※現代というよりも異国もの(?)のようなパロディ



「花なんか嫌いだ……」

そう吐露すれば、嵐のように捲し立てていた男が押し黙った。一気に塗り替えられた静けさに、ただ、蝋燭がその身を焦がしていく音だけがこもる。見開いた目は信じられないものを見るような色が浮かんでいて。それから、その色が別のものにかき消されていくのが分かった。歪んだ唇が静かに震えている。まだ何か言い募るのだろうか、と待っていたが、男は一つ唇を噛みしめると、この部屋から飛び出していった。勢いよく閉められた扉の風圧に煽られ、形を崩した焔が部屋を抉り出し深い影を刻む。

(……何なんだ、あの男)

揺らぐ光が目を射る痛みに焔を吹き消そうと燭台に近づいた俺の視界に薔薇の鉢が留った。線の細い茎と重みに垂れる蔓、黄色みの強い葉、萎んでいきそうな芽。生気のないそれは、ちょっとでも力を加えてしまえば、簡単に手折ることができそうなほど脆く見えた。男の悲痛なまでの叫びが頭を擦りきるようにしてこだまする。

(可哀想、か)

庭師、というだけで、どうしてあそこまで必死に訴えてきたのだろうか。どうしようと俺の勝手だというのに。考えを巡らせても巡らせても答えに導かれることはなく、俺は溜息を燃え立つ焔に被せた。じり、と脂がにじる音と共に灯っていた光が消え、す、っと穏やかな暗がりが部屋に戻ってきた。よく知った世界に、ほっと、安堵する。もうひとつ、瞼というブラインドを下ろせば、完全に闇に閉じられる。煩わしいことがある時は、こうすることで全部、黒く塗りつぶしてきた。

(……はずなのに……なんで、あの男が)

掻き消そうとしても追いやろうとしても、瞼裏に浮かぶのは、男の哀しそうな顔だった。



***

2回、間を置いてまた2回。ノックのリズムに、勘右衛門だ、と思考が扉に惹きつけられる。それでも霧散することのないあの男の面影。だからか、いつものようにこちらの返事を待たずに扉を開けて入ってきた彼に俺は「勘右衛門、他の奴をこの部屋に入れるなって言っただろ」ときつく言葉を投げつけていた。廊下の灯りで足元に伸びた影が、は、っと縮む。

「……申し訳ありません」

俺の言葉だけで事態を察したのだろう、その場で息を詰めた勘右衛門は、腰を折って深々と頭を下げた。久しぶりに聞く丁重な敬語は俺と勘右衛門との隔たりを表していた。広大な屋敷の嫡男と使用人という。いつまで経っても上げることのない顔に勘右衛門がどんな表情をしているのか、さっぱり分からなかった。けど、きっと、辛そうにしているだろう。八つ当たりをしてしまった、と後悔の念が沸き上がる。ごめん、という謝罪の言葉が口までせり上がってきているのに、何かに吸着されてしまったかのように出てこない。

「……いいけど、さ。あれ、誰なんだ?」

代わりに出た言葉に勘右衛門はようやく頭を上げ、それから、まだ硬い面持ちのまま「屋敷の庭師のさ、ほらいつも来ている親方の弟子というか見習いで竹谷っていう男なんだけど」とさっきよりも少しだけ砕けた口調で俺の問いに返してきた。勘右衛門の答えに、む、っと少しだけ気持ちが害される。勘右衛門に対して、ではなく、あの男に対して。

(なんだ、まだ見習いなんじゃないか)

あれだけ、俺に対していきり立って意見してきたのだ、てっきり新しく雇った庭師なのかと思っていた。けれど、そう言われてよくよく思い出してみれば、上背は確かにあったものの、どことなくあどけなさの残る面から推測するに俺とそんなに変わらない年端なのだろう。

(何だって、自分とそんな変わらない歳の奴に意見されなければいけないんだ)

よく分からない苛立ちがふつふつと沸いてきて、俺はそれをやり過ごすために歯をきつく噛みしめた。必然的にできる静けさ。それを俺が怒っていて黙り込んだと受け取ったのか、勘右衛門が「ごめん」とまた頭を下げてきた。敬語じゃなくなったことにほっとしながらも、彼に嫌な気持ちにさせてしまったことに苦みが胸に広がる。勘右衛門が悪いわけじゃない、俺が腹を立ててるのは勘右衛門じゃない、そう伝えたくて。けれど、やはり、声になることはなかった。

「兵助の部屋はいいって伝えるの忘れてた。後で親方に連絡しておくよ。本当にごめん」
「……いいよ。次から気を付けてもらえればいいし」

まだ申し訳なさそうにこちらを覗う勘右衛門にそう答えつつ、心の中の俺は思う。

(もしかしたら来ないかもしれないな)

俺が「花が嫌いだ」と告げた時、竹谷の顔はとても哀しそうな色に濡れていたから。ひどく、傷ついた、って面持ちだったから。だから、もう関わりたいとは思わないだろう。庭師をしているくらいだ、きっと彼にとって花は大切なものなのだろう。そんな大切な花を全否定した俺となんて、関わりたいなんて思うはずがない。自分も同じだった。勘右衛門と安寧の闇と、それからこの薔薇の鉢。それだけで、十分だ。

(だって、みんな俺から離れてって、どうせ独りになる)

だったら、最初から関わらなければいい。関わらなければ、それで済んでいく。いつかは勘右衛門も離れていくのかもしれない。けれど、この闇は俺を裏切ることはない。ずっと、一緒にいてくれる。そこに差す光なんて、いらない。あんな、花みたいに溌剌とした命を輝かせている男となんて関わりたくない。

----------なのに、あの男の、竹谷の哀しそうな顔が、こびりついて離れなかった。



***

目を開ければいつもの暗さ。重たい頭に楔を打ち込まれるみたいな痛み。あの後も瞼を閉じれば竹谷がそこに棲みついてしまったかのように現れ、昨夜はなかなか寝ることができなかった。うつらうつらと、浅い眠りを漂い続け、限界に達したのか意識が沈み込んだのは、恐らくは明け方だったのだろう。分厚い闇に覆われた部屋では時間の感覚が狂いがちだが、それでも部屋に潜む気配に朝は昔のことと知れる。もしかしたら昼も近い時刻かもしれない。

(竹谷は来てるだろうか?)

カーテンによって仕切られた不可視の世界、その向こうの光が気になって俺はベッドから降り立った。窓の傍まで近づいたけれど、厚手のカーテンと閉め切られたガラスに向こうの気配は全く届かない。ほんの少しでも覆っている布をどければ、彼の不在を確かめることができる。きっと来てないさ、そう軽く自分に言い聞かせて、カーテンへと指を伸ばす。けど、掴んだのは差しこむ光ではなく、空虚な闇だった。

(本当に来てなかったら?)

「花はいらない、嫌いだ」と切り捨てたのは俺だった。もう来ないだろうと思ったのも俺だ。なのに、竹谷が本当に来てないと知ったら、崩れ落ちてしまいそうだった。想像するだけで、どうしようもない昏い淋しさの淵に滑りこみ、落ちていく。たった一度の出会いだ。しかも、ほんの僅かな時間でしかない。----------けれど、思うのだ。

(竹谷にあんな哀しい顔をさせて、もう手遅れかもしれないけど。けど、)

「兵助、起きてるか?」

竹谷に思考を囚われていて、規則的なノック音に気づくのが遅れた。当たり前のように入ってきた勘右衛門に、窓から離れるのが遅れる。は、っと気付いて慌てて飛び退いた俺を見てしまったのだろう、「兵助?」と彼は怪訝そうに俺の名を呼んだ。

「何でもない」
「そ? まぁ、いいけど。ご飯、どうする?」

それ以上俺の行動に大して疑問を持たなかった彼に「今、何時だ?」と尋ねれば、さっき俺が思った時間帯よりは早いものの朝とは言い難い時刻を彼は俺に告げた。それから「今から朝食にしてお昼も遅くしてもいいけど」と続ける。けれど、今の俺は空腹感はあるはずなのに胸がいっぱいで、あまり食べ物が入りそうにない。そんな状態を見抜いたのか「もし、あれだったら軽食スコーン持ってくるけど」と勘右衛門が提案し直してきた。途端に、ほっこりと甘い匂いが漂ってきたような気がする。頭の中で色づく狐色。勘右衛門お手製のそれは絶品で、俺の好物だった。

「そうしてくれると嬉しい」
「分かった。ちょうど、今、クルーラーの上で冷ましてるところだったから」
「今?」
「あぁ。竹谷に休憩のときに食べてもらおうと思って」

勘右衛門の口を突いた名前に心臓が跳ねた。枯渇した咽喉が途切れ途切れになりながら言葉を紡ぐ。

「た、けや、来てる、のか?」
「うん」

首を縦に振り「あぁ」と答える彼の、その動作までの時間がやけに長いことのように思えた。実際は、ほんの一瞬のことだったのだろうけど。竹谷がまた来てくれた、それだけで、自分の中を巣食っていた暗澹としたものが散り散りになっていく。よかった。心の中で、安らぎの呟きを洩らす。けれど、その胸の温かさは、頷いた後に慌てて付け足した勘右衛門の言葉によってすぐさま冷え切り、氷付き、そうして割り砕けた。

「昨日の件、一応、親方に伝えたから。この部屋に花を飾らなくていい、ってのも改めて」

(もう、きっと、竹谷がこの部屋を訪ねてくることはないのだろう)
四季咲きの心



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