「雷蔵、夕食、食べないか?」 柔らかく降り注いだ彼の声に、僕の体は強張った。そのままじっとしていることができず、眼下にあったごわごわとしたシーツをぐっと掴む。このまま返事をせずに寝たふりをしても、きっと三郎はそうと知りながら受け流してくれるだろう。彼は優しいから。このまま、何もなかったかのように、今夜を過ごして明日の朝を迎えればいい。彼が降りて行く靴音をここで聞いていれば。あまりに彼に対して非道いことをしている、というのは、分かっていた。 「……先、行ってるな」 しばらくの沈黙ののち、ひそりと届いたという三郎の言葉に、胸が、つん、と詰まった。けれど、僕はくるまった布団から出ることができなかった。まだ、三郎と喋る勇気が、三郎の顔を見る勇気が、なかった。どれだけ見開いても自分の体しかはっきりと見えない薄暗い布団の中で、代わりに目となり耳となった全身で彼の気配を一挙一動まで辿る。 (ごめん、三郎) 彼が部屋から出て行ったのを知ると、無意識のうちに力を込めていたせいか、関節がぎちりと軋んだ。未だに残っている額の熱をかき集めるように、ぎゅ、と握りしめた掌の丘を抑えつける。ずっと繰り返し繰り返し、消えることのない、彼の声。 --------『私と雷蔵じゃ住む世界が違いすぎる』 あの時、すぐさまに反論しようとして、けれど、僕は言葉が続かなかったのだ。 *** 「三郎、」 「世界の果ては、そういう所だよ、雷蔵。私が生きている場所は、そんな世界なんだ。絶望なんかどれだけかき集めても足りないくらいだ。けれど、それが当たり前なんだ。光が届かないから闇を知ることもない。君は聖人みたいな奴だから、それでも構わない、って言うかもしれないけれど、君の想像以上に私が住んでいる世界には何もないんだ」 「っ、」 「何もない。このトランク一つだって、大きすぎる」 田舎に住んでいては滅多と通うことのできない上級学校に通っているけれど、自分の家が、特別、裕福だと思ったことはない。周りには、それこそ名高い貴族やら企業の子息がたくさんいた。この旅だって実家からの仕送りを旅費にするのを躊躇って、家庭教師をして溜めたお金だったから、二等客室だ。だから、自分が富裕層にいるという気はしていなかった。それでも、今まで生きてきた道を振り返れば、欲しい物が手に入らなかったことは、なかった。彼が掲げてみせた小さなトランク一つで生きてきた、ということはない。 (トランクに入りきらない程持ってるたくさんの物を、僕は手放すことができるのだろうか?) ---------------その瞬間、確かに、打算が働いた。 三郎のことが好きだ、と感じて、確かにこのまま一緒にいられたら、と思った。世界の果てまで共にできたら、と。けれど、『住む世界が違う』と彼に告げられた瞬間、ざ、っと過ったのは、彼に付いていったら戻れない、ということだった。このまま後一年間、学を修めてそれなりの職に就き家族を作り生きていく。そういう穏やかで平和な、約束された未来へは戻れないと。三郎が好きだという気持ちだけに浮かされていた僕は魔法が解けたみたいに、は、と気付いてしまって。そして、損得勘定を働かせてしまって迷ってしまった、そんな醜い自分がいることに、どうしたらいいか分からなくて、僕はあの場を逃げ出した。 (どっかのおとぎ話であったな、) 古今東西、魔法を解かれた灰かぶりはその場から立ち去りました、と。けれど、走り続ける列車の中で、当然、外に出ることはできず、食堂車は夕食のためだろうか準備中になっていて、展望車にはまだ三郎がいるかと思うと、戻ることもできなくて。結局、僕は部屋に帰ってきた。幸いなことに三郎はいなくて、そのまま下段のベッドに潜り込んだ。 (おとぎ話の続きは、めでたしめでたしだけれど、) けど、僕が生きているのはおとぎ話の世界じゃない。--------やがて戻ってきた、三郎は何も言わずに、梯子を使って上に上がっていった。はらり。時々、思い出したようにページを繰る音が静けさに満ちた空気を揺らす。本を読んでるんだろう。沈黙に醸し出される空気は僕を責めるものでなくて、その優しさが、逆に辛かった。そうやって、その後はさっき僕に夕食を誘うまで、三郎は一言も喋らず、その柔らかな音を紡ぎ続けたのだ。 *** (遅い、なぁ) 布団の中にくるまっていれば時間の感覚が分からなくなってしまっていたけれど、それでも、夕飯を食べてゆっくりしていると考えるには、あまりに遅い時間だった。のそり、と息苦しさが籠った布団から這い出てみれば、しん、とした淋しさだけが広がっていた。逃げていく熱の傍で、一つ、お腹が鳴った。とうの昔に過ぎ去ってしまったはずの空腹感が途端に、蘇ってくる。 (あ、) 何となく、ぐるりと流した目が捉えたのは、サイドテーブルの上の茶色の紙袋と、それが押さえになっているメモが一つ。ベッドから降りたって近づくと、僕の名前が綴られていた。『雷蔵へ お腹が空いたら食べるといい。時間が経っても、まぁまぁいける』と。角ばった、几帳面そうな字は僕の知らない筆跡だったけれど、すぐに誰のものだかわかった。 (いつの間に用意してくれたんだろう) 全然、気付かなかった。じん、と痺れる心を抱えながら、僕は紙袋に手を突っ込んだ。がさがさ、と音を立てながら、サンドウィッチを取り出す。しんなりとしたレタスの水分を食パンが吸収して外はカサカサで中はべちゃべちゃだったけど、優しい味が僕を満たしていくのが分かった。---------ゆっくりとそれを咀嚼して、飲みこんでも、まだ三郎は帰ってこなかった。 (もしかして、もう、降りた?) そんなはずがない、あの後、列車が止まったことはなかった。そう頭では理解していても、その考えを閃いた瞬間、体がざわりと騒ぎ出した。いてもたってもいられなくて、思わず目の前にそびえる梯子を上った。いけないことだと分かっていたけれど、彼のベッドを覗き見る。 (何もない) ぴん、と張られたシーツの白さが目を焼く。滑らかに広がる面は最初から使われていなかったみたいに乱れ一つない。どれだけ目を凝らしても、他に何もなかった。全てが詰め込んであるといった黒のトランクも。鞄がないのは部屋を出ていく時に荷物を全部持っていくのだから不思議でもなんでもない。けれど、今、目の前に広がっている整然とした白さに、思わずにはいられなかった。 --------------もう、戻ってこないんじゃないか、って。 *** 部屋を飛び出して向かった先の食堂車はすでに薄暗かった。扉にはめ込まれたガラスに宿る淡い橙は、その車両の随分と奥から漏れ出だものが灯っているようだった。扉にある金色の取っ手には『closed』のプレート。もう、そんな遅い時間になっていたなんて、全く気付かなかった。それでも、もしかしたらいるかもしれない、と僅かな望みに、掛けてきた勢いのまま扉を開ける。------けど、俺を待ちうけていたのは、がらんとした暗がりだけだった。 「申し訳ありません、本日の利用時間は終了したのですが、」 おずおずと遠慮気味な声が掛り、僕はそちらへと視線を向けた。明日の準備をしていたのだろうか、クロスを持っていた黒服のウェイターの男に慌てて「いえ、すみません」と頭を下げる。そのまま立ち去ろうとして、ふ、と足を止めた。振り返り、訊ねる。 「あ、あの、三郎を見かけませんでしたか?」 「三郎、様?」 「はい。あ、えっと、僕とそっくりな外見をしてるんですけど」 挙げられた名前に首を傾げた男に手掛かりを伝えると、彼は暫く腕を組みながら思案に視線を彷徨わせた。それから「申し訳ありません、今晩は見かけてないと思うのですが」と恐縮そうに首を縮めた。続けて「お連れ様ですか? もしあれでしたら、車掌に探してもらうなどできますけど」と心配そうに僕を見遣る。慌てて手を振りながら「いえ、いいんです。もう少し、探してきますから」と断りを入れた。 「ですが、」 「大丈夫です。心当たり、ありますから」 まだ気がかりそうなウェイターに礼を告げ、僕は食堂車を後にした。列車の進行方向に逆らうようにして、駆けだす。夜も更けゆく時間だと知っていたけれど、周りの乗客に構うことなく、僕は全力で走った。たった一つだけ、残された心当たりへと。逆流しているせいか、ぐん、と圧し掛かる力を全身に受けながら、僕はただただ一心に祈った。 (どうか、どうか、まだ三郎がいますように) 祈りは予感へと代わり、予感は確信へとなった。展望車の扉を開けると、そこには彼がいた。三郎が。 「三郎」 振り返った彼は、は、っと息を凝らし、それから静かに、とても静かに僕の名を呼んだ。「雷蔵」と。一歩だけ、彼に近づく。その背後にある窓ガラスには雨が叩きつけられ、後ろへ後ろへと流されていく。その軌跡は、まるで流星群のようだった。この宇宙で、ふたりぼっちになってしまったみたいだった。瞼へとにじり寄る熱が重い。 「どうしたんだ? 寝れないのか?」 冗談だ、と分かる明るい口調で三郎が訊ねてきた。僕も冗談だと分かっていて「うん」と頷いた。そうじゃないと、今にも泣いてしまいそうだった。きゅ、と喉の奥が締まる。ぼんやりと滲む世界の中で、三郎は初めて出会った夜と同じ言葉を僕に告げた。あの時よりも、ずっとずっと優しい眼差しで。 「寝れるように、話をしてあげよう」 ← → |