独り暮らしを始めてみて思ったことは、夜はこんなにも静かだったんだ、ということだった。

静か、といっても、薄いアパートじゃ隣のカップルの喧嘩は筒抜けだ。向かいの小さな一軒家からは、これが仕事といわんばかりに赤ん坊の泣き声が聞こえる。時々、若い人が乗り回す地を這うような低い排気音もしたし、空を切り裂くような、救急車のサイレンが甲高く鳴り響くこともある。

けれど、俺は知ってしまった。

死の底に眠るような昏く、淋しい夜があることを。









***



目を醒ますと、ざぁぁぁ、と冷たい砂嵐がテレビ画面を覆っていた。

流れていたのはモノクロ映画だったから、何となく雰囲気を出そうと電気を消したのがいけなかったらしい。
いつの間にか、眠っていた。
たぶん、夢を見ていたんだけれど、よく思い出せない。
懐かしいような、温かいような、優しいような、それでいて淋しいような、そんな夢。
ほの白い光源に、ぼんやりと照らしだされた世界は、夢の続きのようだった。



俺の体温が移った床から体を引きはがすと、あちらこちらが、鈍い重たさに軋んだ。
凝り固まったものを解そうと、首をぐるりと回す。
変な体勢だったからだろうか、それとも中途半端に寝てしまったせいだろうか。
ぽきっ、と小気味のいい音が鳴ったけれど、まだ、頭はすっきりとしなかった。

急に綾部に、会いたくなった。

俺は立ち上がると、手探りで探し当てた携帯をジーンズのポケットにねじ込んだ。
いささか乱暴に入れたせいか革のストラップがはみ出たのが感触で分かった。
けれど、直すのも面倒でそのままにしておく。

玄関の棚に投げ捨ててあった鍵を手にして、扉を開ける。
ふわふわとした、春独特の藍色の優しい闇が俺を出迎えた。
鍵をかけ銀色の鍵穴から外すと、チャリ、と澄んだ音が掌に響いた。









***



夜を撫でる風は、まだ、少し冷たい。
漂っている匂いだとか目につく草木には春が宿っているのに、そこだけ冬が取り残されているみたいだ。
ジャケットを取りに戻ろうかと、一瞬迷ったが、止めた。どうせ5分もかからない距離だ。
首を竦めて、少しだけ歩くスピードを上げる。
もうすぐ満月だという月は、クリームパンに入っているような甘い黄色の光を辺りに振り撒いていた。
それが、俺の足元に濃紺の影を、長く長く引き伸ばしていた。

静かだった。

誰かの痴話喧嘩も、赤ん坊の泣き声も、ロックの重低音も、車の走る音も、何も聞こえない。
ただ、俺の足音だけ。
俺の靴はスニーカーなはずなのに、やけに大きく反響して、鼓膜を揺さぶる。
けど、不思議な事に、この世界で一人っきり、なんて風には思えなかった。
どこからか柔らかな寝息が闇に溶け出しているような気がしたからかもしれない。
見上げた月は、不完全だけど柔らかい形だったからかもしれない。
もしかしたら、綾部のことを考えて歩いていたからかもしれない。
分からないけど、さっきまでのような淋しい気持ちでないことは確かだった。



その角を曲がれば綾部のアパートが見える、というところまで来て、俺は、はたり、と足を止めた。

(今、何時なんだろう)

仕事から上がって、コンビニに寄って発泡酒とイカのから揚げを買ったのが9時前。
俺の首だけじゃなく、色んなものを締め付けているネクタイを取り外し、埃と汗でくたびれて俺の身と一体になったワイシャツを脱ぐ。ランドリーボックスに入れっぱなしだった、てろんと襟口が伸びきってしまったロンティーは、俺と綾部が共通して好きなバンドのライブで買ったやつだ。
ジーンズに履き替えて、コンビニの袋の中から買ってきたものを取り出し、机に並べる。
プルトップを片手で開けて、もう片手でテレビのリモコンを操作する。
少し温くなった発泡酒を飲みながら正しい日本語のアクセントで話されるニュースを見た。
今日もどこかで起こった哀しい事件や平和な出来事が、淡々と、まるでスライドのように流されていく。

いつからか、怒ったり笑ったり哀しんだりするのが、面倒になっていた。

ぱちぱちと、適当にチャンネルを変えたら、柔らかい白と黒のコントラストに目が奪われた。
幼い頃、夜中(といっても、小さい頃の感覚だから、おそらく10時くらいだろう)に目が醒めた時に、父と母が見ていた、チャーミングな笑顔が、そこに映し出されていた。
子どもは寝る時間と追いやられて、いつか大人になったら見てみたいと思っていたのを、思い出した。



(まぁ、結局、今回も見れなかったけど)

いつの間にか寝てしまったし、どのくらい寝ていたのか分からないけれど、少なくとも、全うな勤め人が起きているような時間じゃないだろう。
ポケットに突っ込んだ携帯で時刻を確認しようかと思い手を伸ばして、次の瞬間、やっぱりやめた。
学生時代の賭け事をした時の妙な高揚感と後ろめたさを、何となく思い出す。



(もし、電気が点いていたら。そしたら、)

祈るような気持ちで角を曲がって、数える。
手前にある小さなアパートの二階。
右から四番目、

「あぁ」










(一つだけ、ぽつんと灯った橙色のその温かな光が、俺の胸に宿った)
脈打つ夜をおぼえていて








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