※ほんのりとだけ、竹久々を匂わす描写があります。

本が焼けてしまうから、と日差しが差し込まないようにブラインドを閉じた店の中は、それでも、陽気で温められたせいか、まるで朝方の布団みたいにぽかぽかと心地よかった。自然と零れる欠伸を一つ。続けて二つ、三つ。四つ目で、なんとなく追っていた文庫の文字が滲んだ。

(あー退屈だなぁ)

目の縁を濡らした涙をぬぐいながら、正面の柱時計を見る。ずっと昔----それこそ僕が生まれる前から---この店の中で時を刻み続けているそれは夕刻を示していた。海辺にある田舎町の唯一の本屋(ちなみみ、古本も扱っている)は、だいたい暇を持て余した人が、ぽつり、ぽつり、とやってくる。けれど、それも今は中休みのようだった。週刊マンガ雑誌もGWのために休刊で僕たちと同世代は来ないし、古本を立ち読みしていくおじさん達は久しぶりに帰ってきた息子や娘夫婦の相手に忙しいのだろう。

(まぁ、明日辺りは、もうちょっと人がくるかもしれないけど)

昼ご飯を食べていた時に『Uターンラッシュのピークが〜』とニュースでやっていたことを思い出し、そんなことを考える。今晩辺りに息子たちに都会に戻って行かれて、淋しさを貼りつけた顔で、本屋を覗きにくるんじゃないか、って。

(そういえば、天気も雨って言ってたっけ)

いつもよりも、ちょっと若返って活気が溢れている町も、明日は静かなのかもしれないけれど、その分、この店は活気づくのだろう。他に、暇つぶしになるようなものがないのだから。夏場の観光(というか、海水浴)で年の収入のほとんどを賄っているこの町は、そのシーズンを除いて、いつだって静かで退屈だった。けど、僕はこの町が、この退屈さが好きだった。

(とはいえ、ちょっと退屈すぎるや。これなら、僕もどこか出掛ければよかったなぁ)

ここから少しだけ離れた、少しだけ都会の街にある大学に入っても、僕ののんびりとした流れは変わることがなく。なんとなく、周りのスピードに付いていく気もなく、結局、実家の店番というバイトを選んでしまった。当然、シフトも何もない。GWも当然のごとく、毎日、ほとんど人の来ない店の番をしているわけだけど。

(うー、眠い)

また、欠伸がでた。やることがない。やらなければいけないことは、全部やってしまった。古本の値段付けも、新刊と既刊の場所の入れ替えも、本棚の埃を叩くのも。仕方なく、裏手に通じる通用口の前、レジの後ろの丸椅子に座り、頬づえをつきながら適当に選んだ本の頁を繰っていたけれど、欠伸しか出てこない。最初は一応バイトなのだしと噛み殺していたけれど、お客が誰もいないと思うと、わざわざ隠さなくてもいいか、という気になって。馬鹿みたいに大きく口を開けて、そのまま、

「ふぁーぁ」
「でっかい欠伸」

突然、背後で声がして、びっくりしたあまり、ほとんど出ていた欠伸を飲み込んでしまった。逆流したそれが、咽喉に引っかかって「っ、」と息だけが鳴る。ふり返れば、慌てる僕を楽しむかのようにニヤニヤした笑み引っ提げた三郎が立っていた。

「三郎っ!」
「ずいぶん、退屈そうだな。欠伸連発してただろう」

からかってくる彼に、いつから見られていたのだろう、と気恥ずかしくなった。それを誤魔化すために「正面から入ってきてよ」と視線を逸らせて、わざと冷たくあしらうようにする。

「いいじゃないか、わたしの家だし」
「違うだろ。ここは僕の家で、お前の家は隣だろ」

僕と三郎はいわゆる従兄弟だった。双子と間違われるくらいそっくりな僕たちは、彼がこの町に引っ越してきてからは、そりゃ兄弟のように育てられて。普段も互いの家を行き来し、夕食を一緒に取るなんて日常茶飯事だった。だから、店の裏口、つまりは店舗と繋がっている僕の家の居住スペース側から三郎が顔を出したのは、別段不思議なことじゃない。ただ、大きな欠伸をしていたのを見られたのが気まずいだけだ。それを三郎は分かってるのだろう。相変わらず、おもしろがるような目線をこっちに向けている。

「いいじゃないか、別に客として来たわけじゃないし」
「じゃぁ、何しに来たんだよ」

つっけんどんに返せば、三郎は『にっこり』と笑みを深めた。

「雷蔵に会いに」

さらり、とこっちが赤面してしまうセリフをはくものだから、僕は何も言えなくなってしまった。耳まで昇っていく熱の理由を、咳払いで誤魔化す。それから、急いで「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。毎日、合ってるじゃないか」といなしたけれど、舌を噛みそうになったのは、きっと三郎にばれているだろう。くすくすと笑ってる三郎の鳩尾に、とりあえず、拳を入れておく。

「ってぇ。雷蔵の愛情表現は強烈だな」
「馬鹿なこと言ってると、もう一発、お見舞いするよ」
「……スミマセンでした」
「ほら、店番の邪魔するなら、帰ってよ」
「店番つったって、誰もいないじゃないか」

ぐるり、と見回す三郎につられ、僕もあまり広いとは言えない店内に目を配る。斜めに閉じられたブラインドの隙間から淡い金色の光が揺れていた。ゆっくりと太陽が退行していってるのだろう。伸びる影は長く、濃い。随分と日が長くなったとはいえ、そのうちに波音だけが満ちる闇の気配が漂ってくるに違いない。そうなれば、店じまいだ。特に閉店時間があるわけじゃないけれど、父さんに倣って本が読みにくくなったらシャッターを下ろすことにしている。あと数刻か、と考え、そろそろもう一度埃叩きをしようかと立ち上がると、不意に三郎が声を上げた。

「あ、そうだ」

素っ頓狂なそれは、僕の気を引くためじゃなく、本当に思い出したって感じだったから、「どうしたの?」と無視せずに応じる。すると、彼は「さっき、ハチを見かけた」と嬉々として言った。(もし犬みたいに尻尾が付いていたら、ちぎれんばかりに揺れてただろう)

「ハチって、あのハチ?」

思わぬ名前に問い返すと、やたらと大きな声で「そう。あのハチ」と三郎は僕の言葉を使って返してきた。ハチとは、僕たちの共通の友人だった。去年の夏、この町に海水浴場のライフセーバーのバイトをしに来ていて、知り合った。(三郎の家がしている民宿で寝泊まりしていたのだ)

「何しに来たんだろう、こんな季節に」

当然ながら海水浴シーズンには二ヶ月以上も早く、彼がこの町にやってくる理由が分からず疑問を零すと、三郎はふふんと楽しそうに鼻を鳴らした。

「何しに、って一つしかないだろ」
「……あぁ、そっか」

ちらり、と店に投げた三郎の視線の色に、そして、その方角にある店のことを思い出し、相槌を打った。それから、二人がうまくいくように、と、そっと祈る。三郎は「あとで話、聞きにいかねぇとなぁ」と純な笑みを浮かべた。

「ま、こうなるって予想してたけどな」
「何それ……あんなに心配してたくせに」
「いいじゃないか。しっかし、このまま、二人で逃亡とかないだろうな」
「それはないでしょ」

ハチの方ではなく、堅実な性格の友人のことを思い出して、そう答えれば三郎も同じことを考えていたのか「それもそうか」と頷いた。それから、いたずらっ子のように瞳を輝かせて続ける。

「けど、もし、そうなったら、ドラマみたいじゃないか」
「何が?」
「閉塞感のある寂れた田舎町。都会から来た男に惹かれ、主人公は周囲の反対を押し切って、」
「何、その設定」

一昔前の小説のあおり文句みたいな言葉に呆れて冷たい口調で遮れば、三郎は茶化す様に「いや、憧れるだろ」と言った。そう、明らかに冗談、だ。そう分かっていたけれど、きゅ、っと首が絞められたみたいに、僕は息苦しくなった。憧れる。その言葉に。唇を痛くなるほど噛み締め------僕は、聞こう、と覚悟を決めた。ずっと聞きたくて、でも、怖くて聞けなかったことを。

「ねぇ、三郎。一つ聞いてもいいかい?」

こっちの気持ちも知らず三郎は「おぉ、一つでも二つでも三つでも」とさっきと変わらないノリで返してくる。苦笑いをしながら「そんなにないって」と答え、息を一つ吸い込んで。目を伏せながら、本題を吐き出した。

「……どうして、この町から出ていかなかったの?」

そう、僕たちはそっくりだった。双子と間違われるくらいに、外見は。けれども、その中身は反発しあう磁極みたいに正反対だ、と称されることが多い。この窮屈な町に三郎は似合わない、そう思っていた。僕も、三郎自身も。そう、退屈だけじゃない。窮屈なのだ。夏の間、開放的に感じる分、その時期にしか訪れない観光客には、そうは映らないかもしれないけど。

(けど、田舎町特有の閉鎖感はやっぱり、ある)

その開放的な時との落差の分、何倍にもきつく感じるだろう。特に、三郎みたいな奴にとっては。密やかに渡っていく噂、一度好奇の目で見られれば、中々、それを覆すことは難しい。だから、高校を卒業したら、きっと、彼は出ていくのだろうと。この、ゆっくりと朽ちていくしかない、寂れた海辺の町から。実際、彼の口ぐせは「いつか都会に行く」だったし、高校もこの辺りの若者が『街』と憧れる所に通っていたし、原付の免許が取れる時期になるやいなや彼は一発で免許を取ったし-----とにかく、彼が外に出たがっていたのは、一目瞭然だったのだ。

だが、蓋を開けてみれば、三郎は大学生になってもこの町から出ず、僕と同じ大学に通っている。

「どうして、なんだい?」

もう一度問いかけ、それから僕は顔を上げた。彼はびっくりしたように目を見張らせ、それから、さっき僕がしていたみたいに視線を足元に落とし、唇をもごもごと動かした。はっきりとは聞きとれなかったけれど、「どうして」と自問自答するようだった。しばらく沈黙が続く。ブラインドの合間を縫うようにして差しこんでいた光が徐々に力を失っていき、空気がひんやりと冷えていく。静けさに、柱時計の振子が刻む音だけが響いていた。どれぐらい時間が経ったのか、やがて、彼はこっちを窺うように顔を上げた。

「……君が理由、なんて言ったら、泣かれそうだ」

予想がついていた答えだった。おそらく。たぶん。絶対。もし、僕がこの町を出て行ったなら、彼も出て行ったに違いない。けれど、僕はこの町から出ていこうとしなかった。穏やかすぎる内海の中で事を荒立てずに生きていく術を知っていたから。僕が、三郎をこの窮屈な町に縛り付けてしまったのだ。一番、聞きたくない、答え。だから、からからに乾いていた唇で用意していた言葉を連ねる。「泣かないけど、殴るよ」と。迸る感情が叫ぶ。悔しい、と。

「殴らないでくれよ」
「いや、殴る。なんで、お前はそうなんだ」

振り上げた拳は、けれども、三郎に届かなかった。ぎゅ、っと掴まれた手首が嫌というほど熱い。それ以上に、瞼蓋に軋む熱が痛い。泣いてしまいそうだった。けど、泣きたくなかった。泣いてしまえば、三郎の言った通りになってしまう。それだけは、嫌だった。きつく噛み締めた唇を解くように、三郎のそれが重なった。酸素を奪い合うかのように、相手を求める。

「っ、」

唇を離せば海に潜った後みたいに、息切れと眩暈に襲われた。僕より僅かに薄い茶色の瞳に映り込んでいる僕は揺れていて、やっぱり、泣きだしそうだった。それとも、そのスクリーンそのものが歪んでいるのだろうか。三郎も泣きそうなんだろうか。

「違う」

三郎は、今度はまっすぐ僕を見ていた。ゆるぎない光は、まるで凪いだ海のように静かだった。こんな風に、僕たちは対峙したことがあっただろうか。いや、ない。きっと、怖かった。僕も、三郎も。

「何が」
「理由は、君じゃない。いや、そうだったんだけど、違う」

禅問答のような言い回しに、「意味が分からない」とはっきりと告げる。すると、彼はあちこちに視線を彷徨わせ、一巡させるとまた僕の方に定めた。

「最初は、確かに君だった」
「やっぱり」
「頼むから、最後まで聞いてくれ」

つい口を挟んでしまったけれど、三郎の切とした声に僕は黙って頷いた。

「知っての通り、わたしはこの町から出てきたかった。……ほら、この町は狭すぎるからな。けど、この町には雷蔵がいた。兵助も、勘右衛門も。それから、ハチとも出会えた」
「うん」
「君たちに、わたしは救われた」
「うん」
「君がいるなら、この町も悪くないと思えた。けど、この町に君が残ったから、わたしも残ったわけじゃない」

数秒だけ口を噤んで、彼は、ゆっくりと微笑んだ。

「この町に君がいるから。他の街じゃない、この町に、君が。……それじゃ、駄目かい?」

そうぎこちなく微笑む三郎が、どうしようもなく愛しかった。ゆっくりと手を伸ばし、彼の温もりを抱きしめる。彼の耳元で「ずるい、よ」と囁けば、笑っているのか頬が触れる彼の肩が揺れた。ゆらゆらと、波間に漂っているみたいに。

「あぁ、知ってる。けど、君なら、赦してくれるだろ?」
「僕を過大評価しすぎだ、三郎は」
「それは、お互い様だろ」

海の水を飲んだ時のようにひりひりする喉に、ゆっくりと風を通す。それから、僕たちは泣いた。



やわらかい深海








title by 星が水没