※薄暗いというか、色々、ずるい二人かもしれないです。

よぉ、と手を軽く掲げた竹谷は、あんまり、変わってなかった。記憶に残る彼の面影を輪郭を瞼の裏でなぞる。ぴたり、と一致しないのは、目の際の皺が深くなったことぐらいだろうか。こうも簡単に彼の事を思い出せる自分に驚きと、それから呆れが込み上げる。------もう、とっくに忘れたはずだと思っていたのに、と。

けど、こうやって思い返せば、まるで昨日の事のようだった。竹谷と付き合っていたのが。

久しぶりの同窓会は馬鹿みたいに騒がしかった。組別ではなく学年合同で行ったために、借り切った大宴会場ではあちらこちらで奇声にも似た甲高い声が上がる。俺は隅の席で細々と友人たちと言葉を交わし、盛り上がる宴を外から眺めていた。竹谷が俺の所にやってきたのは、宴も最高潮という頃だった。遠慮なく俺の隣にどかりと座りこんだ竹谷は、携えてきたビール瓶を俺の方に差し出した。

「ビールでいいか?」
「ん、サンキュ」

グラスを斜めに傾ければ竹谷は慣れた手つきでビールを注いでくれた。軽々と片手で持ち上げられた瓶からは金糸雀色が零れ落ち、こぷり、とグラスの底で跳ねたそれがだんだん満ちていき、最後に白い泡が被さった。テレビのコマーシャルに出てくるような美しい比率。最後の方で瓶の注ぎ口を持ち上げる仕草なんか妙に様になっていて、自分の知らない竹谷がそこにいて、何だか変な気がした。会わなかった年月が地層のように積み重なってるのだ、と痛感する。

「竹谷は? グラス」
「あー、向こうに置いてきた。これ、誰か使ってたか?」
「さぁ? 綺麗だと思うけど」
「ま、いいや」

ずい、と差し出されたグラスに、お返しとばかりビールをなみなみと注ぐ。だが、さっきの竹谷程に上手くいかず、泡がほとんどなくなってしまった。「下手すぎだろ。そんなんで社会人が務まってるのかよ」と笑う竹谷に「人間相手じゃないからな」と返す。

「まじかよ。俺なんか、毎日毎日靴底すり減らして歩き回ってんのに」
「営業?」
「そう。接待もけっこう多いんだよなぁ」
「どうせ好きなだけ、酒飲んでるんだろ?」
「そんなんしたら、首になっちまう」
「大人になったな」
「当たり前だろーが」

あまりに自然に会話を紡ぐものだから、驚くほどのスピードで俺と竹谷は昔みたいに打ち解けていた。

「っと、言ってる間に泡がなくなる。じゃ、まぁ」
「ん」
「乾杯」

何に、という言葉はなかった。掲げられた竹谷のグラスに俺のを合わせる。カチリ。硬い音が響いた。彼の左手の薬指に光る銀。それが意味すること。

(そうか、結婚したんだな)

頭のどこかで冷静な自分がいた。けれど、そのことは言葉にせず、そのまま口元にグラスを引き寄せて呷るように飲み干す。喉奥がちりちりと痛むのは、アルコールに焼かれたせいか発泡する刺激のせいか。瞼の中がぐらりと歪んだ。



元来明るくて友人も多かったハチには、俺と話をしている最中にも、立ち替わり入れ替わり色々な人物がやってきて話しかけてくるものだから、互いの近況を少しだけ話すので精いっぱいだった。けれど、それぐらいが丁度よかった。もう埋もらしてしまった過去を掘り返して笑い飛ばせる自信も、今の彼の結婚生活について尋ねる度胸も、俺にはなかった。

「おーい、竹谷ぁ、ちょっと来いよ」
「分かったー後で行く」
「いいから、今すぐこいって」

さっきから、少し離れた席にいるグループが竹谷を連呼しているのに気づいた。最初は知らないふりをしていたが、あまりの煩さに「呼ばれてるぞ」と教えてやる。竹谷がちらりと向けた視線は、何ともいいがたいものだった。「行ってこいよ」と声を掛ければ、竹谷はのったりと立ち上がった。

「じゃ、また後でな」

俺は単なる社交辞令として「おぉ」と答えた。たぶん、これっきりになるだろう、と。次は、また10年後くらいの同窓会で再会して、少しだけ話して、こうやって別れる。あの頃の話は、海溝の底に眠らせておくべきことなのだ。誰も見ることのできない冥い場所で静かに砂に埋没していけばいい、そう思っていた。音も色も光もない、そこに。だから、彼が再び声を掛けてきた時は、ただただ、びっくりした。



「兵助、この後、暇?」

そろそろ時間なんでー、と幹事が何度目かの言葉を叫んで、ようやくお開きな雰囲気となった。鴨居のハンガーに掛けてあったコートを外し着こんでいると、背後に竹谷が立っていた。ボタンホールに指が引っ掛かってうまくはめれないのは飲みすぎたせいだろうか、それとも彼のせいだろうか。

「……暇っていうか、二次会には行かないつもりだけど」
「じゃぁさ、もうちょっと、一緒に飲まないか?」

すっかり出来上がってる辺りの喧騒をよそに、俺を見つめる竹谷の目は深海のように静かだった。



***

店の外に出れば、気分が悪くなりそうなぐらい体に篭っていた熱はあっという間に奪われた。顔に突き刺さってくる凍風に思わず目を細める。店舗の前ではこの後の予定を決めかねている奴や別れの名残を惜しんでいる同級生たちがうだうだとしていた。その集団に見つからない様にすっと離れた竹谷の後を追う。路地を一つ曲がれば、喧騒が途絶えた。

「どこで飲み直すよ?」
「俺、あんまりこの辺、知らないから竹谷に任すよ。ゆっくり飲めるなら、どこでもいい」
「んー、なら家に来るか?」

近くなんだ、と告げ歩き出した竹谷のコートを思わず掴んだ。怪訝そうに竹谷が俺を見下ろしている。竹谷に「兵助?」と見つめられて、ぐらぐらと足元が崩れていくような感覚に陥る。何か言わないと、という焦りだけが募って、けれど、竹谷を誤魔化しきることのできる上手い言葉が見つからない。

「……奥さんに悪い」

結局、俺は沈黙へとその言葉を押しだした。彼の左手を見遣れば、コートのポケットに押し込められていて、あの指輪の所在は分からなかった。けれど、俺の視線の意味を図ることができたのだろう。竹谷は「あー」と唸って、ポケットから手を出した。薄暗い路地に佇んでいる街灯の僅かな光がその銀に跳ね返る。竹谷は、ぽつり、と零した。

「別れたんだ。いや、愛想尽かされた、か」



***

「よく考えたら、ちょっと、散らかってるんだけど」
「いいよ。今さら、気にしない」

玄関の鍵を差し込むところで立ち止ってたたらを踏む竹谷を押せば、手に提げていたコンビニのビニール袋ががさごそと音を立てた。缶ビールや缶酎ハイやらといった酒やつまみなんかを適当に買い込んだそれは、相当の量が詰め込まれている。付き合っていた頃も、よく、こうやってコンビニに寄って、綺麗とは言いがたい竹谷の部屋で過ごした。その時と違うのは、飲んでいたものが、ペットボトルや紙パックのの茶とかジュースって所ぐらいだろう。

「今さら、なぁ」
「そう。今さら。というわけで、おじゃまします」

短い廊下を通り抜けテレビが置いてある部屋に案内され、俺の足はそこで止まった。いや、止まらざるをえなかった。こたつ机にはいくつもカップ麺やらコンビニ弁当の空容器が散乱していて、床には缶ビールが転がっている。思わずハチを見遣れば、俺の視線が突き刺さったのか「や、だから散らかってるって」と明後日の方向に顔を背けながら弁明した。

「これ、ちょっと、ってレベルじゃないだろ」

わざと盛大な溜息をついて、俺は腕からぶら下がったままのコンビニの袋を下ろした。



台所はさらに酷かった。冬だったからまだよかったものの、夏場だったらこの場に耐えれなかったと思う。埋もれていたゴミ袋を発掘すると、竹谷にゴミをそこに棄てるように命令し、俺はシンクに溜めこんだ皿やらコップやらを洗う仕事にかかった。蛇口を最大限まで捻って、ざぁざぁと滝のように水を出させ、そこにスポンジをくぐらせ、洗剤を垂らす。あっという間に泡だらけになったそれを使って、俺は手当たり次第洗いだした。



「……何やってるんだろな、俺たち」
「何って片づけだろ」

さっきの部屋に置いてあったらしい食器類を竹谷が運んできた頃には、すすぐ作業に取りかかっていた。竹谷の言い草が引っ掛かって冷たくあしらうついでに、嫌みの一つくらいは言わせてもらうことにする。

「これじゃぁ、愛想尽かされるわけだ」
「や、こうなったのは離婚してからだって」
「いつ、別れたんだ?」

出しっぱなしのままで煩い水音でかき消されそうなほど小さな声で告げられたのは、本当に、つい最近だった。このキッチンも竹谷の奥さんが使っていたかと思うと、ぐるり、と胃が反転したような気分になった。腹が立つのか、淋しいのか、哀しいのか……どれも違うような気がして、全部なような気もした。それを振り払おうと、水の張ったまま放置されていた鍋に手を付ける。

「竹谷が結婚してたなんて、知らなかった」
「招待状送ってたら、祝ってくれてたか?」

答えなど、明白だった。寸分の迷いもなく、俺はその答えを導き出していた。もう酔いなど、とっくの昔に醒めていた。酒のせいになどできないのは自分自身が一番分かっていた。だから、俺はその言葉を口にせず金ダワシを片手に鍋の底と格闘することを選んだ。

(だって、今さらだろ)

こびりついてしまった汚れや煤を、必死にこすり続けた。全部、剥がれて、このまま、流れてしまえばいい。この感情も過去も、全部。ずるずると海まで流れついて、世界の果てで渦に飲み込まれて、そうして、深海の底に眠ればいい。なにもない、そこに音もなく静かに降り積もって、やがて、見えぬ所へ沈澱していく。

--------------------俺は一度たりとも、ハチを忘れた事はなかった。

「兵助」
「何だよ、竹谷?」

動かしていた手を止めざるをえなかった。彼の腕の中にすっぽりと覆われていた。首だけを捻って彼の方を見上げれば、彼は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「一回でいいからさ、あの頃みたいに呼んでくれないか?」

視界の隅に指輪がちらちらと映りこむ。指に灯る光が眩しくて、俺は瞼を下ろした。閉じられた世界は温かな闇に包まれる。肩を抱く彼の力が強くなった。懇願するような彼の指先は震えていた。「いいよ」と答え、俺は息を深く吸い込んだ。

「ハチ」

海の底のような、静寂が訪れた。

「兵「その指輪を外さないのは、まだ奥さんを思ってるからじゃないのか?」

しばらくして発せられた揺らぐハチの声を俺は塞いだ。銀色の指輪。うっすらと付いていた細かな傷。ハチが奥さんと過ごした年月。俺の知らない、ハチ。顔を見た事もない、どんな人かも知らないハチの奥さんに馬鹿みたいに嫉妬している。こんな自分知りたくなかった。あの頃と、全然、変わっていないだなんて。

------------------あの日に、別れた日に、全部、深淵に投げ捨てたはずなのに。

「違う。一度だって、兵助のことを忘れた事は、なかった」

何とかハチの腕の中から出ようともがく俺を鋭い声が遮った。目を開ければ、泣きそうな顔のハチがいた。

「奥さんにさ、出てく時に言われたよ。『あなたの心には誰か別の人がずっといるのね』って」
「……なら、なんで指輪して来たんだよ」
「戒め、だったんだ。お前、兵助を誘わない様にって」
「意味分からねぇんだけど」
「指輪見たお前に『あー結婚したんだな』って言われてさ、『そうそう』ってへらへら笑いながら答えて、そんで終わらせる予定だったんだ。次の同窓会でまた会って、その時は『実は、前の同窓会の時もまだ好きだった』って過去にできるようにするつもりだったんだ。10年ぐらいあったらさ、そうできるかな、って」

流れていく泡が排水溝にゆっくりと吸い込まれていく。純白のそれに包み込まれた何かと共に。

「けどさ、やっぱ、無理だわ。今日、本当に思った。10年後も、おそらく一生、兵助のことが好きだ」



(深い海の、音も色も光もないそこに堆積していたはずの澱が、ハチへの想いが、不意に浮かび上がった)
深海の誘惑








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