耳元の携帯は、うんともすんとも言わないまま、沈黙を貫いていた。三回目のセンター問い合わせをしようとする指を、宥めすかして止める。これで返事がなかったら、もっと落ち込むのが目に見えていたから。自嘲気味に漏れた溜息が明かりが一段落ちて薄暗い画面を曇らせた。

(馬鹿じゃん、俺)

さっきまで、幸せを運んでくるんだと思っていたそれは、最終審判を下す物へと変わり果てていた。送ってから、まだ、一時間も経ってないっていうのに、もう永遠の時間を過ごしてしまったかのような、そんな気になる。どれだけ待っても返事がこないのが返事な気がして、俺はまた溜息を吐いた。

(何であんなこと書いちゃったかな、俺)

どれだけ後悔したって、たとえ、こっちの送信ボックスからそのメールを削除したところで、送られてしまったその文字を取り消すことはできない。そうは分かっていても、本当に俺の馬鹿、とついさっきの自分を罵りたい気持ちが収まることはなかった。

『好き』

送信ボックスの一番上、兵助に宛てられたメールにはその2文字が凛然と輝いていた。

***

彼の携帯番号とメールアドレスを手に入れたのは、一週間前だった。

***

三郎の紹介を通じて兵助と出会ってちょうど、一ヶ月。退屈すぎるGWを終えた次の日の放課後、俺は彼を下駄箱で待ち伏せしていた。

(兵助、遅いな……)

クラブ活動には参加しないと聞いていたから、放課後、すぐに帰るはずなのに。その姿は、ちっとも見えない。ホームルームの終礼と同時に俺は教室を飛び出していた。クラスが違うから、一番確実に会える場所である下駄箱には俺以外の人影はなくて。念のため、と確認したら、まだ外靴はそこにきちんと残されていて、まだ校内に兵助がいることを示していた。俺の頭は彼と会った時の第一声のことで一杯だった。

(あー、けど、いきなりメルアドとか聞いたら引かれるかもなぁ? いや、いきなりじゃないんだけど、けど、兵助だしなぁ)

どれくらい親しくなったら聞いていいのだろうか、なんて普段じゃ絶対考えないことを考えてしまう。確かめたことはないけれど、多分、まだ『友達の友達』くらいで。でも、俺はその先に進みたかったのだ。せめて『友達』くらいには。

(だから、メルアドくらい知りたいんだよな)

こんなにGWが退屈だったのは、初めてだった。別に予定がなかったわけじゃない。毎日、いろんな奴と連れだって遊びに行って、馬鹿騒ぎをしていた。けど、『何か』物足りなかったのだ。最終日、三郎と雷蔵と勘五右衛門と遊んでいて思ったのだ。ここに兵助がいたらなぁ、って。

(あぁ、そっか)

俺は、その『何か』に気付いた。学校にいる間は、毎日、兵助と顔を合わせていた。クラスは別だったけど、他の友達に参考書を借りたり喋りに行ったりして、何かにかこつけて兵助のいる教室へと通っていた。三郎を通して兵助と飯を食べる機会が増えるにつれ、少しずつだけれど、毎日話すようになっていた。けれど、GWに入って、兵助と会うことはなかった。学校がなければ、声を聞くことも顔を見ることもできなかった。

(だから、せめて携番とかメルアドとか知れたならなぁ)

そしたら遊びに誘ったりすることができるんじゃないか、ってそう思って、こうやって下駄箱まで駆けこんできたのはよかったけれど。ここにきて、迷いが生じる。迷いというか、正確には怖気づいた、だろうけど。後は自分の勇気次第なのだと分かっているけれど、もし『嫌だ』とか兵助に引かれたりしたら、立ち直れない気がして。

(やっぱ、止めとこう)

このまま帰ってしまおうと下駄箱から自分の靴を取り出し、下に放り投げようとした瞬間、背後からの声が俺の息を止めた。

「あ、竹谷?」

ふり返れば、そこにあれ程会いたかった兵助がいた。突然の登場に言葉が出てこず、俺は口をもごもごさせながら、辛うじて「おぉ」と相槌を打った。

「今、帰り?」
「あぁ」
「そっか、俺も今から帰りなんだ。一緒に帰らないか?」
「おぉ」

兵助から誘ってもらえるなんて、と天にも昇るような気持ちで、その後のことはあんまり覚えていない。ただただ、こんなチャンス二度とない、ってことだけが頭の中を占めていた。気がつけば、別れる場所まできていた。

「あのさ、メルアド、教えてくれないか?」

どれほど俺がこの言葉を発するのに勇気がいったことか。まんじりと汗を握る手から携帯が滑り落ちそうになる。やっぱり引かれたか、なんて、悪い方向に考えがどんどん流れていく。きょとんとした表情を兵助が浮かべていたものだから、なおさら。しばらく黙ったまま俺を見つめていた兵助は、「あれ?」と不思議そうな声を上げた。

「俺、竹谷にアドレス教えてなかったっけ?」

慌てて「聞いてないって!」と叫べば兵助は「そっか、てっきり交換していたと思ってた」と鞄から真っ白の携帯を取り出した。指でボタンを操作しながら「俺、メール不精っていうか、携帯不携帯って言われるけど、それでもよければ」と言う兵助に対し、俺は「いい、いい」と騒ぎたてた。兵助は小さく笑うと、彼らしい、すらりとしたシンプルなフォルムのそれを「赤外線、送信しかできないんだけど」と俺に向けた。今にも小躍りしそうになる心を抑えながら俺もポケットから携帯を掴み、受信モードにして兵助のそれに近づけた。見えないラインが繋がる。俺と、兵助の。

「じゃ、後で竹谷のアドレスと番号、送ってくれ」

兵助と別れた後、最初の一通目の内容を考えながら歩いていて電柱にぶつかったのは、ここだけの話だ。

***
その日から、毎日、メールをしていた。最初はいつもの通り他愛のない会話だった(といってもメールだけれど)。それこそ、授業の進度の話とか宿題での質問だとか。けれど、それじゃ、何も進展しない。せいぜい、三往復が限度ってところだ。兵助のメルアドを手に入れた時は、それで十分だった。兵助とメールしている、ただ、それだけがとても倖せで、自然とにやけてきた。けど、だんだん、欲張りになっていく自分がいた。

--------兵助のこと、もっと、知りたい。

俺が知りえている兵助は少ない。誕生日やだいたいの住所なんかは知ってる。あとは好きな食べ物は豆腐、ってくらいだ。他に兵助の『好きなこと』を俺は知らなかった。好きなスポーツや、本や音楽や映画だとか全然知らない。趣味とか家に帰ってどんなことをしているのかとか。毎日、顔を合わせるたびに、聞きたいことがどんどん増えていく。

(けど、中々聞けないんだよなぁ)

前よりも親しくなったと思うけれど、顔を合わせてもちょっと冷たいというか、交わす言葉は短いような気がした。兵助とは前から友人だという三郎曰く、『兵助は人見知りするから』ということらしい。けれど、やっぱりそっけなくされると、話すのが怖くなる。だから、直接「好きなテレビは?」とか「好きな芸人は?」なんて聞けなかった。それでも、メールじゃ話す時よりも饒舌な気がして、送ればちゃんと返信してくれるし、質問にもマメに答えてくれる。兵助についてもっと知りたいという気持ちが大きくなればなるほど、俺は直接話すんじゃなくて、メールを送っていた。

***

(んで、さっきまでメールを送ってたわけで)

今日も最初は共通の授業の先生の話だとか近々あるテストの話をしていて。けれど、途中から俺が兵助のことについて尋ね、それに答えを返す、という流れに変わっていっていた。それで、俺は『好きなバラエティ番組ってある?』と打つつもりが、途中で間違って送ってしまったのだ。『好き』という2文字を。

送信しました、という画面に文字があらわれて、三秒後、その事態の重さに気付いて慌てて俺は送信ボックスを開いた。もしかしたら電波障害で届かなかった、なんて夢を見てたけど、送信状況にはきちんと○が付いていて、夢でも幻でもないことを俺に知らせていた。すぐさま新規作成ボタンを押して『今のは冗談』と打ちこんだけれど、どうしても、それ以上指が動かなかった。

(だって、なかったことに、できない)

確かにそのメールで告白をするつもりはなかったけれど、俺の胸を占める兵助への想いをメールを削除するみたいに消すことなどできなかった。できるはずもなかった。俺ができることは、兵助からの返事のメールを待つことだけだった。けれど、どれだけ待ってもメールの受信音が鳴ることはなくて。俺は微動だにしない携帯を握りしめ、ベットに飛び込んだ。返事が来ないことが答えなのだから諦めよう、と目を閉じる。そのまま、うつらうつらとしていると、不意に掌の中で携帯が揺れた。長さ的にメールじゃなく着信だと気付き、三郎あたりだろう、と目を瞑ったまま「もしもしー」と適当に出る。

「もしもし? 竹谷?」

聞こえてきた声に、俺はばね仕掛けの人形みたいに、ベットから飛び起きた。からからに乾く喉で返事をすれば、「さっきのメールだけど」と切りださる。俺の心臓は今にも口から飛び出てしまいそうだった。やっぱり「冗談だ」って言おうか、そう口の先まで昇ってきた言葉は、けれども兵助の疑問によって押し戻された。

「今度は何を聞こうとしたんだ?」
「へ?」
「だから『好きな何々ってある?』ってメールだったんだろ?」

元々のメールは兵助の言う通りだったから「あぁ」と相槌を打てば、受話器の向こうで発せられた溜息がこっちに流れ込んできた。

「あのさ、竹谷。何でメールなんだ?」
「何でって?」
「だからさ、最近、メールが多いよなぁと思って」

さっきの溜息が頭を過って、俺は焦って「あ、悪い。うざかった?」と謝りを入れた。すると兵助が「そうじゃなくてさ、」と続けた。

「竹谷とメールするの、嫌いじゃないよ。俺がこんなにメール返してるの珍しいくらいだし。けどさ、聞きたいこととか言いたいこととか、メールじゃなくて直接、話してくれたらいいのにって。俺、本当に竹谷と会話するの楽しいから」

兵助の言葉に俺は揺さぶられた。

「あのさ、兵助。今から、家に行ってもいい?」
「今? 俺はいいけど、そっちこそ大丈夫なのか? 遅い時間だし」
「いいんだ」
「なら、いいけど……けど、何で急に?」

今すぐ伝えたい想いが、言葉がある。

「今、兵助に話したいことがあるんだ。メールでも電話でもなく」


指先より疾く