未完成協奏曲 「ハチ、また音外した」「……悪ぃ」
「よぉ、ハチ、今度は何やらかしたんだよ」 「今度はって何だよ、今度はって」 肩に肘をのせて体重を掛け、からかってきた三郎に文句の声を上げていると、傍らにいた雷蔵が「でも、今回は違うんじゃない?」と掲示板の貼り紙を指差した。学園長からの呼び出しを示す朱印が押されたそれは、この学園に在籍する者なら誰もが「関わりたくない代物」と口にするだろう。つまりは厄介事が降りかかってくるということだった。(この点、人災と言うべきか、避けれない点では天災といってもいいんじゃないだろうか) 「今回はって、雷蔵も何気に酷くねぇ?」 「仕方ないだろ、前科が多すぎるんだから。にしても、今回は違うって?」 どういう事だ、と尋ねる三郎に雷蔵は「ほら、ここにもう一人名前があるじゃない」と目配せした。それにつられて俺も再度貼り紙をじっくりと見直す。達筆な文字は今時珍しく、パソコンではなく手書きのようだった。それが、また、妙に迫りくるような豪気な字面だけに、なんか気が重くなる。 『以下の者は指定の時間に学園長室まで来るように。ピアノ科竹谷八左エ門、バイオリン科久々知兵助』 「あー、久々知ってあの久々知か」 「だろうね」 「なら叱責じゃなさそうだな」 そんな二人に「とりあえず、行ってくる」と告げると雷蔵は「がんばれー」とのほほんとした笑みを浮かべ、一方の三郎は「骨なら拾ってやるよ」など無責任な言葉で俺を送り出した。 学生課や事務部が入った棟の一番奥にある学園長室にはどっしりとした扉が構えてあった。いかにも金を掛けてます、っつう感じの、ごてごてと趣味の悪い装飾がなされているそれは、けれども来たものを威圧するには十分すぎるもので。やっぱり何か叱られるんじゃないか、って、過去何度かお世話になったことがあるだけに、ますますテンションが下がってく。 (はぁ、あながち三郎や雷蔵の言葉を否定できねぇのが空しいよなぁ) ため息を一つ飲み込んで、一応、曲げた人差し指の山で分厚い扉をノックをする。振動と共に古木を割ったような鈍い音が響く。即座に「竹谷じゃな」と野太くしゃがれた声が戻ってきた。「入りなさい」という言葉に恐る恐る重たい扉を開ける。「すみません、遅くなって」とへこへこ頭を下げながら入ると、ふ、と鋭い視線を感じた。穿つようなそれに、つい、こちらもその視線を辿る。と、そこには、線の細そうな黒髪の人物がいた。呼び出し状のことから、こいつが久々知か、と見当を付ける。少年というには大人びていて、大人というにはどことなく頼りない様相の彼。ぱり、っと糊の効いてそうな真っ白なシャツと、僅かに襟足が掛った黒の短髪。くっきりとしたコントラストは、ピアノのようだった。黒曜石のごとく澄んだ双眸には何の感情も読み取ることができない。 「竹谷。もっとこっちに来なさい」 学園長の言葉に、彼に見とれていたことに気付き、慌てて視線を部屋の中央にでんと置かれた机へと向ける。学園長という文字が刻まれた札が置かれた机に供えられた椅子にふんぞり返って座っている老人は少し苛立つような表情を浮かべていた。(まぁ、年寄りってのは、気が短いわけで)適当に愛想笑いを浮かべながら近づき、さっきの彼の隣に並ぶ。ちらり、と久々知の方に目線を送るが彼はもう俺を見てはいなかった。ごほん、とわざとらしい咳に、俺は再び学園長に向き直った。「さて」ともったいぶったように学園長は俺と彼とに交互に見遣った。 「今回、お主たちを呼び出したのは他でもない。二人にこのコンクールに出てもらいたいんじゃ」 学園長が机に滑らせたのは名のあるコンクールの申込書だった。一応、俺もプロになりたい、という夢はあるわけで、いつかは出てみたいと思っていた。若手の登竜門と言われるそれは、当然のことながら学校推薦がいる。年齢なんて関係ない、下剋上の世界と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、いくらピアノ科の学年首席とはいえ、俺以上の腕がある先輩らを差し置いて2年次で出れるなんて夢にも思ってなくって、つい「はぁ」と気の抜けた返事を返していた。 「なんじゃ、竹谷は不満か?」 「いや、そんなわけじゃ」 「ならよろしい。まぁ、お主らなら金賞、は無理でも入賞はできるかもしれぬぞ」 「いや、やるからには金賞を狙いますって」 「ほほぅ。そりゃ、頼もしい限りじゃ」 なら申込書にサインを、と炭酸が弾けたような楽しそうな鼻歌を交じえながら俺にペンを差し出してきた学園長を「一つ、いいですか」と氷柱みたいな鋭い声が遮った。それまで一言もしゃべっていなかった彼だった。「もちろんじゃ、久々知。一つでも二つでも三つでも」と冗談を飛ばす学園長を無視して久々知が問いかけた。 「なぜ、ソロじゃないのですか?」 その言葉に、改めて申込書の記入欄をまじまじと見てみると、既に記入されている参加者名には俺の名と久々知兵助という文字が連なっていた。申込の部門を確かめれば、明らかに連名なのを見てとって、俺も慌てて抗議の声をあげる。 「え、ちょ、まって下さいよ」 「なんじゃ、竹谷」 「俺、ソロ向きっつうか、ソロしかできないっていうか」 「俺もです。ソロの音づくりを中心にしてきたので。 しかも、これ、開催まで時間があまりありませんよね。 普段からよく知っている奴ならともかく、急にコンビを組んで上手くいくとは」 俺を援護してくれた久々知に「ほぉ、そりゃ残念じゃのう」と学園長はわざとらしいため息を吐いた。 「ピアノ科とヴァイオリン科のトップならできると思ったんじゃがのう。わしの見込み違いだったか」 「見込み違いもなにも」 「こんなにも優秀な生徒を海外に送り出す機会を失ってしまうなんて」 よよよ、としなだるのは学園長の演技だとわかっていても、ついつい「え、海外っすか?」と食らいついてしまうのは性だろう。海外進出の機会なんて、そうそうあるもんじゃねぇ。「そうじゃ、留学の審査も兼ねておるしのぅ」と、ずぃ、と身を乗り出してきた学園長のしわくちゃな手を握る。 「やります! 俺、出ます!!」 「もちろん国内のコンクールとはいえ賞金も出るし、あぁ、昨年度の金賞者は学費免除にした覚えが…。 のぉ、悪いことは言わん、出てみないか? ただし、条件は、二人で参加じゃぞ。どうじゃ、久々知?」 眠りから覚めたアインザッツ
△ ▽ 「で、出るって言っちゃったの? 兵助」 手入れする弓に視線は固定されたままで勘右衛門が尋ねてきた。低いGは呆れた時にこいつが発する音程で、ノイズが掛っていて、なんとなく不愉快な気分になる。けど、それを口に出して相手を嫌な気分にさせるほどガキでもないので、あぁ、と俺も手にした柔らかな布で盤面を磨きながら相槌を打った。 「けど、意外だな。兵助がソロじゃないコンクールにだなんて」 「俺もそう思う」 今日は鬼の担当教官木下先生の授業だったので質問したのだ。どうして、俺をソロで出してくれなかったのか、と。(学園長が根回ししたのは明白だったが、もちろんコンクールに出るには事前に教官の推薦がいるわけで、何か事情を知ってるのだろう、と)けれども木下先生は「学園長が面白そうじゃ!」と決めたからだ、の一点張りだった。その事を勘右衛門に伝えると、「いや、そういう意味じゃなくて、お前がよく引き受けたなぁ、と思って」と彼は弓を緩めると俺を一瞥した。 「あー、そうだな。なんか、圧倒されたというか」 ふ、とその時の竹谷のことを思い出した。期待に満ちた目は、どっかの犬っころみたいだった。あぁ、あれだ。毎朝見かける、ゴールデン。毛並みの色こそ違うけど、コンクールに出ることを承諾した時の竹谷の様子といったら……とにかく、昂奮していた。もし尻尾があったらちぎれんばかりに振っていたに違いない。2オクターブも上ずった声で「マジで! お前、いい奴だな」と叫び、俺の手を勝手に掴むと大きく揺さぶった。商売道具の手を握られる、なんて普段だったらすぐさま払い除けるところだけれど、なんとなく勢いに押されて呆然となすがままになっていた。 (まぁ、もう一つ理由があることにはあるけれど、) 「まぁ、いいけど。頑張って」 「お前、人ごとだな」 「だって人ごとだし。ピアノ科の竹谷かぁ、有名だよな」 「そうなのか?」 正直、他学科の事に興味はなかったから『竹谷』という名前も初めて聞いた。どんな音を紡ぐのかは知らないが学園長が首席と言っていたのだし、それなりに腕がある奴だとは思う。俺としては別に誰だろうと構わなかった。入賞を狙うことができるのならば。 「兵助は、もっと、周りに興味を持つべきだよ」 さっきよりも半音下がった声色からは付き合ってられない、って胸内が伝わってきた。俺は磨いていた愛器をケースに横たわらせると、蓋を静かに下ろした。ぱたり、と空気を食む気配に弓をしまっていた勘右衛門がこちらを振り向いた。垂れさがった眉が、ますます緩み、不思議そうな表情を浮かべている。 「あれ、兵助、今日は個人練習しないのか?」 「今から、その竹谷と練習なんだよ」 「そっか。ま、あとで愚痴ぐらいは聞いてやるよ」 「なんで、愚痴なんだよ」 俺の疑問に勘右衛門は苦笑いを浮かべて「竹谷が有名だから」と訳の分からないことを言ってきた。数十分後、俺はその意味を知ることになる。 チューニング、密やかなる準備を忘れてはいけない △ ▽ 「お前、博打だな」 学園長の話を受けて、そっこー、話したくてウズウズして、似非双子を探したけど、その日は見つからなくって。結局、二人に話を聞いてもらったのは次の日だった。終わった途端、溜められた息をゆっくりと吐き下された声は、酷く掠れていた。それは、あれだ、寝起きのクロヒョウの鳴き声みたいな、そんな感じ。 「そうか?」 「だって、相手の音、聞いてないんでしょ?」 俺に問いかけてきたのは三郎ではなく雷蔵だった。三郎ほどあからさまではないにしろ、どんよりと雨が降りそうな前の雲みたいな色が声に滲んでいた。そんな呆れることかぁ、と疑問に思いながらも「おぉ」と答えると、「今からでもいい、断ってこい」と三郎が切り捨てた。 「なんでだよ」 「絶対ぇ、ハチとそいつは合わねぇって」 「ハチ、ヴァイオリン科の『久々知兵助』って知らないの?」 三郎だけじゃなく雷蔵まで言うなんてよっぽどの奴なんだろうか。今まで、ヴァイオリン科なんて関わりなかったし(というか、自分のことでいっぱいいっぱいだったし)、学内外のコンクールの入賞者で名前を見た事があるくらいだ。「名前は聞いたことあるけど、」と自然と言葉尻が消え入る。はぁ、って三郎の奴、そんなでっかく溜息を吐かなくてもいいだろうが。 「……相手もよく引き受けたよね」 「だよな。俺なら、絶対、ハチとは組たくねぇ」 さらり、と吐かれた暴言に「お前ら俺の友達だよな」としなだれると「キモイ」と三郎に一蹴された。雷蔵はといえば俺の言葉なんかなかったかのようにメロンパンに齧りついていた。もごもごと頬張ったそれを呑みこむと、「何か、理由言ってた?」とのんびりとした口調で尋ねてきた。 「え? 理由って?」 「だからさ、ハチと組む理由」 「さぁ?」 改めて兵助との(あ、勝手に兵助って呼ぶことにした)会話を思い出してみるけど、話題になったのは今後の練習日程と場所だけで。何で組んだのか、とか、どうして出たいのか、って事は一切出なかった。そうやって言われれば、気になる。けど、また、今度聞いてみるとすっか。 「さぁって……」 「あ、でも、いい奴だと思う」 絶対ぇ金賞を獲りにいこうな、って言ったら、頷いてくれたし。 「お前って、ホント、めでたいよな」 「なんだよ、めでたいって」 「まんま、言葉の通り」 「まー、でも、楽しみだよね。どんな感じになるのか」 俺と三郎の雰囲気の悪さに間に入った雷蔵は、ふ、と視線を俺の鞄の方に落とした。 「ハチ、何か携帯鳴ってるけど」 「あ、アラーム。つうか、ヤベ」 「何、バイト?」 「いや、練習」 そう否定すると二人は同時に顔を見合わせた。タイミングが合いすぎて、まるで鏡を見てるみたいに。驚きに眉が上がって目が見開かれてる。その表情まで一緒だった。息を合わせて演奏する、ってこんな感じなんだろうか、と経験の少ない俺は、これからの事に思いを寄せた。 「今から? もうレッスン、終わったよね?」 「練習嫌いなお前が?」 「おぅ。兵助に言われたんだよ『明日からでもしないと金賞取れないだろ』って」 そう答えれば、また動きを重ね合わせるように俺の方を二人して俺の方に安堵したような面持ちを向けた。「なら理解した。自分から、なんて言われたら日にゃ大雪だからな」なんて冗談をかましてくる三郎を一発殴り、俺は「頑張って」と手をひらひらと振る雷蔵に「おー」と返し、昨日、学園長に手渡されて突っ込んだままの楽譜が入った鞄を手に立ち上がった。 *** 「あんま、こっちの方、こねぇんだよなぁ」 同じようなドアがずっと続く廊下を部屋番号のプレートを手掛かりに探しまわる。 独り身での演奏が多い俺は、ピアノ1台がやっと入ってる小さな個室の練習部屋でしかやったことがない。とりあえずこっちの方だろう、と校舎内をうろついた。夏場でこそ開いている窓からうるさい位に聞こえてくる様々な音色も、この季節ともなれば鳴りを潜めているように思う。それでも、締め出しを食らって隙間を通って響くメロディにどことなく校舎全体がハミングしてるみたいで、心が浮き立った。 (どんな演奏する奴なんだろうな) 逸る気持ちに廊下を歩む足は自然と早くなって------突き当りの一番奥の部屋、頑丈な扉の向こう。番号を確かめる。ここだ。指を冷え切ったドアノブに掛けて。「悪ぃ、遅れた」って言葉は最後まで言えなかった。金属製の分厚いドアを開けた瞬間、戦慄が、俺の体を貫いた。 最初の踊りはカッサシオン △ ▽ 空気を震わしていた最後の一音の余韻が完全に静寂に呑まれ、俺は弓を弦から離した。ふぅ、と肩から愛器を下ろして体の力を抜くと、息を止めていた全身に血が巡り出す。穿つような視線に顔を上げてみれば、口をぽかんとさせた竹谷が立っていた。 (本当に口を開けてる奴、初めて見た) 比喩じゃないんだな、と感心しつつ、壁に掛った時計を見れば約束の時間を10分も過ぎている。残りは50分。練習室は本来、予約を入れておかなければならないのだ。急な話だったため、無理やり頼んで空けてもらったんだ。無駄話をしている暇はない。そう思い「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ」と声を掛ければ、例の犬っころみたいな目がらんらんと輝いていた。 「すげぇっ!」 「え?」 「すげぇっ! 鳥肌、立った。すげぇっ! マジですげぇっ!」 語彙がそれしかないのか、って勘繰りたくなるぐらい「すげぇっ!」と連呼する竹谷の勢いに面食らう。押し黙っていると彼は「どうやったら、そんな正確に音が出るんだ? ヴァイオリンってきっちりと音出すの難しいんだろ? なんかコツとかあるのか?」と矢継ぎ早に質問してきた。ストリンジェンドしていく竹谷を「……いいからさ、さっさと合わせよう。時間、あまりない」と遮ると、昂奮していたことに気付いたのか「あ、悪ぃ」と彼のトーンが急に鈍くなった。一気に落ちたテンポに気分を害したかな、と思ったが、別段口にはしなかった。 「とりあえず、合わせてみるか」 「あぁ」 念のため、と譜面を最初に戻していると、入口で立ち尽くしていた竹谷もようやく部屋に入ってきた。壁の奥に据え付けられたピアノに近づくと、そっと蓋を開けた。埃よけに覆われている布を取り除けば、白というよりは生成色に近い鍵盤が現れた。よくいえば弾きこまれた年代物、つまりは、ボロボロに近いもので。 「古いやつで悪いんだが。部屋の予約、ねじ込んでもらったからさ」 「あー、別に構わないよ。つーか、予約してくれて、ありがとな」 人当たりの良さそうな笑顔のまま俺からピアノに向き直ると、竹谷は中指を軽くピアノの鍵盤に下ろした。Cの音は、狂い一つない。古くてもきちんと調律してあるようだ。強いて言うなら、ちょっとハンマーの当たりがきついだろうか。弾き返すような響きだった。 「お、」 鍵盤から跳ね返ってきた音に、竹谷は眩しそうに目を細めた。とても柔らかく優しい表情。さっきとは違う、笑み。 (え、) 心臓が奏でた音は、今までに聞いたことのないもので。どの音程にも当てはめることができなかった。形容の仕方も、正体もわからない。ただ、竹谷の表情から目が離せなかった。 「お前、昔はじゃじゃ馬だったろ……と、……悪ぃ」 相手を射抜くほど見つめていたらしい。は、っと顔をピアノから上げて竹谷に、俺も慌てて目を軽く逸らす。凝視していた気まずさに黙り込んでいると、さっきの俺の視線を勘違いしたのか「癖なんだ」と零した。視界の狭間に僅かに入り込む彼は照れているのか、少し、顔が赤いように思えた。 「ピアノに話しかけるのが?」 「あぁ。兵助は話さないのか? ヴァイオリンと」 あまりに未知なことに「しない」と即答してしまった。勢いづいてきつくなってしまった言葉に竹谷の方を覗う。嫌な気分にさせてしまっただろうか、と。けど、竹谷は全く気にしていないようで「ふーん。そうかしないのか」と納得したように楽譜を広げていた。 「じゃぁ、最初から52小節目までで」 「了解」 彼の指先が空気を揺らした。頭に叩き込んだ流れを反芻させる。初見でもある程度は弾けるものの、念のためと昨日のうちに覚えた楽譜が脳裏に映し出される。 (最初はピアノから入って……) 「って、おい! ストーップ」 思わず大声を出していた。指は止めたものの、止めさせられた理由が分かってないのか「え」って顔の竹谷に「その速さ、ありえない。テンポも無茶苦茶じゃないか。どうやって合わせろって言うんだよ」と言い募る。 「竹谷、楽譜、見てきたのかよ」 「あー。……ごめん、見てきてません」 「けど初見でこれくらいだったら」 うなだれていた竹谷は「あ、ごめん。それも無理」と、あっさり白旗を上げた。 「苦手なんだ、楽譜読むの」 -----------------頭が、痛くなってきた。 さあ、背中を押されてテンポルバート △ ▽ 「そこで屍になってんのはハチか」 「大丈夫?」 最初の氷みたいに冷たいのが三郎、後の毛布みたいに温かなのが雷蔵だろう。突っ伏したテーブルから「おー」と力を振り絞って顔を上げて何とか返事すると「疲れ切ったサラリーマンみたいな顔してんぞ」と三郎が追い打ちをかけてきた。「だってよ」と言ったまま言葉が続かない俺の方を一瞥した三郎が「だから合わない、つったんだよ」と盛大な溜息をついた。兵助とコンビを組む前だったら反論していた俺も、さすがにぐうの音も出ない。 「そんな練習、大変なの?」 「練習っつうか…俺がしごかれてるっつうか」 音合わせの初日の、そして練習の事を思い出すだけで胃がキリキリと痛む。 *** 「お前、ありえない」 初見と譜読みが苦手なことを告げると、兵助はばっさりと斬り捨てた。元々、珠のように透いた黒い瞳がさらに冷えた色合いになったような気がして、心臓が捩じられたように痛くなった。 「じゃぁ、曲、どうやって覚えてるんだよ」 「えーっと、耳はいいもんで」 それで聞いて覚えるんだけど、って言葉は、ごにょごにょ、と、だんだん小さくなるしか術がなかった。ただでさえ迫力のある目はますます鋭くなっていき、太刀打ちできない。自然と頭が垂れさがっていく。それでもなんとか最後まで口にして顔を上げれば、兵助の唇は硬く結ばれて下がっていた。 (あきれられた、よ、な) 楽譜通りに引けない。俺の、そしてこの道を志す者ならば致命的な課題。ソロの音づくりしかしてこなかった(というか、させてもらえなかった)のは、相手と合わすことができないから。前に授業でしたけど、そりゃ、散々な結果だった。別に、それでもいいって、思ってた。そういうタイプの奏者だっているわけだし、コンクールで馬の合う審査員に評価されることだってある。一緒に組んだ相手からも師事する先生からも、無理、って思われるのは慣れてる。だから、兵助にコンビを解消する、って言われても全然、珍しいことでもなんでもねぇのに、 (----------コイツと、兵助とやりたい) その思いだけがどうしようもなく渦巻いていた。彼の音を聞いた瞬間から、増幅していく熱を抑えきることができなかった。けど、それは、こっちだけのものだろう。兵助が俺と組むメリットがない。彼の唇がうっすらと開き、「止めよう」という言葉が紡がれるのを凝視して待って、 「金賞、狙うんだよな」 予想してなかった言葉に、頭がついてかない。その時の俺は、相当、マヌケな顔をしてたと思う。ようやく事態を呑みこんで「あぁ!」と反応できた俺に、仏頂面だったそれまでとは一転、「口開けすぎ」と、笑いを堪えたような緩んだ表情を向けた。それから「ほら、時間ないから、音取りするぞ」と下ろしていた楽器を構えた。 その後は、地獄の特訓だった。音を跳ねかしたり、テンポを勝手に作ってしまう度に「だからさ」と兵助の目がカッと見開く。休憩一つなく、時間も延長して、ようやく一通り弾き終わった頃には、へろへろで意識がぶっ飛びそうだった。帰ったらもう寝よう、と鉛みたいに重たい体を何とか動かし、布団に飛び込むことだけを考えながら片付けていると、兵助がさらりと言った。 「あ、明日は朝の9時からな。第1楽章、暗譜してこいよ」 (こいつ、練習の、鬼だろ) *** 「ホント、ここまで合わないと、逆にびっくりだな」 初日以来、授業以外の時間は兵助との練習がみっちり入っていた。兵助の方が授業でも「一人でもいいから練習しとけよ」と言われて必死に譜面を追う。けど、さすがにそれが毎日続けば、さすがに、息抜きがしたくなる。一週間。俺にしては頑張った。よくもったよ、俺。自分で自分を褒めたい。俺はこっそりと練習室から、三郎と雷蔵の所に逃げてきたのだ。 「ヴァイオリン科の久々知っちゃあ、精密機械みたいに正確な演奏するって有名だからな」 「その彼とハチだもんねぇ。……ハチのピアノはストーリーが合って僕は好きだけど」 「ありがと、な」 それも兵助に言わせれば、『一人で勝手に盛り上がってなよ』ということらしい。兵助の特訓のお陰で音を外したりリズムを間違えたりするのは減ったが、テンポや曲想を変えてしまう癖はなかなか抜けなかった。よくよく考えればピアノと違って音が狂いやすいと言われる弦楽器であれだけ正確な音が出せるのだ。きっと楽譜に書かれた音楽記号をきっちりと守るタイプなんだろう。けど、そんな兵助の性格を差し引きしても、楽譜通りに演奏することを要求してきたのは、間違ってない。リサイタルじゃないのだ。コンクール。ましてや、二人で演奏するのだ。審査員からしてみれば、いかに忠実に演奏しているかというのは採点のポイントだろう。兵助は何一つ、間違っていない。 (けど、何か、もやもやするっつうか、なんていうか) 上手く自分の気持ちが整理できずに視線を落とせば携帯がタイムリミットを示していた。 「あ、そろそろ行かねぇと」 「どこへ?」 「練習。もうすぐ兵助のレッスン、終わるから」 「そっか…あんまり無理しないでね」 「ま、葬式に線香くらいはあげてやっから」 相変わらずな二人の言葉に俺は重たい気持ちを抱えながら、立ち上がった。 *** 「よっしゃ、セーフ」 俺たちが缶詰に使っている練習部屋に兵助はまだ来てなかった。勝手に抜け出してたってバレたら何言われるか分かんねぇもんなぁ、と思いながら蓋を開け埃よけを外す。艶めいた鍵盤を指で押さえれば、大分と円熟みの増した音が返ってきた。最初は思い通りに弾かせてもらえなかったこのピアノも、今では随分と仲良くなれたような気がする。 「なぁ、何で、あいつはコンクールに出ようと思ったんだろうな」 そう話掛ければ、くすくすと笑うような音色が戻ってきた。「意気地無しね」と言われているような気がして「だってよ」と零す。兵助とは練習中は曲のことしか話さないし、終われば終わったで、次回の練習についてや(一方的な)俺の宿題についてしか話題に上ったことはなくて。一番最初に聞こうと思っていた出場の理由も結局、聞けずじまいだった。 (そういや、俺、あいつのこと何も知らねぇんだな) ちっとも、兵助に近付けていなかった。どこに住んでるのかとか家族は、とか普段は何をしてるのかとか何が好きなのか。どんな音楽が好きなのかとか、なぜこの道を選んだのかとか、どんなこと考えて演奏してるのか、とか。-------それから、何で、演奏中に笑わないのか、とか。兵助のこと、何一つ、知らない。知っているのは名前と演奏だけで。 「つーか、何で、こんな気にしてるんだよ。あー、もー」 よく分からない、もやもやした気分を晴らそうと、俺はふ、と閃いたメロディに指を滑らせた。 踊りすぎてプルトに衝突 △ ▽ 「演奏、荒れてるな」 まだ最後の音が残っているうちに勘右衛門に話しかけられ、一瞬、返答が遅れた。 「……そうか?」 「竹谷、だろ」 黙り込んだ俺に奴は視線を向けて、その眼はどことなく楽しそうだったけど、それ以上何も言わなかった。空気を震わせていた残滓がこと切れた所で、俺はようやく弓を離した。ケースの中にヴァイオリンをセットしながらも勘右衛門は断定を覆そうとしない。根負けした俺は、仕方なく「ものの見事にバラバラだよ」と俺はぼやいた。 「ヴァイオリン科の逸材、さすがの久々知兵助でも無理って?」 そう言う勘右衛門の言い方がピチカートみたいに跳ねてて、楽しんでいるようだった。ちょっとそれに苛立ちながら「茶化すなよ……あいつさ、楽譜、読もうとしないんだよな」と返せば、勘右衛門は薄い唇を含ませるようにして笑い、ケースの留め具をはめながら、こちらに視線を投げた。 「けど、面白い演奏する奴じゃないか」 「聞いたことあるのか?」 「文化祭かなんかで、一回だけな」 ダイナミックというかアクロバティックだよなぁ、と勘右衛門に対し「こっちは綱渡りをしてる気分だ」と呟けば、彼は吹き出した。言いえて妙だったらしく、暫く笑い続けた彼は、ようやく目尻に溜まった涙を拭うと、不意に真面目な顔つきになった。 「まぁ、けど、俺から言えば竹谷の演奏はお前にないものがあると思うよ」 それがお前の音が荒れてる理由だろ、と継ぎ足されて、釈然としない気持ちが増す。それは、竹谷との練習からずっと抱えているものだった。楽譜は見ない、音を間違える、勝手に解釈する。緻密に計算された楽譜通りの演奏する俺と正反対の、彼の感情がこれでもか、これでもか、ってくらいダイレクトに、熱烈に伝わってくる竹谷の演奏。俺にないもの。勘右衛門もその辺りが言いたいのだろうか、と思ったが、俺は敢えてとぼけた。 「……何それ」 「分かってるだろ?」 「竹谷の演奏は表情が豊かだって言いたいんだろ」 「まぁね。……けど、それだけじゃないけどな」 機械みたいだ、そう批評されたのは一度や二度じゃない。楽譜に記載された通りに演奏する機械。けれど、別に俺はその言葉が嫌いなわけじゃなかった。「将来が楽しみだ」と、技術は認められているし、「曲想も作曲者の意図をくみ取って演奏できてる」と感情表現についても、一定の評価がないわけでもない。もちろん、プロの演奏家になるためには、曲想の表現は確かに自分の課題だとは自覚していた。けど、 「それだけじゃないって?」 「教えない。教えたら、お前に引き離されちまうだろ」 じゃぁ練習頑張れよ、と、いつの間にか帰り支度を整えていた勘右衛門はレッスン室から出て行った。ふ、と壁の時計を見てみれば、短針がまた上がっていくところだった。竹谷との約束の刻限が迫っている。あいつちゃんと練習してるだろな、と俺も慌てて愛器をケースにしまった。 *** 成績に影響する試験も終わったせいか、校舎全体がやけに静かだった。自分の靴音が、やけにはっきりと届いた。反乱射する残響が、わんわん、耳にこだまする。薄暗くなった廊下は、ぼわり、と迫る闇に足元が覚束ない。なんとなく勘右衛門の言葉が喉に引っ掛かったまま、なかなか、呑みこめずにいた。 (竹谷にあって、俺にないもの) 勘右衛門の言い方だと、曲の表情以外で、ということなのだろうが見当がつかなかった。泥沼に足を突っ込んでしまったみたいに、考えれば考えるほど分からなくなっていく。囚われる思考が酷く重たい。ぼんやりとしたまま、俺はいつものレッスン室のドアに手を掛けた。 「え、」 押し寄せてきた響きに飲み込まれる。一瞬、部屋を間違えたかと思った。コンクールの曲とも違う、全く知らないメロディ。浮き立つような楽しげな音色が部屋に溢れかえっている。音が温かいのは、長調の曲だから、というわけじゃないだろう。------音楽の中心に、満面の笑みをしたハチがいた。 (こんな顔して演奏するんだ) 本当に竹谷はピアノが好きなんだ、という事が音の端々から、その笑顔から伝わってきた。俺の心臓が、あの音を奏でる。初めて彼がピアノを触った時に感じた、あの音が。彼は俺が入ってきたことに全く気付いてないようで、温かくて優しい調べを綴っていく。“幸せ”を表現したらこんな感じだろうか、と。じんわりとしみ込んでくる旋律に俺は瞼を下ろし、身をゆだねた。 *** 「っ、悪ぃ。練習してなくって」 余韻が空気に溶け消えた瞬間、俺の手は自然と拍手を送っていた。まだ、胸の奥が熱い。は、と顔を上げた竹谷は俺の存在にびっくりしたようで、慌ててコンクールの楽譜を立てようとした。 「なぁ、何ていう曲なんだ?」 そう問いかければ、熱を入れて演奏していたせいか元から紅潮していた彼の頬がますます赤らんだ。しどろもどろに「えっと…俺…が作ったんだ…だから、タイトルは、ないんだけど」と呟けば、今度は俺が驚く番だった。 「これ、竹谷が作ったのか?」 「一応、副科で作曲取ってるから…相変わらず、滅茶苦茶だけど」 「いい曲だな」 「え?」 自然と、その言葉が零れていた。お世辞でもなんでもなく、素直な自分の感情が。 「うまく言えないけど、さ。俺は好きだな、今の曲」 「ありがと、な。兵助」 竹谷が向けたその笑顔に、俺の心臓が、また、音を立てた。 追いかけないで、走り続ける二人はコンチェルト △ ▽ 「三郎、雷蔵!」 学食に現れた友人を見つけ「おーい」とばかりに手を振り回せば、トレーを手にした二人が俺の元にやってきた。一人は穏やかな笑みを浮かべ、もう一人は苦虫をかみつぶしたような表情で近づいてきた。 「ハチ、なんか楽しそう。ご機嫌だね」 「気持ち悪いくらいな。足、地面についてるか?」 げんなりとした色の三郎の嫌味さえ今はパステルカラーに見える。鼻歌どころか大声で歌いだしたい気分だ。あの日以来、俺たちは絶好調だった。俺が走っちゃって兵助に止められるのは相変わらずだけど、一方的じゃなくて俺の解釈も聞いてくれた上でどうしていくか二人で考える事が増えて、雰囲気が変わった。こう、目指す方が一致したというか、曲にもばしっとびしっと纏まりが出てきたような気がする。その分、時間が掛ってようやく全体の7割ぐらいだろうが、二人で創り上げていくのは楽しかった。 ------------何より、兵助がレッスン中に笑うようになったのが一番嬉しい変化だった。 「なぁなぁ、来週の火曜日さ、暇?」 「何かあるの?」 「例のコンクールのさ予選会っつうか、学内のコンペがあるんだと」 「そうなの? てっきり、ハチ達が出れるもんだと」 「俺もそう思ってたんだけどさ。学園長がこの間ひょっこり練習に現れてよぉ」 座るなり茶を飲みだした三郎を無視して、俺は身を乗り出して聞こうとしてくれている雷蔵の方に顔を向けた。 *** 「そこ速すぎだろ。もっと溜めた方がいいんじゃないか?」 「けど、後の所の効果を考えたらさ」 「ぶふぉっ!」 背後からの咳払いにテンポの解釈で言い争っていた俺たちは思わず飛び上がった。振り返れば、いつの間に部屋に入ってきていたのか、学園長がそこにいた。振り子の最高値まで跳ね上がった心臓が太鼓みたいに打ち鳴ってる。思わず兵助と見合ってしまって、その場にへたりこみそうになった。 「が、学園長」 「ふぉ、ふぉ、ふぉ。調子はどうじゃ?」 「絶好調っすよ」 「その割には、まだ仕上がってないようじゃがのぉ」 ふむ、と、たっぷりとした眉に隠れて普段はどこにあるのか分からない目が光ったような気がした。やべ、見抜かれてる、とたじろいだ俺とは対照的に「本番までには完璧な演奏に仕上げます」という兵助の言葉は力強い。それに後押しされるようにして俺も「絶対ぇ金賞取りますんで」と加勢すれば、彼は小さく笑った。 「その事なんじゃの、来週の火曜日に一度披露してもらいたいんじゃ」 「え?」 「実はの、コンペをすることになったんじゃ」 「コンペ?」 「まぁ名高いコンクールじゃからのぉ。何の経歴もないコンビを出場するのはどうか、と反対があったのじゃ」 語尾を濁すような学園長の言葉に根強い反対があるのが見て取れたけど、今の自分たちなら絶対に勝ちとれる、そう思った。それは俺だけじゃなくて。 「という事は、そのコンペで黙らせればいいわけですね」 兵助の言葉に「何気にぶっそうなこと言うなよ」と突っ込めば、ぶぉふぉっふぉっふぉぉっ、と学園長は吹き出した。それから、「頼もしい限りじゃの。楽しみじゃ」とくるりと踵を返して部屋から出て行った。 *** 「ふーん。じゃぁ、そのコンペで決めるんだ」 「そうなんだよ。来てくれよ。兵助にも二人を紹介したいし」 「火曜、ね。仕方ないから行ってやるよ」 「ホントは聞きに来てぇくせに」 「雷蔵、こいつ殴っていい? うざい」 「殴らないで。で、コンペには他に誰が出るの?」 「ピアノの方は分からねぇんだけどさ」 兵助が担当教官から聞いてきた相手の名前を伝えれば、「あぁー」と二人が頷いた。なんとなく、沈んだトーンに「どんな奴?」と問いかければ三郎と雷蔵は顔を見合わせた。顔を顰めて「えっと、」と言いづらそうにしている雷蔵に代わって三郎が吐き出した。 「嫌な奴」 「嫌な奴って?」 そう返しても、それ以上口を噤んでしまった三郎に、困ったように雷蔵が見遣った。ふぅ、と軽く息をつくと「もう僕は気にしてないのに」と子守唄のような柔らかい口調で雷蔵は三郎を宥めた。 「や、あいつはだけは絶対に許せない」 「何かあったのか?」 「前に三郎が組んだことがあったんだけどね、」 雷蔵が説明しだしたのを止めるように「腕は確かだけど性格はカスだ。カス」と三郎が不機嫌な重低音を被せた。それ以上立ち入らない方がいいのかも、と思っているとポケットの携帯が震えた。設定していたアラームが時間を告げていた。ディスプレイの中で鐘の絵文字が踊ってる。 「っと、そろそろ時間だな」 「今から、練習?」 「おぅ。とにかくコンペまであとちょっとだからな」 「人間、変わるもんだな。あのさぼり魔のハチが練習の鬼になるとはね」 「うるせぇ」 笑いながらそう答えると「じゃぁな」と席から立ち上がった。これから兵助に会うことができるのかと思うと、さっきの携帯の絵柄の鐘みたいに心が踊る。だから、ちっとも気づいてなかった。----------俺の頭の上に立ちこめていた暗雲に。 *** ワルツよりも軽やかな足取りで練習棟の廊下を駆け抜ける。早く兵助と音を合わせたかった。今日はどんな演奏を創り上げることができるのだろうかと考えるだけで頬が緩むのが自分でも分かった。どこからか聞こえてくる夜想曲は短調な曲だというのに、こっちの気持ちが上向いているせいか明るく聞こえた。いつものように一番奥のレッスン室のドアを勢いよく開けて、 「兵、」 名前は最後まで言えなかった。部屋の中には兵助とそれから見た事のない奴が一人。兵助は今にもそいつを殴らんとしていた。 「ちょ、兵助!?」 慌てて背後から羽交い締めて、兵助の振りかざした手首を握りしめて動きを止める。兵助の刃金のような反発する筋肉に押されそうになりながらも、握力では負けない。なんとかして抑えつけていると、兵助は熱に目を血走らせ「放せっ、放せっ」と喚いた。 「どうしたんだよ、兵助」 「いいから放せっ」 どんな音楽論議だって顔色一つ変えない兵助が頭に血を登らせている姿に、どうすればいいのか分からなかった。暴れ馬のごとく「放せって言ってるだろ」とがなり立てる兵助を今解放したら絶対に殴るだろう。おどおどと立ち尽くしている目の前の男に。力いっぱい掴んでいる俺の手を「竹谷、放せっ」と兵助は手首を揺らして抵抗し続けている。これ以上、握りしめていたら、彼の大切な手を傷めてしまうかもしれない。とにかく、いったん、落ち着かせるのが先だ。 「行けっ」 目の前で真っ青になっている男を叱咤した。何が原因でここまで兵助が怒ったのか分からなかったが、とにかく火種から少しでも遠ざけなければ、と本能が告げていた。なかなか動こうとしない男に「早く、出てけっ」と叫ぶ。は、っとした男は、弾かれたように立ち去った。 「兵助、落ちつけよ」 「……もう落ち付いた」 まだ息は荒かったが、憑き物が落ちたかのように彼の力がくてりと抜けたのが分かって、俺も兵助の手を解放した。するり、とあからさまに外された視線に「どうしたんだよ?」と尋ねたけれど、「何でもない」と一言だけ答え、彼は唇を切り結んだ。そのまま何事もなかったかのようにケースから楽器を出そうとした兵助の肩を掴む。 「何でもないってことないだろ。殴りかかるなんてよ」 「別に、何でもないって」 「そんなことあるか。それに、ヴァイオリニストなんだから、手、大事にしねぇと」 「……うるさい」 「どうしたんだよ? っ、」 指が空を掴んでいた。兵助に振り払われたのだと気付いたのは、兵助の肩に置いていた自分の手が急に冷たくなったからだった。信じれなくて呆然と彼を見つめていれば、彼は踵を返し俺と向き合った。だが、兵助はすぐに視線は逸らし、吐き捨てた。 「お前には関係ない」 凍りつくような声だったが、俺の怒りは沸点をぶった切った。ざっと、血の気が昇るのが自分でも分かり、気が付けば叫んでいた。 「関係ねぇってことないだろ。俺とお前はパートナーなんだから」 関係ない、なんて一番聞きたくない言葉だった。だって、兵助がいてくれたから、ここまで頑張れたから。一音一音を大切にする兵助の音楽に向き合う姿を見て、逃げてちゃ駄目だ、って気づけたから。作り手や弾き手が自分だけじゃないのだから、自分だけが楽しむだけじゃなくて、相手と対話をしながら音を紡いでいくんだ、って兵助に教えてもらった。それに、何よりも俺の創り出した音の世界を好きだ、って言ってくれた。 (だから、俺はもっと兵助と---------) 「ああ、そうだな。……金賞を狙うための、即席のな」 ノクターンは必ずやってくる △ ▽ あの後、どうやって竹谷と別れたのか、さっぱり覚えていなかった。あの場から逃げ出すようだったのかもしれないし、彼にさらに罵詈雑言をぶつけたのかもしれない。気が付けば、自宅のアパートへと戻っていた。やけに手が軽いな、と玄関の扉を開けようとして、ヴァイオリンをケースごと忘れてきたのに気がついた。 (しまった、な) 予備のはあるとはいえ、あのヴァイオリンは父さんと母さんが入学の時に贈ってくれたものだった。名器ともなれば云千万ともなるそれはランクからすればずっと低いものだった。けれど、俺のためにと一生懸命働いてくれている両親から貰ったものだ。思い入れのある大切なものだった。けど、竹谷に会うかもしれないと思うと、あそこに取りに戻る気にはなれなかった。 (もうパートナーは解消だろうな) 何もするにも億劫で、電気も付けないままベッドに直行し、そのまま倒れ込んだ。目を閉じでも、物音一つない静謐な闇に竹谷の声がリフレインする。頭が痛い。ぐ、っと奥歯を噛みしめる。自分でも馬鹿なことをしてしまったのは分かっていた。けど、どうしても許せなかった。 *** 「ふーん、意外な曲に挑戦してるな」 空気を震わす余韻をぶち壊されて振り向けば、件のコンペに出ると聞いたヴァイオリン科の先輩が立っていた。「ブラボー」と嫌味ったらしくわざとためた声音と拍手で迎えられたが、相手は年上だ。そこは「どうも」と頭だけ一応下げておく。彼は勝手に部屋にずかずかと入ってくると竹谷の定位置であるピアノの椅子に腰を下ろした。それだけで何だか不愉快だったが、まさか「出て行け」とも言えず、肩当てからヴァイオリンを外す。彼の背後、ピアノの蓋の上に紙と鉛筆が置かれたままになっていた。この部屋は最近俺たちしか使ってないから、恐らく竹谷が作曲の途中で授業に出ていったのだろう。楽譜が苦手な彼がインスピを紙に書き留めて曲を創り出しているのを俺は知っていた。 「自由曲はピアノ方の趣味かい?」 「……敵情視察ですか?」 「まさか、久々知の応援だよ。堅物の久々知がこんな雰囲気重視の曲を弾くなんてね」 くすくすと笑う先輩は、自分の苦手とする部類だった。まぁ、あまり得意な人もいないかもしれない。皮肉と当てこすりしか口にしない先輩だが、それでも、腕は確かなのだから厄介だった。出る杭は打つと公言してはばからない先輩のことだ。コンペを前に何か言いに来たのだろう。適当に聞き流しておこう、とヴァイオリンの弦をいじりながら言葉を返す。 「選んだのは俺ですけど」 「へぇ、意外だなぁ」 「俺自身も驚いてますよ。けど、竹谷となら演奏ができると思ったんで」 「ふーん。あの『竹谷』となら、ね」 知ったようなその口ぶりに「竹谷と組んだことがあるんですか?」と尋ねれば「まさか」と先輩は嘲笑った。 「しかし、久々知も落ちたね。そんな曲、選曲するなんて」 それは悪かったな、と心の中で毒づきつつも、「はぁ」と相槌だけは打つことにした。自分への嫌味だ。十分ぐらい我慢すれば、そのうち厭きて先輩も出ていくだろう。糠に釘、は得な方だった。それこそ最初は腹が立ったが、嫉妬の渦巻く世界だと分かれば多少の嫌みは称賛の裏返しだ、そう割り切ることにしていた。 「ま、けど関係ないか」 「何がです?」 「どんだけ練習しても、本番にさっきの自由曲は弾けないだろうから」 暗に出場できない、と宣戦布告されたことに「それは、分かりませんよ」と即答する。 「久々知は奨学生だったよね」 「え……まぁ。それが?」 「コンクールに出れないとなると、困るんじゃないかい?」 ふふ、と笑う先輩の目が歪んだ。音楽を続けるには馬鹿にならないくらい金がいる。奨学生とはいえ、特別レッスンや譜面代、楽器のメンテナンスなどのことを考えれば、どんどんと財布から札が飛んで行った。バイトをしようにもそれで練習時間が減ってしまって腕が落ちたら元も子もない。手っ取り早いのはコンクールに出て賞金を得ること、そしてプロになって事務所と契約することだった。 「取引をしないか?」 「取引?」 「あぁ。お前がこのコンクールに出ないってのなら、次の学コンでは優勝をお前に譲ってやるよ。学コンでの優勝者は授業料免除と留学の権利。ヴァイオリン科で優勝できる実力があるのはお前と僕ぐらいだろう。他の若手が出てくるこのコンクールで賞を取るよりも、ずっと楽だろ」 そう、打算だったのだ。最初、学園長からコンクールの話が来た時は、腕さえあれば、誰でもよかった。別に竹谷とじゃなくても。けど、今は--------。 「お断りします」 「っ」 「このコンクールじゃないと意味がないんです。竹谷とじゃないと」 先輩の顔がさっと蒼くなり、すぐに真っ赤になるのが分かった。閉まったピアノに手を付き「せっかく、人がした手に出てやってんのに」と椅子から立ち上がる。ぐしゃり。嫌な音が耳を舐めた。竹谷の、曲。 「……手、どけてください」 「は?」 俺の言葉に意味が分からなかったのか、先輩は「は?」と手元を見下ろした。それから「何だ、これ」とつまみあげると暫くそれを眺め、それから「ドーソファミー」とへらへらと歌いだした。ワザとらしく音程をずらしたり、語尾を上げてみたりして、時々ちらちらといやらしい視線を投げた。 「返してください」 「何これ、久々知が作った…わけないか。ってことは竹谷?」 「放してください」 「にしても、何だよこれ、ゴミだな。小学生でももっとましな曲作るぞ」 ぐしゃり、と、今度は意図的な音が耳に届いて、怒りに握りしめた拳が震えた。 「その手、放せって言ってんだろ」 *** 自分への嫌味はどれだけ言われたって、平気だった。けど、竹谷を馬鹿にされたのは駄目だった。今、思い出しただけでも、目の前がかっと赤くなる。竹谷が部屋に入ってこなかったら、きっと、ぼこぼこに殴っていた。竹谷を傷つけるのは、何があっても許せなかった。だけど-------。 「っ、」 瞼の裏に竹谷が過る。一番竹谷を傷つけたのは、きっと俺だった。「ああ、そうだな。……金賞を狙うための、即席のな」と告げた時の、彼の苦しげな表情が俺に灼きついて離れない。振り払っても振り払っても、すぐに現れる。どれだけ目をきつく瞑っても、竹谷のあの表情が消えさることはなかった。 グラーヴェ、沈み行く心 △ ▽ 頭をガツンと殴られたような、気がした。あまりに痛い言葉だった。出ていく兵助を引きとめることもせず、俺はただ呆然としてその背中を見送ることしかできなかった。分厚い扉の向こうに彼が消え、部屋には静けさが戻ってきた。けど、俺の中では兵助の言葉がリフレインし、わんわんと耳鳴りしていた。寄せ繰るそれは帰っていき、また、次の波に押し戻される。脳幹を揺さぶられているようで、気持ち悪い。 「関係ない、か」 実際に口にしてみれば、ざらり、と喉がに言葉が貼りついて呼吸が塞がれたみたいで、息をするのすら苦しい。関係ない。そう、兵助の言葉通り、俺たちは即席のコンビだったのだ。目指す音楽のスタンスについては、だいぶ話したけれど、じゃぁ、どうしてコンクールに出ようと思ったのかとか何で俺と組んでくれたのか、とか、そんな話は全然してなかった。それだけじゃない。兵助のこと、俺は何も知らなかった。あんなにも一緒にいたのに、じゃぁ、兵助が好きな事だとか好きな食べ物とか好きな色とか知ってるか、と問われればNoだ。ビジネスパートナーみたいな、そんな乾いた関係でしかなかったのだ。 (まじでこうやって考えてみると、何も知らねぇんだな) 兵助はいつも熱心で、怖いくらい曲に打ち込んでいて、執り憑かれたかのように演奏していた。怨念にも似たそれがひしひしと伝わってきた。兵助の内面が溢れ出ているような気がしたのだ。けど、そこに踏み込んだら、二度と関わってくれなさそうな気がして、結局、今日まで聞けなかった。もっと知りたい、という感情が募れば募る程、兵助に近づくのが怖かった。関係を切ろうとしていたのは、もしかしたら、俺の方だったのかもしれない。 どれくらい悄然としていたのだろうか、部屋にはすっかりと闇が溜まっていた。冷えきった心に体温も追ってきたんじゃないか、ってぐれぇ寒い。電気も点けずにいたせいか、部屋に鎮座するピアノは黒に溶けていく。今日は、弾いてやれそうもねぇ。 「悪いな、」 蓋をしたままピアノをひと撫でして、ふ、とそれが目に入ってきた。投げ出されたヴァイオリン。艶々と盤面が光るそれは、兵助が丁寧に手入れしているものだろう。そのまま置いてしまったらしい。冷たい空気に曝されて、縮こまっているように見えた。このまま放っておくわけにもいかず、兵助の片付けの仕方を思い出しながら、そっと手に取る。もうとっくに兵助の手から離れているのに、なぜだか、兵助の温もりが宿っているような気がして、どうしようもなく、泣きたくなった。 *** 「今日もこなかった、か」 あの日から、三日。コンペは明日に迫っていた。すれ違いになると嫌だし、と一日中練習室に篭っているけど、兵助はあれから一度も顔出すことがなかった。普段なら気が散るから切っている電源をオンにした携帯を脇に置いて練習しているけれど、兵助からの連絡は一切なかった。彼がこの部屋に来ないどころか、電話やメールの一つもない、それが答えだと頭では分かってたけど、俺はその結論を先延ばし先延ばししていた。 「お前の相棒はいつ来るんだろうな」 傍らにはケースに仕舞いこまれたヴァイオリンに話しかける。自分から兵助に連絡する勇気はなかった。携帯の番号だってメルアドだって知ってる。相手が同じ大学のヴァイオリン科だってことも分かってるんだから、そこまで押し掛けることだってやろうと思ったらできた。けど、できなかった。もし、もう一度「関係ない」って言われたら、立ち直れない。自分でも情けねぇ、って思うが、その想像をすると心臓がひやりと痛くなって、会いに行くどころかどうしても携帯のボタンを押すことすらできなかった。 「もう一回、頭から通すか」 余計なことを考えるな、と自分に言い聞かせ、ピアノに指を走らせる。けど、上手くいかない。あんなにも弾んだ音が、今は鉛玉のように重たい。話しかけても話しかけても、歌わないピアノ。足りない、足りない、足りない。今までだって、自主練の時は兵助の旋律がなかったはずだった。けど、その時とは、確実に違う。もしかしたら来るかもしれない、って期待はゆっくりと腐食していってるのが分かった。 (もう、本当に関係なくなっちまったのか) そう思ったら、もう、駄目だった。ピアノの蓋を叩きつけるように閉めて、俺は彼のヴァイオリンを片手にその部屋を飛び出した。 *** 「あれ? 今日は練習ないの?」 「珍しいな。コンペ、明日だろ?」 突然、呼び出した俺に、当然のごとく雷蔵と三郎は疑問をぶつけてきた。どことなく心配そうな二人に(珍しく三郎も雷蔵と同じ表情をしていた)、やっぱ、そうだよなぁ、と思いつつ、用意してきたへらへらした顔で答える。 「あー、何か、駄目になった」 「へ?」 普段と変わりなく同時に顔を見合わせた二人の眉は、鏡写しのように同じ角度まで下がっている。しばらく小突きあってるような雰囲気の後、「駄目になったって?」と雷蔵が尋ねてきた。できるだけ明るく振舞って、俺は事の顛末を説明した。 「てなわけで、多分、明日のコンペは出ねぇと思う。悪いな、誘ったのに」 「や、それはいいけど、あんなに練習してたのに……大丈夫?」 「大丈夫って、何が?」 「何がってさ……」 そう言ったっきり黙り込んで視線を伏せてしまった雷蔵の後を三郎が引き継いだ。 「何か誤解があるんじゃないのか?」 「誤解も何もないって。つーか、やっぱ、俺はソロ向きなんだって。 解散、解散。つーか、あいつには飽き飽きしてた所だったしさ。 いっつも『走りすぎ』って怒られるし、解釈も合わないし。ま、丁度よかったんだって」 そう並びたてる俺に「ハチっ」と三郎が鋭く遮った。地響きのような低い声が俺を穿つ。 「本当に、それでいいのか?」 あぁ、と相槌を打とうとしたけど、俺の喉は誰かに首を絞められたかのように、音にならなかった。ただ、空気が漏れる音だけが唇から零れた。瞼裏に熱が溢れかえって、それは、ぼろぼろと涙に代わった。ぐちゃぐちゃに視界が歪む。堪えようとすればするほど、嗚咽が迸る。 「本当にいい、って思ってたら、そんな顔しねぇよ、馬鹿」 「まだ諦めるのは早いんじゃない。明日、来るかもしれないよ」 「っ、ひ、っつ、けど、来ねえかも、っ、し、れねぇ」 髪を乱暴に掻き撫でる三郎の手と、背中を優しくさする雷蔵の手が温かくて、涙が止まらなかった。 「大丈夫、大丈夫。久々知くんのこと、信じなよ」 「しん、じる?」 「うん。ハチの話聞いてて思ったんだよね。久々知くんって、きっと、音楽が好きなんだよ」 雷蔵の言葉に「お前の話と前に聞いた演奏とイメージ違うけどな」と三郎が混ぜ返す。余計なこと言わないの、と雷蔵にたしなめられた三郎は、それから「けど、雷蔵の言うとおりだと私も思う。音楽が嫌いなら、とっくの昔にお前と何か付き合いきれなくなるって」と続けた。 「信じなきゃ、可哀想だよ。久々知くんも、ハチも」 「おれも?」 「うん。一緒にやってきたんだろ。絶対、明日来るって。大丈夫、大丈夫」 「もし、久々知が来なかったら、私たちが引っ張ってでも連れてきてやる」 「ね。今日は、もう、早く帰って寝なよ」 俺は兵助のヴァイオリンケースを、ぎゅっと抱え込んで、「あぁ」と頷いた。 (---------信じよう。兵助は、きっと来るって。兵助のことを信じよう) 祈りを込めてオラトリオ △ ▽ 「兵助、…よかった、生きてるな」 「勘右衛門?」 ぼんやりとした頭で認識したのは学科の友人だった。カーテンを閉め切ったまま電気も点けずにいる薄暗い部屋は、今、いったい何時なのか分からなかった。時間どころか、今日が何日なのかさえ、全く。枕元にある携帯を覗きこんだけれど、真っ黒の画面をしたそれはうんともすんとも動かず、そういえば電池切れしたまま放置していたことを思い出した。しばらく壁の辺りに手を這わせていた勘右衛門の「付けるぞ」という言葉と同時に、ぱ、っと光が目を焼いた。あまりの眩しさに掌で眼前にひさしを作りながら尋ねる。 「今日、何日?」 勘右衛門が告げた日時に、脈がやけに大きく打った。コンペの、日。久しぶりに壁時計に視線の焦点を当てれは、予定時刻まで一時間を切っていた。 「レッスンにも来ないし、連絡取れないしさ。死んでるかと思った」 「ごめん……」 久しぶりに割られた静寂に、ガサガサとした音が耳に障る。勘右衛門の手にぶら下げられているのはコンビニのビニル袋からだろうか。のろのろとベッドから起き上がって、勝手に部屋に座り込んだ勘右衛門の傍に寄り俺も腰を下ろす。 「コンペが近くて篭ってるのかと思いきや、そうでもないみたいだな」 さらり、と発せられた台詞が、逆に痛かった。こいつは、どこまで知ってるんだろうか。ちらり、と視線を寄こして探ろうとしたけれど、相変わらずマイペースな勘右衛門は袋の中を漁っておにぎりやらサラダやらペットボトルのお茶やらを座卓の上に並べ出した。 「ま、とりあえず、食べなよ」 ちっとも腹が減ってないような気がしたけれど、体は正直だった。いつもより一度高い音で腹の虫が鳴いた。 *** 「で、喧嘩したのか?」 「喧嘩っていうか、」 自分のはともかく先輩の醜聞を自分の口から言うのは憚れたが、それ以上に、聞いてほしかった。湧き立つ感情をどうにか抑え込んで、事の顛末を話せば勘右衛門は、はぁ、と普段の声音よりかは半オクターブ低い声で溜息を漏らした。 「何でそんなに腹が立ったのか、分かってるの?」 「先輩に? 竹谷に?」 「どっちも」 考え考え「先輩のは……竹谷のこと、馬鹿にされたから、だな」と結論を告げれば、勘右衛門「一応、自覚はあるわけだ」と意味不明なことを言ってきた。よく分からずに「自覚って何が?」と尋ねれば、勘右衛門は「いや」と首を横に振って、それから「竹谷のことは?」と問いを重ねた。 「……手のことだと、思う」 俺の言葉に「手ぇ」と素っ頓狂な声を出した勘右衛門の目は驚きに丸かった。その表情から目を逸らし、俺は自分の手を見つめながら「そう、手の事」と頷いた。勘右衛門は「何でまた」の不思議そうな声音に、俺は自分の左手の甲を右手の指でそっと撫でた。 「あいつさ、『ヴァイオリニストなんだから、手、大事にしねぇと』って言ったんだ」 「普通そうだろ? 殴りかかろうとしてたんだから」 「あぁ。けど、言われた時、ものすごく嫌だったんだ。竹谷が必要なのは、この手だけなのかって」 コンクールに出るのは別に俺とじゃなくてもよかったんだろう。竹谷が必要としているのは久々知兵助という人間じゃなくて、ヴァイオリン科学年首席の腕。心配しているのは、俺の手なのだ。そう思ったら、腹が立った。 自分だって最初は誰でもよかったのだから、竹谷をそのことで責めるのは筋違いだってことは分かってる。竹谷の言葉を聞いた瞬間、けど、独り取り残されたみたいな、どうしようもない淋しさに呑まれた。 (こんな気持ちを知るくらいなら、組まなければよかった) 「竹谷に確かめたのか? その言葉の真意」 「いや、確かめてない。けど、俺がそうだったから、きっと奴もそうなんだろ」 一番最初に「金賞を狙う」と口にしたのは竹谷の方だ。竹谷が何を思って出場しようとしたのかは知らねぇけど、コンクール出るということは何かしら欲があって当然だった。これまでは、それが汚いことだとは思ってなかった。けど、竹谷だけは違う、って心のどこかで思っていた。 (だから、裏切られたような気がして嫌だったんだろうか?) そうなような気もしたけれど、どこか、まだ何かが捩じれているような違和感。それを見抜いたかのように「竹谷が言った事は、そういうことじゃないかもしれないよ」と呟く勘右衛門の目はとても透いていた。その言葉の意図が全然分からずに「じゃぁ、どういう事だよ」思わず声を荒げた俺に、勘右衛門はさらに半分音程を下げて、深い溜息を吐いた。 「俺さ、前に言ったよね。竹谷の演奏はお前にないものがあるって」 唐突、代わった話題に付いていけず、それでも何とか「あぁ」と頷けば、勘右衛門は「負けると悔しいから言わないでおこうかと思ったんだけど、」と苦虫をかみつぶしたみたいに、軽く顔を顰めた。 「最近の兵助の音には、それがあったと思う」 「え?」 「本当にお前の演奏、変わったよ。前は機械的だった。テクニックとかのせいもあるんだけど。 けど、それ以上に、心が機械的だった。腕を上げるのに一生懸命なんだろうな、って分かってた。 経済事情が大変なんだって知ってたからさ。でもさ、兵助の演奏、正直な所、見ててすごく辛かった」 「辛かった?」 「うん。ちっとも、楽しそうじゃなかったから」 心臓が小さく鳴った。竹谷の演奏を聴いた時、「本当にピアノが好きなんだ」と自分の心までもが浮き立った。そのことと同時に、思い出した。初めて、俺がヴァイオリンに触れた時の事を。難しくて、弓を引いたはいいが工事中の騒音かってぐらい変な音しか出なくて。それが悔しくて悔しくて、何度も練習して。音を紡いだ瞬間、体が打たれたように震えた。すっかり、忘れてた。あぁ、そうだ。俺はヴァイオリンが好きなんだ。 「ほら、これ、原チャの鍵」 ジーンズに手を突っ込み、出した時には勘右衛門の掌には銀色の鍵が載っていた。 「え?」 「最近、お前さ、すごく楽しそうに演奏してた。それは竹谷の影響なんだろ。 想いの丈、ぶつけてないんだったらさ、ちゃんと言ってきなよ。行かないと、絶対、後悔する」 押しつけられた鍵の温もりを、俺はぎゅ、っと握りしめ、「行ってくる」と立ち上がった。走りだそうとする俺に後ろから「頑張れ。手、冷やすなよ」と手袋が投げつけられる。それをはめながら「ありがとな」と叫び、俺は夕闇が深まる外へ飛び出した。 *** 空気が薄い。喉に冷たい風が切り込む。ずっと走り続けていて肺は限界だった。廊下に響き渡るのは自分の足音だけだった。すっかりと夜に塗りつぶされた廊下には人影一つない。コンペの時間に間に合うだろうか。心配は、ただ、それだけだった。竹谷は必ずいる、そう信じていた。 「す、みませんでした」 何も考えず、勢いだけ扉を開ける。ば、っといくつもの視線が俺を射抜いた。一瞬、演奏中だったか、とたじろぐ。けど、どうやらそうじゃなかったみたいだ。ピアノの前にもヴァイオリンの譜面台の前にも、誰もいない。間に合わなかったか、と肩を落とした瞬間、ずっと聞きたかった声が、降り注いだ。 「兵助っ!」 「竹谷……」 俺の元に近づいてきた竹谷は何とも言えない表情をしていた。驚いているのか怒ってるのか泣いてるのか分からなかった。身勝手だって罵られるかもしれない、殴られるかもしれない。もしかしたら「もう関係ない」って言われるかもしれない。けど--------。 「もう遅いかもしれねぇけど、俺は竹谷と演奏したい」 じっと見つめていた竹谷の目が唇が、ふ、と緩むのが分かった。ピアノを弾いているときと同じ、彼の笑み。 「兵助……俺も、兵助と演奏したい」 告げられた言葉に、思わず竹谷に飛びついていた。その大きな胸に「ごめん、」と何度も何度も零す。その度に、大きくて温かな手が「いいって」と俺の頭を撫でた。-------どれくらいそうしていたのだろう「うぉほん」と下の方から咳ばらいが聞こえた。学園長にそれに各学科の教授達、応援に来たのか生徒の顔もちらほらと混じっていた。公衆の面前だったことを思い出し、慌てて竹谷から離れる。頬が熱い。きっと、顔も真っ赤だろう。 「おぬしらの絆は分かったが、さて、コンペはどうするんじゃ?」 「もちろん、受けます。お願いします」 「遅れて、申し訳ありません。受けさせてください、お願いします」 頭を下げた竹谷に、慌てて自分も頭を地面に付くんじゃないかってくらい腰を曲げ許しを乞う。しばらく「ふーむ」と難しい顔で唸っていた学園長は「よかろう。ただし、今から10分後に行う。遅刻した分も差し引かれると思うんじゃな」と、眉を上げてにやりと笑った。 「学園長! ありがとうございます! 兵助、お前のヴァイオリン、控室にあるから」 「分かった、取ってくる。学園長、本当にありがとうございます」 *** 細波のように音に空気全体に広がっていた。プロも使うホールだ。やはり音響設備の面では格段に違う。照明がぎりぎりまで絞られたステージの袖は薄暗く、隣にいるハチの顔ははっきりとは分からない。曲は終盤に差し掛かっていた。やはり、若手の登竜門と呼ばれるコンクールだ。レベルが高いのを身をもって知る。けれど、あまり不安はなかった。-----だって、隣に竹谷がいる。 「なぁ、兵助」 ふ、と、シャツの袖をひっぱられ、演奏の邪魔にならないように「何だよ」と耳元で尋ね返す。 「もし、このコンクールで勝ち上がったらさ、一個頼みがあるんだけど」 ぼそぼそと当たる彼の息にくすぐったさを覚えながら「頼みって?」と言えば、彼は少しだけ視線を逸らした。暗がりにも彼の頬が赤らんでいるような気がして、何だろう、と待ち構える。しばらくの沈黙の後、ステージの音にかき消されそうなほど小さな声で竹谷が呟いた。 「竹谷、じゃなくて名前で読んで欲しい」 「名前って、下の名前でってこと?」 「そう。だってさ、俺は『兵助』って読んでるのにさ。『竹谷』ってちょっと空しくないか?」 「いいけど、最初の自己紹介で聞いたっきりだから、覚えてないぞ」 「げ、まじで? へこんでいい?」 のけぞった竹谷に「冗談だって。竹谷八左ヱ門だろ」と笑いながら返す。「まじ焦ったし」と手で顔をパタパタと仰ぐ竹谷に「随分、古風な名前だよな。長いし」と感想を伝える。 「あー、じいちゃんが名付け親だからさ」 「なるほど。じいちゃんか。どんな人?」 「かなり豪気で面白い。今度、家に遊びにこいよ」 そう。まだ、竹谷の事が全部分かったわけじゃない。知らないことの方がたくさんあると思う。けど、こうやって、ちょっとずつ、知っていけばいいんだ。たくさん話して、たくさん笑って、時には喧嘩になって。そうやって、自分達のペースで紡いでいきたいと思う。音も、これからの道のりも。 「あぁ、楽しみにしてる」 「って、そうじゃなくて名前。長いってなら『ハチ』でもいいからさ」 「分かった。あ、じゃぁ、俺からも頼みがあるんだけど」 「何?」 「ん? 今は内緒、ってことにしておくよ」 「何それ。すっげぇ気になるんだけど。落ち付いて演奏できないって」 口を尖らせたハチの声に被さるようにして、聴衆達の割れんばかりの拍手がステージ裏にまで届いてきた。 「なー兵助。教えろって。頼む、教えてくれ」 「分かった分かった」 「で?」 「コンクールの入賞者コンサートで、ハチのあの曲、弾こうな」 「え? 兵助、今、名前っ! つーか、俺の曲!?」 「さてと、出番だな。行くか、ハチ」 そう、俺たちはまだ始まったばかりなんだ。未完成の曲みたいに----------------。 愛しちゃったよオペレッタ △ |