※五忍囃子で無配したものに加筆したもの。旅芸人竹谷×エリート学生久々知。どっかの外国。



一度大きくバウンドした体に、目が覚めた。

(今、どの辺りなんだろう)

紫外線カットのためなのか薄い茶色の入った窓ガラスの向こうには、眠りにつく前と変わらない荒野が広がっていた。いや、変わらないというのには語弊がある。自分はバスに乗って移動しているのだから。けれども、流れていく景色はどこまでも乾いた青空と剥き出しの砂地ばかりで、一向に変化がなかった。

(何か久しぶりに寝れた気がする……)

狭い座席は固いクッションが詰まっていて、座り心地がいいとは言い難い。路面に凹凸があるのか、タイヤが踏みしめる度に車体は大きく跳ね、睡眠にはあまり適してないように思える。けれど、俺は本当に久しぶりに、ゆっくりと寝ることができた。窓の枠に肘を立て、拳で頬を支えているうちに、いつしかそのまま眠りに落ちて行った。悪夢にうなされることもないなんて、本当に何年ぶりだろうか。

(きっと、誰も俺のことを知っている奴がいないからなんだろうな)

揺り籠みたいな長距離バスの中で欠伸を一つ噛み殺し、少しだけ体を通路側に乗り出してみる。フロントガラスの向こうには、ボロボロのアスファルト。砂埃に霞んでよくわからねぇが、地平線の向こうまで真っすぐ伸びていて、どこまでも続いているんじゃないか、と思わせる。手前に視線を転じれば、二人掛けのシートに一人ずつ、あまり身なりがいいとはいえない乗客ばかりで、それなりに席は埋まっていた。-----俺が閉じ込められていた世界に棲む奴らの親のような、ぱり、っと糊づけされたホワイトカラーなんてものは目にも触れなかった。

(もうごめんだ。あんな思いをするのは)



***

俺はこの十六という人生を、三段抜かしで上がってきたようなものだった。両親は共に日本人であったが、幼き頃に研究職であった親の仕事の都合でこの国に来た。多忙すぎる両親に代わって俺を育てたのはベビーシッターというよりも家庭教師的な人だった。学校に上がれば、すぐに「ヘースケに教えることは何もありません。今すぐ、上の学年に上がるべきです」と飛び級をさせられた。

(俺はそのままでもよかったのに)

たまたま成績が良かったために神童扱いされていたが、元来、引っ込み思案だった俺に、年上の友人など作るスキルなどなく、放課後の持て余した暇を勉学に費やしたために、さらに修学がどんどんとすすんでいき、飛び級を重ね続けた。籍を置いたクラスの年上の奴らからは、やっかまれたが、それもまだ子どもだからだろうと思っていた。

(大人になれば、そんな馬鹿なイジメなどされないだろう、って。けど……)

大学に入って、やっかみは別の形で現れた。成果主義と言わんばかりに、結果が全てのこの世界に於いて、俺はどうしようもないことで蔑まされた。肌の色で隔てられた時は、まさか、と思った。だが冗談でもなんでもなく、その壁は存在した。だから、必死にその向こう側に行こうと努力した。そうしたら、今の孤独から抜け出せるんじゃないだろうか、そう信じて。どうすればこの壁を越えることができるのか考えた時、己が持ち合わせているのはこの知能でしかなくて。同年代の奴らがいない中でがむしゃらに勉学に励み-------そうして、俺はさらに独りになった。

(結局、あるのは、妬みや嫉みばかりだ)

メビウスの環みたいに苦痛な日々が繰り返される閉じられた箱庭から逃げ出すように、俺は行き先も決めずに長距離バスに飛び乗った。

(いったい、どこに向かってるんだろう……このまま、俺の事を知らない場所だったらいいな)

淡々と進んでいくバスは、いったいどこを目指しているのか分からなかった。最初に運転手に告げられたような気がしたが、それで良かった。俺の事を知らない街に行くことができるのなら。俺が『久々知兵助』であることを棄てることができる場所であれば。もう、すでに携帯も論文の資料も全部棄ててしまっていた。あるのはこの身一つと、ポケットに突っ込んだままの財布。それだけあれば十分な気がした。-----------残りは全部棄てていけばいい。

(もう少し、寝るか)

三つ前の席からはひじ掛けに置いた頭が転がり落ちそうになっているのを見かけ、また眠気が襲ってきた。俺は再び体を奥のシートに戻し、窓枠に肘をついて、もたれかかる。小刻みに揺れ続けるエンジン音は、もはや子守唄だった。穏やかな闇が瞼の奥に広がっている。



***

しまった、と思ったときには遅かった。財布がない。直に休憩のためにドライブインに到着する旨のアナウンスが再度流れる。さっきまでは、いったん降りて飲み物か何かを買おうと計画していたけれど、今の俺の意識はそれどころじゃなかった。財布を取りだすためにポケットの中に入れた指が掴んだのは、空気だけだったからだ。す、っと指先が冷えていくのが分かる。

(え……冗談だろ?)

まさか、とその最悪のシナリオを頭の中で描きながら、何度もジャケットのポケットをかき回す。終いにはジャケットをひっくり返して振ってみたけれど、みたけれど埃の塊しか出てこない。もしかして、ジャケットのポケットにしまったと思い込んでいるだけで、本当は別の場所に入れてあるのかと、ありとあらゆる所を探したけれど、影も形もなかった。

(居眠りをしている間に、全財産をすられた)

バスは先に料金を払っているからいいとはいえ、降りた先でどうすればいいのか。それに、財布に入っている学生証も盗られてしまっては、己の身分を確かにするものなど、何もない。俺が『久々知兵助』という人物だと証明するものは何もないのだ。全部を棄てることができるのだ。そうやって、さっきまで俺がそうしたい望んでいたはずの立場なのに、歓びを感じることなど一切なかった。ただただ、とてつもない不安だけが渦巻いている。

(そうだ、)

は、っと混乱する頭を上げ、誰かすられた瞬間を目撃してないか、と見回すが、眠たげに揺れる乗客ばかりで頼りになりそうにない。窓の向こうは見知らぬ景色が次々と映し出されては闇へと霧散していく。俺の焦りなど構うことなく、バスはどんどんと進んでいっていて、やがて目指すべくドライブインの煌びやかなネオンが窓の斜め向こうに見えた。

(どうすればいいんだ?)

不安に押しつぶされそうになった俺は、ただ、ぎゅ、っと目を瞑った。

「ふぁっつ、はっぷん? きゃんーゆーすびーくいんぐりっしゅ?」

不意に、隣から聞こえてきたのは酷く拙い英語だった。英語というよりもカタカナに近い、たどたどしい言い回しに、ふと彼が同郷の人物のような気がした。そう感じたら、駄目だった。あ、と思う間もなく、目蓋の裏側の熱が一気にコンタクトを破ったがごとく、世界がぼやけた。その懐かしい響きに心が緩んでしまったのだろうか。抑えようとしても、溢れかえる涙を止める術がなかった。喉を塩辛さが塞ぐ。突然のことに俺も驚いたが、もっと驚いたのは相手の男だろう。何しろ急に泣き出されたのだから。

「うぉ、えっ、げ、こういった時、何て言ったらいいんだっけ」

聞こえてきたのは完全に日本語だった。それが、ますます俺の心の懐に入り込んだのかもしれない。大丈夫、と口にしようとしたけれど、そこから漏れ出たのは枯れた風のような声だけで、言葉にならなかった。ひゅ、っと詰まる咽喉から何とか送りだそうとすればするほど息が逆流するかのように声が押し戻される。その流れから逃げるようにして出てきた言葉も掠れていて、はっきりとしない。ひゅ、と、また咽喉が鳴いた。

(何で、声が出ないんだ?)

全財産を盗られたことを必死に、目の前の男に訴えようとするけれど、俺の喉は言うことを効かなかった。捲し立てようとすればするほど、砂嵐を呑みこんでしまったかのようなざらつきが気になって、伝えようとした言葉は全部が胸の底に落ちて行く。涙で潤ったはずなのに、俺はただただ、その乾いた風だけを食み続けていた。

「大丈夫か? えっと、あ、そうそう、あーゆーおーけー?」

そうやって突然、魔法のように掌に現れたのは、一輪の花だった。砂地のような掌で咲いたのだ。マジックだ、と頭では分かっていても、その幻のような一瞬が頭に灼きついて離れなかった。それはエーテルランプの灯のような、温かい光の色をしていた。

エーテル