※「Knockin’on Heaven’s Door」パロ。病の末期の二人の話が強盗やのなんやのするロードムービーなので、そういう描写を含みます。 放り込まれた真っ白の部屋は、辛気臭かった。いや、実際に蔓延しているのは消毒薬の臭いか。こすっても絶対に取れないだろう、ってぐらい、自分の体にも染みついているような気がする。最初はいかにも病人って感じで(いや、実際に病人なんだけど)あまり気持ちのいいものでなかったけれど、だんだんと感覚が麻痺していって、気がつけば、その臭さに慣れていた。彼が-------------三郎が来るまで。 *** 「うわっ、マジでここかよ」 ノックも何もなくドアを破るようにして入ってきた奴は、ちっとも入院患者に思えなかった。洒落たジャケットを肩に引っ掛け、すらりとした身のこなしで入ってきた癖に、顔はしかめ面で。顰んだ眉は深い谷間を作っていた。ちらり、と俺に視線を投げかた彼の、そのへの字の唇から「どーも」と口だけの挨拶が零れる。急に話しかけられたことにびっくりして「あ、」と戸惑っている俺を気に掛けることもなく、彼はそのまま隣のベッドにダイブした。ふわり、と浮かぶ青い匂い。嗅いだ事のないそれは、けれど、なぜだか俺を安心させた。 「それ、」 「あ?」 不機嫌そうな横顔が俺の方を向いていて、無意識のうちに彼に話しかけていたことに気がついた。慌てて「あ、何でもない。ごめん」と謝ると彼は「途中で止められると気になるんですケド」と、さっきの仏頂面とは違って、冗談ぽく口を歪ませた。 「や、本当に大したことないし」 「大したことないかは私が決める」 尊大な態度だけれど、不思議と腹は立たなかった。それで「や、いい匂いだな、と思って」とさっき思ったことをそのまま素直に口にすれば、彼は一瞬、目を丸くさせ、それから、それまで浮かばせていた気難しそうな色を懐柔させた。 「あぁ、これな。海にいるみたいだろ」 海。彼の言葉に心臓が跳ねた。海。俺はゆっくりと深く息を吐き出し、それから大きく吸い込んだ。胸に満ちていく匂いに瞼を下ろして味わう。写真でしか見たことのない光景が浮かぶ。 (そこは、こんな匂いをしているのだろうか) その青の香りの残滓を押し出すのがもったいないけれど、だんだんと薄れていくと同時に酸素を求める胸の苦しさも感じ、いつまでもそうしているわけにもいかず。目を開けて今度は浅く呼吸し、「海ってこんな匂いするんだ」と独りごちた。 「はぁっ?」 隣から上がった素っ頓狂な声に、びっくりしたのはこっちだった。思わず彼の方を見やれば、まじまじとした視線が俺の方に向けられてるのが分かる。 「え? 何?」 聞き返せば、彼は目を見開いて「海、行ったこと、ないのか?」と一単語ごとに区切りながらゆっくりと質問してきた。遠慮のない視線に、この年になって行ったことがないのはやっぱり変か、となんか恥ずかしくなって、自分のベッドのシーツの皺を目で辿りながら「あー、うん。無いんだ」と答える。 「マジで?」 「あぁ、本当に」 ベッドの上で置き上がった彼はすらりとした腕を組んでしばらく目を閉じていた。固く結ばれた唇から小さくうなり声が漏れ出てきている。何を考え込んでいるのだろうか、と沈黙の長さに心配に思っていると、さっきより少し低く掠れた声音で彼が言った。「それはまずいぞ」と。 「まずいって?」 「今、天国で何が一番話題になっているか、知っているか?」 「さぁ?」 彼はもったいぶるように、また暫く黙り込んでそれから、まっすぐ俺の方を見た。 「海さ。天国じゃ、みんなが海の話をするんだ」 *** 「よく知ってたな。院長の車置き場なんて」 とっぷりと闇に暮れた道路に落ちる明かりは自分たちの車のライトだけだった。ハンドルを彼に任せた俺は、どんどんと迫っては横に別れて飛び退く街灯のオレンジを見つめていた。その問いに「あー、この病院、前にもいたからな」と答えれば、彼は俺の方を見遣った。一瞬、横に滑ったタイヤに、慌てて「前、前」と叫ぶ。すぐさま顔を前に戻した彼に。 「それにしても、よく動かせたな。鍵ないのに」 あの後、「それなら海に行かないか」と彼に突然提案された。まぁ、冗談だろうと、「いいけど、車ないだろ」と茶化し気味に答えれば、彼はあれよあれよという間に車を調達してきた。(まぁ、院長の車の場所を聞いてきた時点で察するべきだったのかもしれないけど)。 「知識さえあれば鍵がなくても動かせる。なんなら教えようか。知ってると何かと便利だぞ」 「遠慮しておく。もう使うこともないし」 やっかい事は面倒だ、と思いながら答えたが、彼は別の所で引っかかったようだ。小さく呑んだ唾の音が、エンジン音以外しない静かな車内に響いた。しばらく黙り込んだ三郎は「……それもそうだな」と呟き、それから意を決したかのように、「何の病気なんだ?」と尋ねてきた。病名を告げれば彼は「そうか」と相づちだけを重ねた。状態について聞かないのは、お互いに長くないと分かっているからだろう。あの病室は、天国に一番近いところなのだから。 「そういえばさ、名前、まだ聞いてなかったよな」 「私は知っているけどな、勘右右衛門だろ」 「え?」 「病室に入る前に名札を見たから。私は三郎」 よろしく、と彼が手を差し出せば、ぐらり、と車体が歪んで。慌てて「だから、前」と注意を発すれば、彼はにやりと唇を上げた。ん? と不思議に思っていると、きゅっっ、とタイヤが鳴いて、ギアが唸りを上げた。一気に加速され、さっきまでとは桁違いなスピードが出される。飛び去っていく景色に目が回りそうだ。 「おいっ」 「今、死ぬか、明日死ぬかの違いなのに、つまらないヤツだな」 ぐ、っと座席に押しつけられる感覚に、三郎を止めることを諦め、ため息を一つ零した。 「だって、まだ、死ねないだろ」 「何で?」 「海、見てないから」 はっ、と彼は笑うと、それからスピードを緩めた。景色が目で追えるようになる。 「それもそうだな」 *** 夢を見た。海の、夢。 (んぁ?) 凝り固まった体に、一瞬、自分がどこにいるのかと迷ってしまった。拳を握りしめて上に突き上げれば、がつっ、と指の山に衝撃が走った。低い天井、砂で汚れたガラス。ぐるり、と解すように辺りを見回して、自分が車にいることにようやく気がついた。 (あぁ、そうか、海に行くんだった) 地図もナビもなかったが、道を真っ直ぐ走らせることぐらいならできる。だから適度に走った所で、「交代しようか」と言ったけれど三郎は「まぁ、今日は寝た方がいいだろ」とハンドルを離さなかった。それで、たまたま見つけた川原の端に車を止め、仮眠を取ることにしたのだった。 (そういえば、その三郎は?) バックミラー越しに三郎が目にとまった。後ろのシートで微動だにしない彼があまりに静かで、心臓がざわりと冷える。もしかして、と首がもげる勢いで振り向いて、じっくりと観察すれば、胸が穏やかに上下しているのが分かって、ほっとする。 (生きている) 昨日出会ったばかりの三郎と海に行くのだ、そう思うと不思議な感じがした。何十年と生きてきて、これまでだって家族や友人達と行く機会が0だった分けではないのに。けど、なぜかタイミングが合わず、一度も行くことができなかった。------そうして、ほとんど初対面の彼と、最後の最後に海に行くのだ。何の因果が、と思いつつも、自然と心が弾む。 (夢に出てくるくらいだからなぁ) 明け方、海の夢を見た。写真でしか見たことのないそこは、やっぱり、波音はしなかった。想像が貧弱だ、と言われたこともある俺にとって、聞いたことのない音を思い浮かべるのは至難の業だった。ただ、前に見たことのある夢と違うのは、匂いだった。青の、匂い。 (三郎が纏っているからだろうな) *** 「で、どうする?」 「お金、持ってきてないしなぁ」 深く考えずに飛び乗ったはいいけれど、目の前のオレンジ色のランプが現実を告げていた。すっかり忘れていたけれど、車もただでは動かない。当然、給油が必要となってくるわけで。 「私もだ」 「引き返す?」 「それにしても、ガソリンはいるぞ」 「そうだよな」 顔を見合わせて、二人、乾いた笑いを力なく零す。まぁ、そうしたってどうにかなるわけでもなくて。 「というわけで、お金がないんですが」 「ハハハ、兄ちゃん達、おもしろいこと言うね」 とりあえず、と三郎が入った郊外のガソリンスタンドは、さびれ牧場、という言葉がふさわしかった。上から吊り下がってる給油ホースがゆらゆらと風に遊ばれ、枯れた草がくるくると舞っている。縁の金属が錆びたメーターは、俺たちの車にガソリンがたっぷりと入ったことを示していた。無銭ということを、後頭部が寂しい店主に告げたけれど、彼はてかてかとむき出しの頭を撫でつけながら笑い飛ばしていて。 「冗談だったらいいんだけど……」 「生憎、冗談じゃないんだよなぁ」 と、三郎は懐から取り出したものを、日焼けした額に突きつけた。かちゃり、と冷たい音に、店主の表情が一気に青ざめた。笑っていた口の端が、ぴくぴくと引きつった。驚きのあまり、あ、あ、あ、あ、とまるで壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返している店主と同じくらい自分もびっくりしてしまった。 「おぃ、三郎、それって」 「おじさん、悪いけど、これ、本物だから」 「どこにあったんだよ、それ」 「車のダッシュボード。まぁ、予想通りだけど」 病院の院長ともなれば護身用に銃を携帯をしているのは自然だろう。ということは、彼が握りしめているのは本物なわけで。安全レバーも外れており、彼が引き金を引けば、店主の額には穴が開くだろう。そう考え、急いで銃身を手で覆うようにすれば、三郎は不機嫌そうに「何だよ」と俺を見遣った。 「これって犯罪じゃないのか? さすがにまずいだろ」 「まずいも何も、もうしてるだろ」 「あ、そっか、院長の車、盗ってきたのか」 ぽろり、と漏らしてしまった言葉に三郎が「勘右衛門っ」と噛みつく。横目に店主の引きつり笑いがさらに深まったのは分かったけれど、今は三郎を止めなければ、とフォローを後回しにする。 「あ、ごめん。でも、強盗は、ちょっと」 「じゃぁ、どうするんだよ。海、見たくないのか?」 「見たいさ。けど、」 銃をがっちり抱えたまま揉めだした俺たちを「あのー」と店主が遮った。 「ちょっと、おっさんはすっこんでろ」 「大事な話なんだから」 それでも「あのー、」と話しかけてくるおじさんに「「何だよ?」」と唱和する。三郎と意見が合わずに言い合っていたままの声で返したせいか、思ったよりもずっと大声になってしまった。びくり、と肩を揺らした店主は、「いやー、あのですね、あと二分で来るんです」とおどおどした口調で告げた。 「来るって、誰が?」 「ですからね、いつも、十一時にうちの店に来て、一杯、飲んでいくんですよ」 こっちの聞きたいことに答えない店主に「だから、誰が」と苛立ちをぶつければ、ひっ、と喉を鳴らした後に、店主が告げた。 「地元の警官です。異常がないか、見回りに…」 天国に青は在るか
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