には三郎がいて。一瞬、幻を見てるのかとさえ思った。驚きのあまり動けない僕に優しく目尻を下げながら「よかった、会えた」と三郎が近づいてきた。

「この電車だろうと思ってたけど、やっぱりそうだったな。私もさっき着いたからタイミングピッタリだな」
「さ、三郎、どうしたの?」
「ん? 傘、ないだろうと思って、迎えに来てみた」

止んでしまったけどな、と掲げた傘からはたくさんの水が滴った。まだ残る雨粒が、きらきらと夕映えに光っている。よく見れば、彼の肩の辺りはしっとりと濡れて下の青いタンクがシャツ越しに透けて見える。いったい、いつから待っていてくれたのだろう。三郎はタイミングがピッタリだ、なんて言っていたけれど、きっと、今さっき来たわけじゃないはずだ。ずいぶん、前から待っていてくれたのだろう。-----------そうと知れた途端、愛しさがこみ上がってくる。

「三郎」
「何だ?」
「……朝は、ごめんね」

意を決して言ってみれば三郎はきょとんと目を丸くし、それから、とろりと融解させた。笑いながら「いいよ」と僕の方に掌を差し出してきた。仲直りの、合図。人前で手を繋ぐのは恥ずかしくて苦手だったけれど、今日ばかりはそんな気持ち、どこにもなくて。自然と、三郎の温もりに自分の手を伸ばそうとしていると、ふと、三郎が「なぁ雷蔵」と話しかけてきた。

「ん?」
「手、繋ぐとさ、倖せになれるって知ってるか? しわとしわを合わせて倖せって」
「それってさ、仏壇屋か何かのCMじゃなかったっけ?」
「まぁ、気にするなって。結構、好きなんだよ。しわとしわを合わせて倖せって」

倖せそうに笑う三郎の掌に、僕は重ねた。しわとしわが合うように。なんだか、とても倖せな気がした。

きみ+ぼく+えがお=


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テン子さんへ相互記念絵のお礼に! これからもよろしくお願いします^▽^

キンモクセイが泣いた夜