※鉢屋女体化。シリアス。


深緑と焦茶の小洒落てシックな店内は、とてもじゃないけどチェーン店には見えない。あと数時間もすれば、スーツを着こなした人たちが席を占めるのだろう。それでも今は制服姿ばかりなのを見て、俺は店に入った。予想したほどに、むっとした熱気はなく乾いた温かさが俺を包み込んだ。俺と一緒に舞い込んだ冷たい空気を、あっという間に溶かしてしまった。 高い所にあるメニュー表には目もくれず、そのまま、注文カウンターへと向かう。

「ご注文はお決まりでしょうか?」
「コーヒーのホットで」

お決まりのやり取りをして、お金を払い、少し離れたところで待つ。ブラックだから、ミルクや砂糖を取ることはしない。手持無沙汰で、ぐるり、と中を見渡す。ファーストフード店よりは静かな、けれども、学生特有の弾けた声が飛び交っている。けたたましさがないだけ、ましだろうか。それにしても、それなりに流行っているようで、混んでいるせいか俺のと思われる商品が作られている気配はなかった。

(ただでさえ、遅刻なんだけどな)

店に入って、ぱっと見た範囲では三郎の姿を見かけることはなかった。だが、呼び出したのはあいつの方だ。おそらく、奥まった所にあるソファ席を陣取っているに違いない。そこを覗く勇気はなくて、俺は入口の方を見遣った。小さなイーゼルに立てかけられた黒板にはカラフルなチョークの絵と新商品という文字が躍ってる。

(ストロベリースムージーか。へぇ、春らしいな。甘くて、おいしそう)

そうは思ったが、たとえ、先にあの看板を見ていたとしても、自分はブラックを選んだだろう。

(……ブラック、か)

苦い味に残る記憶は甘く、自然と思い出すのは三郎とのことだった。



***

「あー、サイアク〜」

華やかな声に、俺は読んでいた本から顔を上げた。机に突っ伏した彼女の袖口からすらり伸びた白い腕が眩しい。頬を膨らませ口を尖らせてるのさえ可愛いなんて思うのは俺が惚れているからだろうか? 一人ごとというには大きい声に、ワザとらしく何度もちらちらとこっちに視線を投げてくる彼女。俺はそれに応じた。

「どうかした? 鉢屋」
「あー、聞いてよ」

尋ねてもらったのがよほど嬉しかったのだろう。ものすごい勢いで口火を切った彼女の瞳は、キラキラしていた。怒りに任せたかのように、どん、と派手な音を立てて机に置かれたのは、見慣れた円筒。ブラック無糖、とかかれたそれ。その何にムカついてるのか分からず、「コーヒー?」と疑問を呈す。すると、彼女はくしゃりと眉間に苦々しい断絶を作った。

「そ。自販のボタン、間違えて押しちゃって」
「鉢屋、コーヒー苦手なんだ?」
「あぁ。ミルクと砂糖たっぷりならともかく、ブラックは無理」

ぜーったい無理、と吠える彼女はやっぱり可愛くて、こっそり心の中だけで笑う。(実際に、面にしたら殴られそうだ)。けれど、敏い鉢屋に隠しきることはできず「何?」と鋭い視線が飛んできた。慌てて手を振る。

「いや、何でもない」
「ふーん」

意味ありげな声音だったが、それ以上追求されることはなく、ほ、っと胸を撫で下ろした。それと同時に、ブラックが苦手という自分と共通点が見つかり、ふわりと嬉しさが浮かび上がる。口の先まで出かかっていた「俺も飲めない」って言葉は、けれども、あっという間に喉を急降下した。

「ブラック飲めるって、大人って言うか、カッコイイと思わないか?」

なんて、眩しく鉢屋が笑ったから。だから、おもむろに俺は机に放置されていた缶を手にした。

「鉢屋、それ、飲まない?」
「え? ……飲まない、けど?」
「ならさ、俺、飲むからちょうだい」

カッコ付けて、嘘を吐いた。本当は鉢屋と同じで、ミルクと砂糖がないと駄目だったけど、けど、鉢屋の前だったら、苦手なブラックだって我慢できた。我ながら浅はかだな、と思うけれど、やっぱり、好きな子の前ではいいところを見せたいじゃないか。

「いーよ、あげる。むしろ助かる」

それから、少し照れ気味に「けっこう、やっちゃうんだよな。ボタン、間違えるの。今日は勘右衛門がいたからよかったけどさ」と俺に缶を押しつけながら続けた。ちょっと恥じらうような一面とガサツな口調。だからかもしれない。不意に、そんな言葉が口をついたのは。

「ならさ、俺と付き合ってよ」
「勘右衛門と?」
「そ。俺と。そしたら、ブラックいつだって飲んであげれるんだけど」

きょとん、と想像できないって感じで目を丸くしていた彼女は、ぷ、っと吹き出して、急に笑いだした。ヒィヒィと腹を抱えて笑う鉢屋に、駄目だったかな、と後悔していると、不意にその白い手を俺の方に差し出した。

「いーよ。さっきのその言葉、忘れるなよ」

鉢屋の弾けるような笑顔も、あの時飲んだコーヒーの不味さも、俺はまだ覚えている。



***

「お待たせしました。コーヒーのお客様は?」
「あ、俺だ」

店員の声で、過去に還っていたことに初めて気がついた。過去は、優しく柔らかなセピア色のフィルターに覆われていて。まるでこの店内の空気のように、とても温かで穏やかなものなのに。いや、だからだろうか、------------冷たい痛みに、胸が軋んだ。

(三郎は、と。……あ、いた)

トレイは三郎のを借りればいいや、と出されたままで掴み、俺は店内の足を進めた。じんわりと指先を痺らせていくコーヒーの温もり。店の奥まったところ、その姿が俺の目を射った。店内は暖房がきいているのに、華奢な背中は何故だか寒そうで。それを見ていたら、無性に哀しくなった。ぎゅ、と抱きしめたくなる、その衝動を抑えて、

「ごめん、三郎」

背後から声を掛ける。照明が絞られた店内でも飴色のように輝く髪を揺らしながら振り向いた彼女は、困ったような表情をしていた。ほんの、一瞬だけだけど。そんな気がした。けれど、すぐさまその残滓は不機嫌そうな面持ちに飲みこまれる。

「勘、遅い」

柔らかな頬を、ぷくり、と膨らまして。わざわざ眉間に力を入れて、皴を寄せてみた彼女はやっぱり可愛い。片手のコーヒーをテーブルに置きながら、空いている一方の手をいつものように顔の前で立て、ごめんごめん、と謝る。まだ唇を尖らせている彼女の前に、俺は謝罪をし続けながら座った。

「何分遅刻したと?」
「ごめんって」

ぱん、と手を合わせて謝る俺。もぅ、とむくれる彼女。習慣というよりも、身に染み付いている。これが、一つの儀式のように綿々と行われ続けてきた、俺たちの仲直りの仕方だった。三郎と、とりたて、大きな喧嘩をしたことはない。言い争いはレクレーションみたいなもので、俺が折れて、三郎を慰めて、それで終わり。今だって、本気で腹を立てているわけじゃないのは分かった。

「ごめんな」

もう一度詫びの言葉を告げ、俺はカップのコーヒーに口を付けた。駆け落ちていく焦がれた苦さが、胸に灼き付いた。酸味の混じった匂いが、澱のように残る。再びテーブルに置けば、含んだ一口分だけ下がった黒い水面が、ゆらゆらと不安定に揺れていた。まるで、今の自分たちみたいに。



***

「今日さ、数学で抜き打ちテストされてさ」
「ふーん、うちのクラスもするかな?」
「やるんじゃないか? クラス、書く所があったし」
「うわ、最悪」

たわいない会話はまるで異国の言葉のように、耳を抜けていく。それは、心地よさと、ほんの少しの淋しさを含んでいる。三郎がどう感じているのか分からないけど。ふ、っと会話が途切れた。その空隙に俺が顔を上げるのと、ごそごそ、という身動ぎの音が届くのが同時だった。彼女は制服のポケットから携帯を取り出し、慣れた手つきでボタンを押した。どうせ友達だろう、っと俺も携帯を取り出そうとして-----------

「っ」

小さく息を呑んで携帯を持つ三郎の右手は躊躇ったまま、セーターの袖口をいじり倒している左手は、忙しなく動いていた。

「三郎?」
「……何でもない」

何でもない、って表情じゃなかった。けど、拒絶、された。灼け付いた痛みが、ぶり返す。 焙られたブラックの苦味に似た、痛みが。けど、それを顔に出すのはカッコ悪い気がして、「ふーん」と、誤魔化すように軽く答える。と、躊躇していた彼女の右の指が、ものすごい勢いで携帯を叩きだした。武器になるんじゃないかってくらい長く伸ばされたパールピンクの爪が、照明に輝いていて。煌きが眩しくて、薬指の指輪が霞んで見えた。



***

「ごめん、私、帰る」

どれくらい、彼女は携帯をいじっていたのだろう。パタリ、と閉じられた空気と共に放たれた言葉が、俺の思考を止めた。さっと立ち上がると、春めいた薄手のコートを着て、柔らかそうなストールに顔を埋めた。伏目がちなせいか涙袋あたりに影を溜めながらこっちを見おろす彼女に、俺はかける言葉が見つからなかった。

「ごめん」

ただその言葉だけを繰り返し、すり抜けていこうとする腕を、俺は本能的に掴んでいた。あまりの細さに驚き、一瞬、次の言葉を躊躇った。けれど、もう、止められない。ゆっくりと息を吸い込めば胸に酸としたコーヒーの馨りが満ちた。それを吐き出しながら彼女に話しかける。

「なぁ、」
「ん?」

腕を掴まれたまま、俺と正対している三郎は、ひどく哀しそうな微笑みを浮かべていた。

「昨日一緒にいたヤツ、誰?」

猫みたいに、瞳が大きくなって揺れたのは、一瞬で。すぐに戻ってきた哀しそうな微笑みに、俺はこれが夢でも幻でもなんでもなく、現実なのだと知った。浮気を見抜けないほど、子どもじゃない。その原因が彼女だけにある、なんて思うほど子どもじゃない。「好き」だけで恋愛が続くだなんて甘い幻想を抱いているような、子どもじゃない。

「だから、昨日、一緒にいたヤツ」

けど笑って見過ごせるほど、俺は大人じゃない。たとえブラックが飲めたとしても、それは大人じゃない。

「勘「三郎」

言いかけた彼女を遮った。携帯を握りしめる左手の薬指のペアリングが、鈍く光る。喜ぶ顔が見たくて、一生懸命バイトしてお金を貯めて、初めて買ったプレゼントだった。一見では分からないほどに小さな傷がいくつか付いていて、それは、それだけ長い時間を共に過ごした証拠だった。そして、その分だけ気付かないうちに傷つけていたのだとも。

「別れよう」
「……あぁ」

俺の言葉を三郎は、静かに受け入れていた。分かっていた。三郎が淋しがっていたことも、甘えたがっていた事も、なかなか言葉や行動にできない俺のことを不安がっていたことも。けれど、俺は全てを受け止めることができなかった。浮気のきっかけは淋しさを慰めてもらったことだ、ということも知っていた。

(けど、浮気を赦すことができるほど、俺はまだ大人じゃない)

分かっていた。これ以上、一緒にいちゃいけないと。これ以上、一緒にいたら嫌いになってしまう。俺じゃ、三郎を笑顔にしてやれることができない。倖せにしてやることができない。

「じゃぁ、な。勘右衛門」
「あぁ……」

翻ったコートに、俺は視線をテーブルに落とした。カップの中に取り残された、ブラックコーヒー。喉をこじ開けるようにして、一気に流し込んだ。すっかり温くなっているはずなのに、灼けるような痛みが胸に堕ち、俺は堪えるようにぐっと目を閉じた。

「勘右衛門っ」

少し遠くで弾けた声に目を開ければ、泣いているのか笑っているのか、よく分からないあやふやな表情で三郎が俺を見ていた。

「もう、ブラック、無理して飲まなくていいからな」

その言葉に目頭がじわりと熱くなる。滲みかける世界を懸命にこらえながら、「俺がコーヒー苦手なの、知ってた?」と問いかければ、三郎はあぁと頷いた。

「だって、飲む時、いつも眉間に皴が寄ってたからなぁ」
「……なんかさ、すごくカッコ悪くない? 俺」
「そんなことない。勘右衛門は、本当にかっこいいよ」

首を横に大げさなぐらい振り、それから三郎は、俺をまっすぐ見据えた。

「ありがとうな。あの時の言葉、忘れずにいてくれて。ずっとブラック、飲んでくれて」

いつか、この痛みを、互いを赦せる日がくるのだろうか? そういえばこんなこともあったな、って苦い思いをせずに思い出すことができるようになるんだろうか? それが、大人になるということなのだろうか? それは、今は、まだ、わからないけど。

「……三郎、今度はちゃんと見つけるんだよ。ブラック、無理せずに飲めるやつ」
「あぁ、そうだな」
「ちゃんと構ってくれて、言葉にしてくれて、それでお前が幸せになれる相手を」
「あぁ」

今はただ、そのことだけを願っている。

「絶対、倖せになれよ」
「あぁ。倖せになるよ」

その言葉、忘れるなよ



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勘鉢を書くという、倖せな機会をありがとうございました!



title by 虫喰い