Route66の続き




風が強い日だった。

ドアが閉まるのを背に、くたびれた靴を玄関で投げ捨てる。ひんやりとした室内は、さっきまで風が吹き荒れていた外とは違う冷たさが取り残されていた。歓迎もなければ、拒絶されることもない、乾いた一人暮らしの部屋。それが淋しいだの虚しいだのと思う余裕は、今の僕にはなかった。手さぐりで照明のスイッチを入れれば、光の落ちた廊下の上に、うっすらと白っぽいものが浮かんでいる。

(この部屋に入ったのは何日ぶりだったろう)

考えたけれど、思い出せない。二日だったか、三日だったか。それとも、一週間だったか。それすら分からないほど、自分の家に戻っていない。--------僕は、ここのところ、馬鹿みたいに体を動かし続けていた。バイトを掛け持ち、友人の分の代わりも入って、それでいて大学は全コマ授業を入れて、サークルにも精を出して。夜は夜で飲みかいだのコンパだのに、積極的に参加した。(花見や新歓の時期でよかった。毎日のように、何かしら飲み会をしている。)普段、あまり大人数の飲み会に参加しないことを知っている友人からは「珍しいな」と言われたけど。飲んで、友人の家にそのまま泊って、それで、朝、学校やバイト先に飛んでいく日々。とにかく、忙しさで自分を満たさないと、気が狂いそうだった。

(三郎、三郎、三郎)

叫ぶ心は言葉にならない。風のせいでぐるぐると吹きだまる花びらみたいに、僕は前に進めずにいる。



***

「う”ー疲れたー」

吐きそうなだるさを抱え込みながら、冷え切った廊下を歩む。ジャケットのポケットに突っ込んだままの携帯を取り出したけれど、それは無言を貫いていた。メールも電話も着信を知らせるランプは点いていないのを視線の端っこで確かめる。

(今日は、ひとり、か)

自分で心の中で呟いたくせに、引っかき傷を風呂の中で曝したみたいな痛みを覚えた。ひとり。そう、今日は一人だった。飲み会の約束もなく、バイト場からは「最近、たくさん入ってもらったから」と断られた。じゃぁ、と誘いを掛けた仲の良い友人はこぞってバイトだった。適当にメールした知人からは、さっきの通り、返答がない。

(さっさと、寝てしまおう。うん)

自分に言い聞かせることもなく、体が貪欲なまでに睡眠を欲していることは気付いていた。このままベッドにダイブしてしまえば、きっと、眠れる。携帯を枕元まで引っ張ってきている充電器にくっ付け、ジャケットをハンガーに掛け、のろのろと部屋着に着がえた。

「シャワーは明日でいいか」

洗面台は蛍光灯の灯りを弾き、びかり、と銀色を反射していた。視線を上げれば、歯磨きを銜える自分が、冴えない顔して鏡に映っていた。まるで一つ上の先輩みたいだ、と目の下の辺りが黒くぼけているのを見て思う。空いていた右の人さし指でその部分を撫でてみるけれど、当然、それが消えることはない。親指と触った部分を擦り合わせてみても、もちろん、粉が落ちることはなかった。

(今夜は、たくさん寝れるからいいや)

いつもよりも随分早い時間だ。明日の起床時間から逆算しても、ここ数日の睡眠時間よりずっと多く寝ることができる。口に溜まった歯磨き粉の残滓を吐き捨て、口内をゆすぐと、僕は寝室へと向かった。廊下の灯りを残し、部屋の電気は全部切ってしまう。拡散した闇の中、何だか鈍重な臭いの籠ったマットレスに身を預け、瞼を落とした。---------けど、眠れない。

(何で、)

こんなにも感じている眠気と疲れきっている体が、なぜか乖離しているのが分かった。 冴え冴えとした意識が還るところは、彼の、三郎の所で。慌てて、体を起こす。今、このまま、寝れたとしても、きっと夢に三郎が出てくる。それはあまりに甘美な想像で------そして、哀しいほどリアルな現実だった。

(嫌だな、このまま眠ってしまいたくないなぁ、)

夢に出てきた後の、その喪失感は半端なかった。まるで、自分の半身がえぐり取られたみたいな強烈な痛みを魂に残す。そう分かっていたから、僕は今まで分刻みの予定で漠然と流れてしまう時間を埋め尽くしていたのだ。体に鞭打ってバイトや学業に励み、疲弊しきった身で夜な夜な色々な場所を渡り歩き、最後は酒の力を借りて、すとん、と眠りの穴に落下するようにしていた。彼の夢を見ない様に。

(あぁ、そうだ。お酒があった。ビールか何か、なかったっけ)

寝室とは一つ壁を隔てているキッチンのドアは半開きになっていた。こっちの廊下の灯りがその部屋に佇む暗がりに溶け込み、仄かに橙色を染めつけた。狭いキッチンの一番奥、すっかりと居座っている闇の中に、真っ白の冷蔵庫がぼんやりと浮かび上がっていた。電気を付けるが面倒で、少し見えているからいいや、とそのまま足を踏み入れる。ドアを開ければ、ぶん、とモーターの回転する振動が虫の羽音みたいに細やかに耳の辺りを揺らした。明るいオレンジが照らし出す庫内は、おもしろいほど、何も入ってなかった。ほとんど空っぽの網棚には、いつ食べたのか思い出せない六角チーズが1ピースと、からしのチューブ。それから期限の切れた牛乳。

(さすがに、これはお腹を壊しそうだなぁ)

2,3日だったらチャレンジするかどうか、迷うところだったけれど、さすがに三週間も前の牛乳を飲む勇気は僕にはなかった。このまま放置しておいたら、また三週間近く冷蔵庫の中で眠ることになるだろう。忘れ去られて----------けど、ずっと、このまま埋葬されて化石になるわけじゃない。どんどん、得体の知れないものになってしまうだろう。けれど、いつかは、処分しなきゃいけないわけで。

(今、片付けた方が、精神的にいいんだろうな)

べこべこと、心なし膨らんで柔らかくなっているような牛乳パックを掴み、そのまま流しの上で逆さ向ける。糸を引いたとか息が詰まるくらい臭いとか、想像していたほどではなかったけれど、でろり、と白っぽい塊が(それこそチーズとか飲むヨーグルトとかそういった感じのだ)滴り落ち、べちゃりと光り輝くシンクに貼り付いた。水道を最大限まで捻り、一気に、押し出す。乳白色の川は排水溝へと奔流し、そうして、やがて白が僅かになって下の銀色が透けて見えるほどに変わった。あの日、見つめ続けたコンクリートの道みたいな色をしていた。

(三郎、)

さよならでもまたねでもない、何も約束をしなかったあの日の道みたいな色を。



***

何がきっかけ、というわけじゃない。気が付けば僕は部屋を飛び出して、彼の家へと来ていた。もう収まってしまったけれど、風が強い日だった。空は夜中に近いのに青くて。宇宙が透けてしまいそうな夜だった。その空の随分と低い所に、家の屋根がイアリングをしているみたいに、月が引っ掛かっていた。

(久しぶりに見ても、やっぱり不気味だなぁ)

魔女の館みたいにみたいな、鬱蒼とした蔦が張り巡る壁に面する窓は一部がガムテープで目張りしてある。ぱっと見、人が住んでいる(今は住んでいないけれど)とは思えない風体の家は、いつもと変わらず、そこにどっしりと腰をおろしていた。錆びきった門扉を開け、砂利に気を付けながら玄関へと向かう。返さなかった合鍵を扉の穴に押し込めば、その時を待っていたみたいに、すんなりと僕を通し入れた。主を失った家は、けれど、彼がそこに溶け込んでいるみたいに、どうしてだか温かかった。

(三郎がいた頃と変わらないや)

靴を履いたまま上がりこもうとして、ふ、と、そこに淡い紅の欠片を見つけた。ん? と疑問に思いながら、それを拾い上げる。かさりと乾いていていて縁が茶色く変わりかけていたけれど、それは桜の花びらだった。隙間の多いこの家の事だ。どこからか入り込んで、そうして、出れなくなってしまったのだろう。

(まるで、僕みたい)

自嘲を噛みしめる。と、電話が鳴った。三郎だ、と、直感が告げていた。真っ暗な闇が広がっていたけれど、目を瞑ってもどこに受話器があるか分かるぐらいだ。すぐに出ることができた。けれど、僕はそのコール音を遠いところで聞いていた。--------------さよならでもまたねでもない言葉を、僕は、まだ見つけられずにいた。



さよならでもまたねでもない





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