※現パロ。文次郎が政治家。

ホテルの最上階、相手の表情がかろうじて見えるほどの仄暗いバーは、ほどよく人が入っていた。席を置いて離れて座っているカップルから、談笑の響きが伝わってくる。だが、内容までは伝わってこない距離に隔つことのできる広い店内に、ここが待ち合わせに指定された理由が分かった。誰がいるのかははっきり分からないという点でお忍びで、というのにもってこいなのだろう。

(まぁ、ここを文次郎が選んだかどうかは定かじゃないがな)

どちらかといえば奴の秘書のような気がしてそれはそれで癪だったが、文句を言った所でどうにかなるわけでもない。会えるだけまだましなのだ、と言い聞かせる。苛立つ心を少しでも収めようと、ボリュームの絞られた音楽に身を委ね、手元のアルコールを口に含んだ。すっかりと温くなっている。厚みのある女性のメロディに耳を傾けていると、せわしさに流れていく時がまるで止まっているかのようだった。波間に漂っている時に似たふわふわとした心地よさに目を瞑りゆったりとしていると、

「すまん、遅くなった」

焦りに満ちた声が、一気に穏やかな空気を破った。壁に遠慮気味に掛けられている時計を見れば、文次郎の言葉通り、いや、「遅くなった」の一言で済ますには約束の時刻を余りに超過していた。ゆったりと流れる時間のせいで気付かなかったが、重なりが外れかけた針はもう日付をまたいでいた。嫌味を幾つか浴びせてやろうと身構え、奴の顔を見------------気が削がれた。いつも以上に酷い隈が目の下に作っていたから。それに、今は奴と諍う、その時間すら惜しいから。

(一昔前ならば、ここで喧嘩をするところなんだが、な)

それを空気が読めるようになったというのか、それとも、余計なことで関係を崩すことに怖気づいたというのか。どちらにしろ、大人になったというべきなのだろう。だが、奴の方はそうじゃなかったようで。無言のうちに突くように見つめていた私を『責めている』と受け取ったのか、文次郎は「すまない」ともう一度だけ謝罪を重ねた。

「……ここの支払いはお前だな」
「いつもそうだろうが」
「そうだったか?」

怒ってない、とポーズを示すために、冗談だ、と互いに分かるくだらないやりとりをしていると、手元にあったグラスに、す、と暗がりが落ち、僅かに残されていたアルコールの鈍い金色が潜んだ。音もなく背後に近づいていたバーテンダーに文次郎が体を半分だけ開けるようにして向け、「いつもの」とだけ告げる。つられるように私もそちらを見遣れば、黒の蝶ネクタイの男は目だけで注文を図ってきた。

「さっきと同じものを」

そう伝えると、バーテンダーは軽く頷くと、横から流れるようにしてグラスを下げようとした。今にも折れそうな細い足を持ち上げた瞬間、そのグラスの中で揺らされた小さな気泡が弾けた。ぱちり、と。音が聞こえるはずもないのに、私は静寂の中でその爆ぜた音を聞いたような気がした。

「しかし、今日は蒸し暑かったな」

くっ、と指を襟元にひっかけてネクタイを緩めながら文次郎は苦々しげに零した。昔から服装に無頓着だった奴のことだから着ていくものは秘書が選んでいるのだろう。だが、その洗練されたスーツ自体はその高そうな表とは裏腹にくたびれている。熱血漢な部分のあるこの男のことだ、きっと、この高級感が漂うスーツであちらこちらの現場を駆け廻ってきたのだろう。

(----------その誠実な部分が、この男が慕われる要因なんだろうがな)

よれつつも、きっちりと着込まれたスーツの袖からは手の込んだ装飾のカフスボタンがちらりとその姿を見せていた。銀に縁どられているのは、琥珀だろうか。ボタンの中央にある透明感を帯びた黄褐色のそれは、部屋の僅かな灯りに透けて輝きを放っている。

(夫婦ボタン、だったか)

ぴたり、とホールにはめ込まれているボタンを見て、ふ、とそんな異名があることを思い出した。めおと、という甘いはずの響きに切とした淋しさを覚えるのは、どう足掻いても叶うことのない夢だからだろうか。つい、感傷に溺れそうになっていると、「仙蔵?」と怪訝そうな文次郎の声が届いた。黙り込んでしまった事に気が付き、慌てて不機嫌さを装う。「あぁ。不快な一日だったな」と。文次郎の方を見遣れば、奴は特に不審がることなく「早く梅雨が明けねぇかな」と溜息混じりに呟いた。

「梅雨入りもまだだぞ」
「まだ、だったか?」

上着を脱ぎながら、きょとん、と目を丸くした文次郎の表情は、テレビや雑誌やウェブで見かける鋭い尖峰のものとは違い、随分と幼い。その落差に、詐欺罪で十分訴えられる、とこっそりと思う。隙なく着込まれたスーツが奴の表面だとすれば、こうやって曝け出した文次郎をどれほどの人間が知っているのだろうか、とひっそりと優越感を感じる。

(愚かだ、と自分でも思うが)

「ニュースをお前は見ないのか」

政治家なのに、という揶揄を込めて言ったが、文次郎は言葉通りに受けたような顔をして「天気予報まで見る時間はない」と溜息を吐いた。疲労が滲む隈の下は暗がりの中でも生気のない顔色をしていた。寝てないのだろう。そのくせ、「大丈夫か?」とこちらのことを気遣ってくる。空気は読めないくせに、肝心なところだけ、見抜かれる。その馬鹿みたいに誠実で優しい所が私は嫌いだった。

「何がだ?」
「何がって、仙蔵、お前、梅雨とか雨が続く時期になると体調崩すだろうが」
「……この国から梅雨など消えてなくなればいい」
「物騒なことを言うんじゃねぇよ」
「なら、この国から梅雨のない所へ逃亡してしまうのはどうだ? オランダとか」

どちらもジョークでしか捉えられないだろう、と込めた皮肉に文次郎の奴が気付くはずもないと思っていた。だが、後者の言葉を吐いた後で、く、と掴まれた手首に込められた奴の力は痛むほど強かった。ひどく真剣な色の宿った眼差しに、冗談だ、と薄笑いを浮かべることすらできなかった。押さえこまれた部分に触れる脈が暴れる。そこが気になって視線を落とせばますます拍動が速くなっていくのが分かって、気を逸らそうと意識の隅に留ったカフスボタンが発する美しい光を何度も何度も目で辿った。

「その時は、俺も付いていく」
「……阿呆」
「お前にだけは言われたくねぇし。つうか、ちゃんと食べてるか?」

随分手首が細いんだが、と検分するような視線を向けられ、慌てて手を振りほどく。微かに残る熱が憎い。

「食べてるさ。野菜ジュースを飲んでる」
「野菜ジュースは、意味ねぇって。つうか、肉を食え肉を」
「悪かったな、抱き心地が悪くて」

重苦しい空気を振り払いたくて、暗に含むと「馬鹿たれ、んなこと言ってねぇだろうが」と急き込むように文次郎が言葉を返してきた。飲んでいるわけでもないというのに、暗がりの中でも奴の顔がうっすらと赤らんでいるのが分かって、今度こそ私はその言葉を口にした。「冗談だ」と。

「お待たせしました」

会話の合間を見計らうかのように、グラスが二つ私たちの前に置かれる。背の低いのと高いのと。そっと引き寄せた私のグラスの中身は、絞られた照明に当っているせいだろうか、水あめ色を少し焦がしたような色合いを見せていた。それに比べて、奴に注がれたアルコールの色合いは私のよりもずっと、煮詰まった黄褐色をしている。それでも、それを手にする奴の手首に縫いとめられた本物の琥珀には、かなわない。光を通さない部分は紋様が刻み込まれているのかと思っていたが、よく見れば中に葉が閉じ込められていた。気が遠くなるほどの歳月を掛けて化石となったのだろう。

(ゆっくりと、ゆっくりと固まっていき--------知らない間に、身動きが取れなくなる)

まるで己のようだ、と自嘲を押し殺していることなど露とも知らない文次郎が訊ねてきた。

「仙蔵、何、頼んだんだ?」
「ジンバック」
「好きだな、それ」
「あぁ。あまり甘くないからな」

耳を掠めるほどの、小さな小さな発泡音。いくつもいくつも昇り立つ泡は、水面でぶつかり、弾け、消えてしまう。グラスをもたげると、そこに付いていた水滴が集まり、ゆっくりと指先を伝った。ちらりと、文次郎の方に視線を送ると、文次郎はグラスを片手に眉を顰め、困ったように私の方を見ていた。解かれた唇は何か言いたそうに動き、けれども、空気を食むだけで、一向に言葉が発せられることはない。だから、私の方から動くことにする。

「乾杯」
「あ、あぁ」

こすり合わせるようにグラスを軽くぶつけ、それから流し込むように口に含む。喉を、鈍い痛みが落ちていく。まるで、棘が刺さった時のように。あれども見えず、の棘は抜くことはできず、ただただ、違和に近い僅かな痛みだけを覚えるもどかしさ。奴といると、時々感じるその痛みに、私はまだ慣れずにいる。

(……もう、随分と長い間一緒にいるのに、な)

出会った頃の自分たちは果たして想像できただろうか。こんな未来を。可能性が0だったわけではない。当初から奴が代議士の息子であることは知っていたのだから。けれども、父親を毛嫌いしている奴がその父親と同じ道を歩むなどと、これっぽっちも思っていなかったのだ。だが、現実は夢よりも余程夢らしいものだった。大票田を残して逝った父の弔い合戦とでもいうようにあれよあれよと神輿に担がれた文次郎は、その血筋だけでなく、若さとそれに似つかぬほどの芯の強さに一躍、時の人となっていた。

(それだけだったら、笑い話なんだがな)

そう。担ぎ出されただけならば、一時のことだろうと、静観していればよかった。付き合っていることなど最初から隠し通していたし、互いに忙しくて会う時間などあってないようなものだったから、奴が政界へと転身したところで、それほど変わるとは思えなかったし。だが、もともと、正義感の強い奴だったからだろうか、その世界にどっぷりと浸かってしまった。------奴がはまればはまるほど、その名声が上がっていく。そして、その分だけ私と文次郎の住む世界が違っていく。

(だから、もう、)

とん、とグラスをコースターに戻すと、奴の優しげな目が私に向けれていた。とたんに、鈍い痛みが引き潮のように埋もれていく。遠く、遠くへ、消えていく。私はひそりと目を伏せた。文次郎の手首を飾る琥珀からは柔らかな橙色の光。樹脂が固化してこの宝石になるほど、長い長い歳月を積み重ねてきたわけではない。それでも、確かに、私と文次郎は時を共にしてきたのだ。そこに閉じ込められた感情を言葉にするとするならば、それを愛しさと呼ぶのだろう。そう、愛しさ。それだけで、十分だった。

「もう十分だ」

文次郎のグラスに積まれていた氷が、音を立てて、瓦解した。ぶわり、とアルコールが蠢く。

「今夜で最後にすればいい」
「仙蔵、」
「そんな情けない顔するな。早く、上に行くぞ。部屋、取ってあるんだろう?」

唇を歪めた文次郎の目が揺れていた。彷徨う視線はやがて僅かに残されたアルコールに向けられる。グラスに伸ばしかけられた手が、一瞬、ぶれて。それでも、意を決したかのように手にして彼はグラスを呷った。襟の隙間から中途半端に見えていた喉ぼとけが、ぐっと、そそり立つ。きっと、これを空けた時、決定するのだろう。私と奴の別れが。私は静かにその瞬間を待った。ずっと一緒にいたい、など言わないから。もう、お前を縛り付けたりはしないから。

(だから、琥珀に閉じ込められた太古の生き物のように甘い眠りを、最後だけは)

今夜の思い出が、閉じ込めた想いがあれば、これからも生きていけるような気がした。たとえ独りでも。

「仙蔵、」

眉に力を入れて、一気に飲み干すと、奴は吐息のような溜息のような呻きのような声を漏らした。

「オランダにはな、梅雨はねぇ。その代わり、一年中、雨が降る」

別れを受諾するものだろうという想像に反して、文次郎が口にしたのは、さっき私が零したくだらない、そして洒落にもならない言葉を受けたものだった。虚を突かれ「あぁ、それが?」としか答えれなかった私に対し、「だから、お前はオランダには行けねぇって」と文次郎はさらに分けのわからないことを口にした。ただでさえ時間がないのに、と問答する時間すら惜しくて、早くベッドに飛び込んで繋がりたくて、苛々したまま立ち上がろうとした私の手を、奴は掴んだ。ぎゅ、と捕えられた部分に再び熱が灯る。

「何が言いたい、文次郎」
「だから、待ってて欲しい」
「何を」
「オランダみてぇに、法律が変わる日を。……あぁ、変わるじゃねぇな、俺が法律を変える日を、だな」

戯言だった。冗談にも成りえない、戯言だ。だが、私はその手を振りほどくことができなかった。できるはずなど、なかった。ぴたり、と合わさったカフスボタン。夫婦ボタン。琥珀に宿る柔らかな光が、ぼんやりと滲む。そこに閉じ込めたはずの感情が溢れ出していく。愛しさ、が。

「だから、仙蔵。お前と一生を共にすることを誓える日まで、一緒にいてほしい」
琥珀に閉じ込められた、



------------------------------------------------------
素敵企画「6い祭」様へ
文仙を書くという、倖せな機会をありがとうございました! 




top