「あ、兵助。いたいた」 帰り支度をしていると隣のクラスのハチが入ってきた。担任に雑用を任された自分以外はもう皆、部活に行ったり帰ったりして教室には誰もいない。けど、ハチは律義にも「失礼しまーす」と入ってきた。その妙に礼儀正しい所に思わず口の端が緩む。 「何? ハチ?」 「あのさぁ」 そう言ったっきり、言いづらそうにこっちを見ているハチに「またノート?」とこっちから言えば、ぱ、っと花が咲くように笑った。「悪ぃな」と拝み倒してくるハチに「今回だけだぞ」と一応注意を入れる。一応、というのは、多分『今回だけ』じゃないからだ。 「何のノート?」 「英語とぉ」 まだ続きそうな気配に「まさか全科目じゃないだろうな」と釘をさせば、あは、っと彼は引きつった笑いを浮かべ「そのまさかです」と低頭した。呆れまじりのため息を彼に吐き、机の中から取り敢えず英語のノートを取り出す。 「はい」 「ありがとな」 どうやら持ってくのじゃなく、その場で写すらしい。空いていた隣の席に勝手に腰を下ろすと、ハチはノートや筆箱を広げだした。もう帰るつもりでいたけど、これじゃ帰れない。予習でもしようか、と思ったけど、よく考えれば英語のノートはハチの元にあるわけで。 (どうしよう……) なんとなく、手持無沙汰になってしまった。手が机の中の文庫本に伸びたけど、一緒にいるのに本を読んでるのは感じが悪い気がして。その場で指先を握りしめ、そっと、ハチの方を忍び見る。自分よりもずっと長い、ごつごつとした節の指がノートに影を落としていた。後で読めるのだろうか、と波のようにのたうち回ってるアルファベットに余計な心配をしてしまう。こっちの視線に気がついたのか、彼はふっと、顔を上げた。 「兵助って、部屋、綺麗だろ?」 全然関係ない言葉に一瞬、戸惑いつつ、「え? んー、料理よりは掃除の方が得意だけど」と返す。 「だよな。そんな感じする」 「料理が下手で悪かったな」 「そうじゃなくて。ノートとか綺麗にまとめてあるし」 ハチは、さらり、とそんなことを言って、また視線をノートに落とした。きっと、ハチは知らない。その言葉に、舞い上がってるなんて。その言葉に、どれほど心臓が煩いかなんて。----------きっと、知らない。でも、それは都合のいいことなのかもしれない。なぜなら、この気持ちは、ハチに伝えることはできないのだから。胸の中で飼い殺し、そして密やかに埋めていかなければならないものなのだから。 ハチは、友達の想い人だった。 *** 「兵助、木下先生に呼ばれたからさ、悪いけど先行ってて」 「わかったー。3人に伝えとく」 「悪いな、よろしく」 昼休みを告げるチャイムが鳴りクラスにざわめきが溢れだす。三々五々、それぞれのグループに別れ昼食を取る、いつもの光景。自分も普段と同じようにお弁当を取り出そうとロッカーにしまってあった鞄へと向かう。幼馴染の勘ちゃん経由で隣のクラスの3人と仲良くなってから、昼食は屋上で5人で取ることが日常になっていた。崩れない様に奥にしまってある弁当箱を探っていれば、隣に真っ白の小さな上履きが並んだ。顔を上げれば、仲良くしているクラスメートで。 「ねぇねぇ、兵助。兵助って隣のクラスの竹谷くんと仲、いいよね」 「そうか?」 「うん、いっつも楽しそうに笑ってるよね。いいなぁ」 「思い切って話しかけてみたら?」 「そんな機会もないし」 「あ、なら、今から一緒にご飯食べる?」 そう提案したけど、彼女は「ダメダメ」と手を大きく振った。「無理だよ、私、緊張しちゃうもん。竹谷くん見てるだけで、ドキドキしちゃうし」と俯き加減の顔は、本当に真っ赤に染まっていて。瞳なんかは、まるで熱に浮かされたように潤んでいて。恋する女の子って感じで可愛いなぁ、なんて、ぼんやり思っていると、彼女に急に手を掴まれた。 「ねぇ、兵助。お願い、協力して」 その頃、ハチのことを友達としてしか見ていなかったから、「いいよ」と首を縦に振ってしまった。 それ以来、彼女の恋の協力をするようになった。と言っても、知りえた情報(好きな音楽とかバンドだとか、最近おもしろかった漫画とか)を教える程度だったけど。それでも、彼女はいつも嬉しそうにこっちの話を聞いて、「私もそのCD、聞いてみようかな」なんて言っていた。 最初は、よかった。ハチと話すのは面白かったし、一緒に居てすごく気が楽だったし。それから、彼女の役に立っていると思うと、何かいいことをしているようで。けど、少しずつ、ハチを知るにつれて、彼に惹かれていく自分に気付いてしまった。 (どうしよう、ハチのこと好きかもしれない。かも、じゃなくて、好き) 「兵助、これ」 「え?」 「この前、このCD、聞きたいって言ってただろ?」 「あ、ありがとう」 その言葉に、その笑顔に、胸が温かくなる。ハチへの想いが大きくなっていく。 それと同時に、彼女に言えないことが増えていく。いや、彼女に『言えない』じゃなくて、『言いたくない』ことが。『自分だけが知っているハチ』---------------それを、独り占めしたく、なる。どんどん、醜くなっていく。どんどん、自分が嫌いになっていく。 そんな自分自身を押し殺して、私はハチの隣で笑い続けた。自分でも馬鹿だと分かっていたけれど、どうすることもできず、噴出しそうになるそれを宥めながらただただ流されるように日々を過ごしていた。思いを告げる資格なんて、なかった。 だから、勘ちゃんに「ハチにチョコをあげるのか?」と問われて、首を横に振った。 *** 「あのさ、兵助。お願いがあるんだけど」 今年はバレンタインデーが休日だったせいか、いつもと比べてずいぶん静かだった。それでも、昨日渡せなかった分を渡そうというのか、ちらほらとチョコをあげている場面や男子たちが嬉しそうにチョコを自慢しているシーンに何度か出くわした。幸いなことに、ハチのは一度も見かけなかったけど。浮かれた空気に少々疲れ、もう帰ろうと、鞄に教科書をしまっていると、友人が声をかけてきた。指定外の白いカーディガンの伸ばした裾をいじりながら立っている彼女の頬の赤さは、寒さのせいじゃない。すぐにピンときた。 「お願い?」 「うん。兵助って、ハチくんのこと何とも思ってないんだよね?」 これが最後のチャンスだ、ふっと、そんな気がした。これで言わなかったら、もう二度と言えない。ほら、言わないと。--------------------自分もハチが好き、って。何度も何度も自分に諭しの言葉を投げかける。けど、自分の口から出てきたは「う、うん」という、事実に反するものだった。 (……なんで言えないんだ?) 言葉にすれば、刹那にも満たない僅かな時間のものなのに、その一音一音が宣誓みたいな感じでがして、どうしても「ハチが好き」という音を喉で飲み下してしまっていた。 「じゃぁさ、竹谷くんに、これ渡してくれない?」 そう渡されたのは、ピンクのリボンがついた箱。今日ずっと握りしめていたのか、箱の角の部分が少し擦れているような気がした。くたりと曲がったリボンも力なさそうに佇んでいる。けれど、それすら気にならないようなまっすぐな思いに圧倒されていた。 「え、けど、……自分で渡した方が」 「無理。竹谷くんの前にいると緊張しちゃって。お願い。ね、ね」 彼女は頬をますます赤らめ、こっちの話を遮ると、その丁寧に包まれた箱を押し付け、あっという間に去ってしまった。残されたのは、バレンタインのチョコ。---------それから、酷く重たい、心。手の中にある重みに呆然と見つめるしかなかった。 *** 頼まれたからにはきっちりとしなければ、とようやく重たい腰を上げた頃には、月曜日の学校生活もほぼ終わろうとしていた。春が立ったとはいえ、まだまだ居座る冬の名残に、日が落ちれば一気に支配される。うっすらとした夕光に霞み消されるようにした見知った背中を見つけ、「ハチ」と力の限り叫ぶ。と「お、兵助か」と間延びした返答をしたハチに、ずいっ、と一歩近づいた。 「ハチ、これ」 「これって……まじでっ!?」 (あ。こんな顔して、笑うんだ。ハチって) まるで日なたのアイスクリームのような蕩けた甘ったるい瞳と口の端を緩めたまま、彼はチョコを受け取った。酷く泣きたくなったのに、からからに乾いた喉では嗚咽すら漏らすことができない。ぐ、っと唇が震える唇を抑え、「じゃあね、渡したから」と踵を返し逃げるようにその場を立ち去った。 「バレンタイン、か……」 ようやくハチが見えない場所に来て、その言葉を噛みしめる。しゅわしゅわ、じくじく、ずきずき……どんな言葉にもならない痛みが、緩やかに広がっていく。笑いだしたいほど滑稽で、泣きだしたいほど惨めだった。溢れかえる感情に気持ちが悪くなる。チョコレートの甘ったるい匂いが胸に染みついているみたいに、ハチの笑みが脳裏から離れそうになかった。 (自分もチョコを渡せばよかったのかな?) 神様勇気をください (いっそ諦める勇気でも)
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